第三章 ここにいる
第12話
手を伸ばして、それを指さす。
「あれは、なに?」
その幼さのままに、そんな質問を幾度となく繰り返す。けれど大人たちはそれに答えてくれるときと、答えてはくれないときとがあった。
「うーん。いったいどれのことを言っているのだ? 丘か。木か。いや、葉っぱかな」
それはもう知っている。前に答えてくれたから。
わたしが聞きたいのは、「木」の上で何か小さなものを食べているもののことなのに。
「あれは、なに?」
「どれのことでしょうね……」
「よせ。構うな。その子は何か、見えてはいけないものを見ている」
「まあ、そんなこと……」
それは口にしてはならない疑問だという事実に気づいたときには、既に少し遅かった。
いつからか大人たちは、たまにそれに答えてくれる大人と、答えてくれない大人とに別れており、それはもはやどんな疑問を口にしようが変わらなかった。
取り戻そうとどんなに手を伸ばしても、届かない。失ったものはただ失ったものであり、終わってしまったものはみな、もう手が届かない場所にいってしまうのだ。
いつしか手は大きくなったが、手が届くものはむしろ減った。いつしか手を伸ばそうと思うこともあまりなくなった。あれはなに、と口にすることは、十年振りのことだった。
それは学徒として王都に旅立つ前、わたしが故郷で最後に見たものだ。
「あれは……」
丘を越えようとするところでふと振り返った先、自らの生まれ育った家に、見たことのないものをわたしは見た。家族の誰もが笑顔を浮かべる、その美しい光景。
ああ。
わたしのいない世界は、こんなにも綺麗で。
あれは、その名前をきっと、
「王国の民はいつまでも、騎士フレザリオの愛と勇気をたたえながら、幸せに暮らしました」
その物語の幕引きが好きだった。
「ねえ、フィオーレ」
目の上には熱されたタオルが載っている。子供のころは目を痛めることがたびたびで、その対処法も初めてではなかった。暗闇の中で声は続ける。
「幸せに、なりなさいね」
「んあ……?」
変な目覚めだった。夢を見ていたことはわかるが、何の夢を見ていたのかよくわからない。
変といえば、目を開いている気がするのに視界は暗いままだ。
それに、いつもよりも布団が重いような……まあ、いいか……いい匂いだし。
「んー……」
まだ少し眠い。
全身を使ってわが身を包むものを抱きしめると、んん、と布団が咳払いをした。
もしかして、まだ夢の……。
「お、おはよう」
ぱさりと目の上に載っていたタオルが落ちて、代わりに耳を赤くしたソーマさんが現れた。
思考が止まる。
止まった時計がかちかちと三周半ゼンマイを巻かれ、再び動き出す。
「んんっ!」
ばっとソーマさんから離れ、顔を覆う。
「起こしてくれればよかったのに……!」
抗議してみたが、
「起きなかったんだ。しかも離してくれなかった」
「た、大変申し訳ございません……」
わたしが悪かった。
「まあ、途中からついさっきまで、私も寝ていたから。お互い様だ」
しかもフォローされた。
身体を起こすと、マナタイト剣と個人魔導書(グリモア)が少し遅れてついてくる。見ればベルトはだらんと緩んでいた。ソーマさんが緩めてくれたのだろう。
いそいそとベルトを締め、そういえばいま何時だろう、と懐中時計を開く。
「えっ」
当初の予定だった八時はとっくに過ぎていて、ついでに一時限目の開始時刻である九時も過ぎていた。それどころではなかった。十一時だ。わたしは当然遅刻も遅刻で、それは自業自得なのだけど。おそるおそる、時計から顔を上げる。
「…………ソーマさん、今日授業なかったとか?」
「うん。まあ、一日くらいならサボっても問題ないだろう」
わたしは深々と謝罪した。
髪を整えてから、朝食だか昼食だかわからなくなってしまった食事を取りに食堂に向かう。
木目造りのそこは、つくりが古いこともあって、多くの学徒の階級に相応するような見るからにな豪華さとは縁遠い。むしろ大衆酒場に近いくらいだ。だが、テーブルに掛けられた細かな織りのクロスや装飾性と実用性を兼ね備えた焦げ木の椅子など、節々には香り立つような気品が感じられる。手の込んだコースこそ出てこないが、味も悪くなく、学徒からの評判はそれなりに良好だった。
だが、いまは片手で数えるほどしか人がいない。半端な時間の上、学徒にとっては二時限目の最中だ。当然の光景だった。
適当な席に座ると、ウエイトレスがしずしずと歩み寄ってくる。
ソーマさんが鴨肉のワイン煮、わたしがハムとソーセージの盛り合わせを注文すると、恭しく首肯したウエイトレスが奥に引っ込んでいく。
「そういえば」とソーマさんが歓談に口をあたためる構えを示す。「徹夜までしてやっていたのは、いったいなんなんだい?」
「魔法の研究がなかなか進まなくて。ひとつ、やってみたい魔法が見つかったんですけど」
「よかったじゃないか。とはいえ、気持ちはわからないでもないけど、睡眠は取ることだね」
でないとこうなる、と肩をすくめる。
「それは本当にその通りで……自分でも、わかってはいたと思うんですけど。たぶん、手を止めるのが怖いんです」
わたしは、諦めてしまったことを、もう一度やる勇気が持てないから。
わたしが思い願った魔法は、もう思い願うことのない魔法だ。
だから諦めてはいけない。諦めたらきっと、あの魔法も解けてしまう。
「……典型的なワーカーホリックだね。本当に大丈夫かい?」
「た、たぶん」
「おい、心配だな。で、どんな魔法なんだ?」
「フレザリオの聖剣って、ご存知ですよね。あれを魔法にできないかと思って」
「……それは、考えなかったな。些か観念的過ぎるから、無意識に考慮から外していた。しかしそうか。確かに、実現できれば面白いことになるかもしれないね」
「はい」
そこでウエイトレスが姿を現し、料理とパン、それにワインを供する。
大量に残す美徳が残さず食べる美徳に変わったのはここ何十年かの話で、古くからの料理店は、コースで注文しなくとも、多くの品を卓に並べる前提で、一皿の量がやや少なくなっている傾向にある。だがここでは昔からそうなのか、ある時点で変えたのか、一皿である程度まとまった量の料理が出てくる。いや、考えてみれば、生野菜を使っていることからすれば、前衛的な運営思想なのかもしれない。チーズとトマトを包むかたちで提供されたハムを見ながら、そう思った。ソーセージはハーブやスパイスが練りこまれているもので、酸味の同僚を意識しているものだろう。
ワインも、共に赤ワインだが、ソーマさんの前のものはその水面まで重く赤紫色を呈したもので、わたしの前のものは光をまぶしたような透き通る光沢がある。
「まあ、頑張って。私もいつでも手を貸すとも」
「ありがとうございます」
「再三になるが、よく寝るようにね」
わたしはそれに頷いて、ハムを口に運んだ。
ソーマさんとの食事を終え、図書館でああでもないこうでもないと悩んで時間をつぶすことしばし。三時限目の授業に間に合うように講堂に向かう。すると、講堂の前の廊下に、窓の外をぼうっと眺めているイザベルさまの姿を見つけた。
近づく足音に振り返ったイザベルさまの顔は、やや覇気に欠けていた。
「……フィオーレさん。三時限目も姿が見えないようであれば、そろそろ使いを送ったほうがよいかと思っていたところでしたわよ。どこか具合でも?」
「す、すみません、ご心配をおかけして。……寝坊してしまって」
「嘘」
「はい?」
頬を掻いていると、貫くような一言。
「侮らないでくださる? わたくしは悪意と欺瞞と策謀の世界で生きてきたの」
そういえば、記者のゲブラーさんにもすぐ感づかれたっけ。知りたいような知りたくないような技術だった。
「いや……まるきり嘘ではないんですけど。徹夜した挙句だったので」
ため息をつかれた。イザベルさまはいつもため息をついている気がする。
「睡眠不足は百害あって一利なしですわよ。いったいどうして徹夜などしたのです」
「魔法の開発がようやく一歩進んで。本当に一歩だけですけど」
「それ、一番徹夜してはならない内容なのではなくて?」
呆れ果てたと言わんばかりの目つきで睨まれる。そこから約五分に渡って、睡眠と頭脳の活動、ついでに肌や髪への云々をこんこんと説明されてしまった。適宜頷きを返しながら講堂に入り、いつもの定位置に座る。
精気を吐き出しつくす、枯れ川のひび割れのような大きな吐息。
「はぁ。ソーマと演舞の観覧をしてきた甲斐はあったということかしら」
「え、ご存知だったんですか? もしかしてイザベルさまもあの場に?」
「いませんわよ。ジャーナルに書いてあったでしょう。ソーマと黒髪の少女が、って。学徒ならわかりますわよ。貴女たち、この一週間でいろいろ話題だもの。……聞く限り、発端を作ったのはわたくしのようですけれど」
そこでひどくばつが悪そうにして、イザベルさまは視線を講壇のほうに向けた。
「……こんなはずじゃなかったのにね」
「はい?」
時報の鐘が鳴り、認知学の講師が講壇に姿を見せる。
「注意なさいね。何かあれば相談なさい。わたくしではなくとも、貴女の望む誰かにね」
「……イザベルさま?」
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