第11話
部屋に帰ってきたわたしは、帽子を掛けて、鞄とその中身をクローゼットにしまい、黒いウサギを窓際に飾って、そして本棚へと向かった。
背表紙の文字を追い、並ぶ本の隅の隅に追いやられていたその本を手に取る。やや埃っぽく、表紙を軽く叩くと中からもわっと嫌な煙が立つ。
「う、けほっ。ごほっ」
ひとしきり埃を払ってから、ようやく本を開く。
わたしが思い願った魔法は、もう諦めたものばかりだ。それにもう一度手を伸ばす愚直さは、わたしにはない。けれど、願うことすらしなかったものを、ひとつだけ思い出した。
それは、騎士フレザリオの奇跡。
受けた攻撃のぶんだけ輝く聖剣。
流転がどうとか以前に、魔法だと認識したことすらなかった。そういう剣だと思っていたし、魔法として考えるには効果が抽象的すぎる。完全再現はできないことには変わりないだろうが、ただ、似たものは作れるかもしれない。例えば、転移の魔法の応用で……。
「うん」
わたしは個人魔導書(グリモア)を開き、ペンを手に取った。
進捗は芳しいものではなかった。個人魔導書の上に五行書いては三行に横線を引き、あとから残りの二行も消すような、そんな作業だった。またじりじりと試案を潰していると、ペン先が変に突っかかったのか、勢い余ってペンが指の中から飛んでいく。
それを拾いに立ち上がって、ふと周囲がやたらと明るいことに気がついた。
「……朝?」
窓際では黒いウサギがゆるやかな色白の光に包まれている。
紛れもなく朝だった。
その瞬間、急にどっと疲れが湧いてきた。徹夜をするつもりはなかったのだけど。
なにせ、既に疲労していた眼をさらに痛めつけた結果になる。見えすぎるのは困りものだが、疲労のあまりうっかり失明などしたら、本当に目が当てられない。
焼け石に水な感はあるが、とりあえず目薬だけは差して。
やたら重い頭を抱えながら、着替えを用意して一階のシャワールームに向かう。
個室の鍵を閉め、脱衣スペースでのそのそと服を脱ぎ、冷たいタイルの上に降りて、シャワーのノズルをひねる。
冷たい水で身体を流し、しっかりと身体を拭きとってから、学徒制服に袖を通す。
頭も少しは冴えそうなものだが、どんよりとした不快感はちっとも変わっていない。
自室に戻ってマナタイト剣と個人魔導書を腰に吊る。懐中時計を開くと、時刻は六時。
どう考えても、普段食堂に朝ご飯を食べに行く八時には早い。そもそもまだ開いていないだろう。さりとて仮眠を二時間きっかりに目覚められる自信もなく、わたしは外に出ていくことにした。
まあ、コーヒーショップは探しているうちに開くだろうし、そこで時間を潰すとしよう。
歩行を足が動くに任せて、思考は魔法に投射する。
「流転……反転……ただ返すだけじゃ。やっぱり強化、じゃなくて収束が……」
それがいけなかった。夢中になりすぎた結果、どしん、と思い切り鼻先を何かに打ち据える。
いや、例えばそれが木なり建物なりであればわたしの自業自得で終わるところなのだけれど、ぶつかった相手がいろんな意味でまずかった。
背中をさすりながら振り返ったのは、薄汚れたシャツに身を包んだ女性だった。シャツもそうだが、黒いズボンも擦り切れだらけ、髪も伸び放題という散々な見た目をしている。唯一メガネだけがピカピカと輝いているのが不気味だった。
「す、すみませんボーっとしてて……って、あれ……?」
そんな女性の格好は明らかに学園の職員ではない。見覚えもないし。だが、だとすると来客証を見えるところに付けていないのはおかしい。つまり。
「ふ、不審者!」
マナタイト剣に手をかけながらザッと距離を取る。だが寝不足の身体は瞬発力に欠けており、足が足につまづき、おっとっとと転倒を回避しながらの実に不格好な後進となった。
「ああいや、待って待って待って! ボクはこういう者で」
くたびれかけている胸ポケットから名刺が取り出される。ええと。
キングマジックジャーナル、ゲブラー・ヴィ・ゴール。
「キングマジックジャーナルって、あの……」
「そうそうそう、その!」
そこそこ大手の出版社だ。社名と同名の週刊雑誌は、王都周辺の地域に広く膾炙しており、最も有名な魔法系定期刊行誌といっても過言ではない。王都の街に号外が舞っているのも度々だった。
「……不法侵入には変わりないんじゃ?」
「待ってって! 頼むよ、次しょっぴかれたら本当にマズイんだよ!」
前科持ちなの?
「ッチ、この時間なら余裕もって隠れられると思ったのになぁ。なんにせよ、聞けること聞いたらすぐに帰るからさ。ね、昨日のニュース知ってるでしょ。万能の魔女ソーマの」
「ああ、まあ……」
察するに、野次馬を呼んだのはキングマジックジャーナルだったらしい。だろうとは思っていたけれど。
しかし、わたしはわずかに想像が足りなかったらしい。彼らの勤勉さ。あるいは、ソーマさんへの注目度に関して。
「君は心当たりある? ソーマさんと一緒にいたっていう、黒髪の少女について!」
「はい?」
「なんだ知らないんじゃん。ボクらの記事もっと読んでよね。ほら」
ゲブラーさんはズボンのポケットから、洗濯したんじゃないかと疑うほど曲がりくねったメモ帳を引き抜くと、一番上の紙をさらりと一筋ペンを走らせてからちぎり取った。
直後、輝いた黄色のマナ反応光を受け、それは一瞬にして普段目にする通りのジャーナルの一ページに変わる。
「昨日配った号外だよ。えーと、ここだここ」
指さされた場所を目で追うと、そこには確かにそのような旨の文章が書かれていた。
曰く。ヴィ・ステルメン演舞場で目撃された万能の魔女ソーマには、孤高の彼女には珍しく連れ合いがいた。残念ながら黒髪の少女という情報以外には不明瞭ですが、黒ということでフレザリオを連想してしまいますねー、とかなんとか。
速さと広さがウリで正確性は二の次の彼らにしか出せない、クリティカルヒットだった。
「どう? 最近ソーマと仲良さそうな黒髪の学徒とか……そういや君も黒髪だね」
「そう、ですね。わたしも、お話する機会はありますけど。休日にお出かけするほどでは……」
極限まで感情を殺して答える。が、それでも何かが漏れ出ていたのか、ゲブラーさんの瞳がキラリと艶めく。
「ほうほうほう。ソーマとはどんな話をするのかな」
「え? いや、えっと……」
「交友があるのは事実だが」
と、そこに割り込んでくる、朝の空気の中ではいつも以上によく通る声。
「彼女には手を出さないほうがいい」
ソーマさんだった。まだ朝の支度が済んでいないのか、制服こそ着ているものの、髪はセットされておらず、前髪の一部が目にかかっている。
「おお、これはこれは! 本人からの言質!」
「そ、ソーマさん……?」
「私からの親切な警告の理由は訊かなくていいのかい?」
「ほうほうほうほう、ぜひとも聞かせていただきたいところですねぇ!」
「彼女は私の友人である以上に、イザベル・リンデ・イナスチア・ノルボースの友人だよ」
興奮に息を荒げながらメモ帳を開いていたゲブラーさんの顔からすっと色が消え、ペンとメモ帳をポケットの中へと突っ込む。
「事実だとすれば、貴女の交友と合わせて半年は話題はさらえるのに。記事にできないのが残念でならないですよ。忠告感謝します。では、ボクはこれで」
そのままゲブラーさんは踵を返し、創造魔法で足場を作って外周の柵を越えて姿を消した。
「え、えっと……?」
状況をうまく掴めないでいると、ソーマさんがくつくつとのどで笑う。
「予想以上に効果てきめんだったね。まあ、イザベル嬢は彼らにとって笑えない存在だ。無理もない」
ぱちん、とソーマさんが指を鳴らすと、黄色い干渉光に諭されて、飛び出した足場が元の大地に戻る。
「どういう意味ですか?」
「私も詳しくは知らないけどね。一度、うっかり彼女の尻尾を踏みつけた雑誌があったらしい。だが実際の記事にはならなかった。なぜなら記者がデスクに戻ったときには、その出版社に所属する全員の家族構成と魔法的性質、果ては個人の歴史に至るまで、事細かに記載された一冊の本が机の上に置いてあったからだとさ」
怖っ。
でも、現実の出来事というよりはただの怪談みたいに聞こえる。もしかしたら、イザベルさま自身が自衛のためにわざと流した噂かもしれない。
とはいえ、おかげでわたしも助かったのは事実のようなので、感謝しておこう。
「彼女の出版社でも半日後には同じことが起こっているかもね。しかし、どうして君はあの記者に絡まれてたんだい?」
「昨日の号外で、ソーマさんの隣に黒髪の少女がいたと書かれたとかなんとかで……」
受け取ったままだったジャーナルをソーマさんに手渡す。
「……ああ、なるほどな。フレザリオか。正体が気になるのは誰もが思うところではあるけれど、もしそれで中身がイザベル嬢だったら、いったいどうするのだろうね?」
「あ、あはは。ありがとうござました、ソーマさん。助けてくれて」
「気にしないでいい」
ふわ、と欠伸を噛み殺しながら、ソーマさんはひらひらと手を振ってみせる。
「さて、朝の支度に戻るかな」
「あ、それじゃ、わたしはこれで……」
「待て、支度をするのは君もだろう。そんなクマのまま行く気かい?」
「へ?」
「まったく。ほら、来るんだ」
ソーマさんに手を引かれて、寮へと連れ帰らされてしまう……中で。
ぞくりと視線を感じた。突き刺すよりももっと強い、突き殺されるような視線。
思わず周囲を見回すが、ソーマさんが不思議そうな顔をするだけで、特に何も見つからなかった。普段ならもっとはっきり方向までわかっただろうが、いまのコンディションではそこまでには至らない。あるいは逆に、疲れすぎた目だから見た幻覚かもしれない。
ここはおとなしくソーマさんに手を引かれておこう……。
そうしてわたしはソーマさんの部屋に連行され、ベッドに座らされた。ふんわりとした質感を前に身体が勝手に横たわろうとする。
ソーマさんは薬缶を片手に、その下に火球の魔法を発現させて湯を沸かしている。うらやましい。火を扱う魔法のほとんどには破壊適性と創造適性双方が必要だ。
ただ、そんなことより、辺りは相変わらずの本の山なので、少し怖い。
幸い飛び火することなく湯を沸かし終えてくれたようだが。
そして、薬缶を手に流しに向かったソーマさんは、ほかほかと湯気の立つタオルを手に近づいてくる。意図はすぐにわかった。
まずい。そんなことをされたら本当に眠ってしまう!
慌てて腰を上げようとするが、ソーマさんのほうが一手早かった。狙い過たずわたしの視界がタオルで覆われ──けれど、浮かびかけた腰に何の意味もなかったわけではなかった。
「お、っと」
小さな焦りが声に乗り、直後、真っ暗闇の中で、わたしの身体が押し倒される。
眼窩をじんわりと温める熱感。重くも軽くもない人間ひとり分の重みと、硬くも柔らかくもある筋肉と脂肪、というか胸の感触。そして身体が横になったという事実からくる眠気。
それらすべてが等量にないまぜとなり、混沌的な幸福感が脳髄をどろどろに融かしていく。
けれどそれらはソーマさんが身体を起こせばそれで終わるはずのもので、
「すまな……ん?」
それが終わらずに、ソーマさんがわたしの首元で鼻をすんすんと鳴らし始めたことで、解放の未来は破綻した。
「同じだ……」
何が、と抱いた疑問すらじくりと熟れて、わたしはただ甘やかなる睡眠に耽溺する。
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