第10話
激化馬車は、馬や車輪の速度を激化魔法で強化することで、常識外の速度を確保した馬車だ。
存在理念上、馬それ自体を酷使する上での強化であり、その速度は通常の馬車の四倍ほどになる。
当然、速度以外はいろいろと犠牲にする。それは価格であり、乗り心地であり、それらは四倍どころか十倍くらいには悪くなる。だが、いまは速さだけあればそれでよかった。
王都までに二十分、そこから準備に三十分かかった。そしてヴィ・ステルメン駅にもうすぐ二十分でたどり着く。おそらく、正午にはギリギリ間に合うくらいだ。
「……それでも、魔法は終わらせないから」
黒衣の礼装に不具合がないのを確かめる。
ブラウスが明らかに下に着るものではない関係で若干着ぶくれているが、元々サイズには余裕があったので、そこまでのものではない。むしろ男性の腕としてはこのくらいのほうが適切かもしれない。唯一、この格好には不釣り合いすぎる鞄をマントの裏に隠しているのは少し不安だが、合流のことを考えればこうするしかなかった。
駅が見えてきた。
仮面を付ける。
視界の大半が黒に覆われ、心がゆっくりと静まっていく。まるで魔法だ。
そして馬車は、すさまじい土煙を挙げながら駅に滑り込んだ。その速度が完全に零になるよりも早く、僕は馬車を飛び出した。御者が声を上げかけたところに大声を被せる。
「運賃は座席に置いてある!」
迷惑そうに馬車に注がれていた周囲の客の視線が、驚愕に変わるのを感じた。けれどいつもとは違ってそれは壁一枚を隔てた遠くでの情動であり、僕は世界の色には囚われることなく、転移を繰り返して雑踏の上を抜き、家々の屋根の上を走って、演舞場までの道を急いだ。
見上げた太陽はほぼ南中にある。歯を噛みしめ、その大空へと転移。
塔の上から望むがごとく、広い街がざあっと一面に広がる。すぐに身体は落下し始め、視界は激しく揺れ動いていく。だが、遠くであればあるほどその影響は少ない。
眼窩の神経をぎりぎりと引き絞り、視界の中心にはっきりと演舞場を捉える。再び転移。
目の前に現れた演舞場の入り口は、メインストリート以上に人でごった返していた。
「おい、あれ──」
何人かの人間が僕を指さし、大口を開ける。そんなことはどうでもいい。
僕の真下にいた何人かの人間を適当にそこらの空中に転移させ、空いたそこへ、連れてきてしまった重力を叩きつける。流転保護が落下の衝撃を周囲に散らし、先に転移させた人間の周りと合わせて、何個か保護宝珠が発動するのが見えた。自由落下の乗った膝蹴りを直に食らうよりはマシだったと思ってもらおう。
「すまない!」
せめてもの謝罪だけ口にしながら立ち上がり、周囲を見渡す。すると、にじり寄ってくる野次馬たちの向こうに、ソーマさんの姿を見つけた。だがイーチナさんがいない。
ソーマさんの横へと転移すると、声を上げてソーマさんは大仰にのけぞる。
「やあ、フレザリオ。まさか君にこんなところで会えるとは思わなかったな」
「ユーレリアという少女を知りませんか?」
「……彼女に会いに来たのか?」
一瞬様々な感情がその顔をよぎる。最終的にソーマさんは真剣な表情になり、ぐいと僕の首に手をやって顔を近づけさせると、耳元でささやく。
「裏路地にいる、金火草色の髪に青い目の、背の低い少女だ。君なら見つけられるな。……しばらくここの野次馬は請け負うよ。元々そのつもりで来たからね」
「感謝を」
上空に転移すると、背後でソーマさんが「我が友よ! 鳥、ネズミ、ウサギの場所だ!」と呼びかけているのが聞こえた。どうやら、探すまでもないようだった。
空中転移を繰り返し、路地裏の一角に降り立つ。
そこはメインストリートの喧騒からは完全に切り離されており、周囲は二人と別れたときと全く同じような静けさに包まれている。一点、完全に南中を迎えた太陽が路地にも光を届かせていることだけが差異だった。
イーチナさんは店先に並べられた動物たちを眺めている。
どうやら陳列されている動物はかなり数が増えているようだ。気合いの入った店主が在庫を出してきたのかもしれない、と思ったが、イーチナさんの背後まで来てみると、窓越しにカウンターで居眠りをしている店主が見えた。気合いはあまり続かないタチらしい。
「こんにちは、小さなお嬢様。君がユーレリア姫で、間違いないですか?」
振り返ったイーチナさんが、ぴしりと動きを止めた。慣性に従って、その掌の上にあったワタリガラスが落下しかけたのを、転移の魔法で捕まえる。
「……姫。落としましたよ」
もう一度その手に握らせてやると、目の前でイーチナさんの顔がぼっと煙を吹いた。
や、やりづらい。じゃなくて。
「ソーマ殿から聞きました。僕のために、戦ってくれたそうですね。その応援、ありがたく頂戴します。本当に、ありがとう。ですが姫。姫のために騎士が傷つくことはあっても、その逆はあり得ないのです」
「え、あ、あの、あの!」
「貴女はただ、思ってくれるだけでいい。それだけで、騎士フレザリオは戦えますから」
ぱくぱくと口を開けては開きを繰り返していたイーチナさんが、急に機敏な動きでリュックの中身をその場にひっくり返した。マナタイト剣や白い仮面、無数の本をはじめ、様々な物がその場に散らばる。
「ひ、姫?」
「サイン!」
しかしてイーチナさんはその中から秒と迷わず、一冊の本を掴み上げた。ついでにペンも。
「サインを、お願いします!」
「あ、ああ。サインか……考えたことがなかったな。ご期待にそえるかはわかりませんが」
本とペンを受け取る。
その本の題名は、フレザリオ・ロンド。この国に古くから伝わる、騎士フレザリオの物語。
表紙をめくり、少し迷ってから、見返しにペンを走らせる。
騎士フレザリオからユーレリア姫へ。愛をこめて。
「これで大丈夫でしょうか?」
「は、はい! はい! ありがとうございます!」
受け取った本を抱いて、何度も繰り返し頷いてはお辞儀をするイーチナさん。
「お会いできてよかった。僕のほうこそ、ありがとう」
最後に騎士の敬礼をして、転移の魔法でその場を去った。裏路地の中でも人目につきにくそうな行き止まりに降り立ち、仮面を外す。
津波のように視界に情報が氾濫し、思わず頭を抱えかける。
いや、いまは早く着替えないと。鞄の中から元着ていたスカートと帽子を取り出し、マントと礼服を脱ぐ。上はブラウスを着ていたからいいとして、ズボンを下ろすのにはさすがに少し抵抗があったが、誰にも見られていないと言い聞かせて、速やかに着替えを済ませた。
マントと礼服をシワがつかないように丁寧にたたんで、鞄にしまう。帽子を頭の上に乗せ、ようやく、肺腑に溜まっていた息を吐きだした。壁に背を預け、目元を揉みながら天を仰ぐ。
「……目が痛い……」
さすがに酷使しすぎた。演舞には目薬を持って臨むのだけど、さすがにそこまで気を回す余裕はなかったので、いまは用意していなかった。
目頭を抑え、呼吸が整うのを待ってから、わたしはイーチナさんのいる店の前まで戻る。
イーチナさんは先ほど最後に見たのとまったく同じポーズのまま、リュックが吐き出した山の前に立っていた。
「い、イーチナさん? これはいったいどうしたんですか?」
白々しくもそんな声をかけながら、彼女に近づいていく。
「あの……」
「フィ、フィフィフィオーレ様!」
「はい、なんでしょう!」
突然がばりと抱きつかれ、思わず身体を硬直させる。けれどイーチナさんにしても別に抱き着きたかったわけではなくて、身体の動きに足がついていなかったみたいな、たぶんそんな感じの転倒だった。
「い、いま! フレザリオ様が! これ!」
虚空を指さしたり、フレザリオ・ロンドを開いてみたり、コマ送りのようにいくつかの動作を反復するイーチナさんを前に、思わず笑いが湧いてきた。
「イーチナさん。まず落ち着いて。深呼吸を……」
と、そのとき、背後でどさりと何か重いものが落ちてくる音。肩を震わせながら振り返ると、そこには荒い呼吸を繰り返すソーマさんがいた。
「そ、ソーマさん? どうしたんですか」
「ああ、フィオーレ。来ていたか。いや、野次馬を撒くのに、フレザリオに倣って連続転移をしてきたんだが……やはりこれはきつい。数回が限度だぞ、まったく」
ソーマさんは一度大きく息を吐きだし、もう一度同じ量を吸い込んだ。
「それで、悪いが、私はここで失礼するよ。昼食の約束を違えるのは申し訳ない限りだが、いかんせん野次馬が多すぎる。フレザリオの目撃もあるし、これからさらに増えるだろう。このまま一緒にいては、イーチナとユーレリアの関連性を疑われかねない。というか君らも、できれば別の街に移動したほうがいい」
「わかりました。すごい人だかりでしたもんね」
「それじゃ、あとは二人で楽しんでくれ。では、また」
軽く手を挙げて、ソーマさんはメインストリートに向かって駆けていった。
それを見送ってから振り返ると、イーチナさんはようやく過度な興奮が過度ではなくなったようで、撒き散らされた鞄の中身をいそいそと拾い集めているところだった。
わたしも手伝いに入る。
「すみません。私、いろいろと、感極まってしまって……というか私、フレザリオ様の前で何をっ」
「ま、まあまあ。あとでゆっくり聞かせてください。いまは街を離れたほうがいいみたいです」
「そうですね。ソーマ様もそう仰っていましたし」
荷物を片付け、さあ出発かと思いきや、イーチナさんがぱっと身を返し、店の中の店主の腕の下に硬貨を置いて出てきた。そして、動物の群れからやや離れた位置に転がっているワタリガラスを大事そうに手に取った。
「それは?」
「フレザリオ様です。いつかお渡しできたらいいなと思って」
「……そうですね。いつか」
「お待たせしました、行きましょう!」
イーチナさんがリュックを背負い上げる。
わたしたちは、出来る限り路地裏を使って、駅までを急いだ。
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