第9話 貶めてはいけないもの

 観客席から演舞場の端へと続く小さな階段を下り、足音は入退場用の通路をたどっていく。

 暗い通路の先にやがて三つ四つ部屋が現れ、そのうちのひとつを騎士は示し、元来た道を戻っていった。

 ソーマさんが扉をコンコンと叩く。

「……ユーレリア。私はソーマ・ヴィ・クラインという。差し出がましくも、先ほどささやかな助力を行った者だ。入っても大丈夫だろうか」

 少しの硬直と、続く激しい物音が扉の向こうから伝わってくる。

 やがて扉はゆっくりと開かれ、中から純朴な顔つきの少女が姿を現した。

「い、イーチナ・セリカ・アルフゥリです。お会いできて光栄です、ソーマ様。あ、その、ユーレリアは、お察しの通り、芸名でして」

 特に隠すでもなく彼女はあっさりと白状して、そのまま言葉を続ける。

「あの、もうすぐ片付け終わるので、ほんの少しだけお待たせしてもよろしいですか? 次の人ももうすぐ来ると思いますし」

「ああ、確かにそのほうがいいかな。でも、特別に急ぐ必要はないよ」

「はい、すぐ終わらせます!」

 がたん、と扉が閉まり、再び中から大きな物音が散発し始めた。

「急がなくていいって言ったのに」

 少なくとも、良い子だろうことは間違いなかった。

 やがて、一分かそこらでイーチナさんが再び現れた。その背には、ところどころほつれているが、わりにしっかりしている巨大なリュックを担いでいる。

「お待たせしました。そ、それで、いったいどのようなご用件でしょうか……?」

「いや、用件というほどのことはないんだが。その……大丈夫だったかい?」

「あ、はい。おかげさまで。でも、元から覚悟はしてましたから。どんな非難を浴びるとしても、どうしてもユーレリアとして演舞に出たかったんです」

「理由を聞いてもいいですか?」言葉が口を衝いてから、ずいぶんと唇が渇いていることに気づく。「あ、ごめんなさい。わたしはフィオーレ・ララベルです」

「フィオーレ様ですね。あれ……どこかで、お会いしましたっけ?」

「初対面だと思いますけど……わ、わたしが忘れてるんですかね? ごめんなさい!」

「い、いえいえいえ! 私の勘違いです、きっとそうですごめんなさい!」

「……君たち、ちょっと似てるね」

 ソーマさんの言葉にしばらく顔を見合わせていたが、わたしはふと次の演舞出場者と見えるローブ姿の男性が少し離れた場所に立っていることに気づく。わたしたちはそそくさと扉の前を明け渡し、出場者用の入り口になっている演舞場の裏口へと向かった。

「え、えっと、なんでしたっけ……あ、ユーレリアになった理由でしたよね」

 ことことと小さな歩幅が伸びるたび、わたしのとなりでリュックが左右に揺れる。

「フレザリオ様に、諦めてほしくないと思って。応援してるって伝えたくて」

「え?」

 大荷物に反して器用に身体を翻したイーチナさんは、プラスとプラスとプラスの感情を掛け合わせたみたいな、彼女自身にもどうしようもないだろう巨大な感情をありありと浮かべる。

「だって、フレザリオ様はミステリアスな王子様ですから! なので直接お会いするのは無理かと思って、ですね。でも、きっと、ユーレリアって名前なら、気づいてくれると思ったんです。お二人はご存知ですか? フレザリオ・ロンド!」

「ああ。もちろん」

「わたしも、好きなお話です」

「私も、子供のころからずっと好きでした。騎士フレザリオみたいな、かっこいい騎士になりたくて、魔法使いを目指したんですけど……私の適性は、流転の二級が最高でした。だから、一度は、諦めてしまったんです。でも、それから、フレザリオ様に出会ったんです! おかげで、たくさんの勇気を、貰えました。私も頑張ろうって思えたんです。でも」

 一呼吸置いたところで、わたしたちは裏口を潜り抜けた。暗所にずっといたからか、ただ日が差しているだけの世界がとても眩しく感じる。

「でも、先週、フレザリオ様が、ソーマ様に負けてしまったとき……嫌な雰囲気を、感じたんです」

「雰囲気、ですか?」

「いつも堂々としていたフレザリオ様が、なんだか、とても落ち込んでいる、というか……諦めている、みたいに、感じたんです」

 思わず、驚愕を張り付けた顔をイーチナさんのほうを向けてしまう。幸いイーチナさんは俯いていて、わたしの挙動不審に気づく様子はなかった。

「たぶん私が勝手に妄想してるだけなんですけど。でも、私はたくさん、これまでたくさん、諦めてきたので。それと同じ雰囲気を、感じてしまったんです。だから、応援です! たとえ自己満足でも、なんとか応援したかったんです! ……本当は、演舞に優勝できたらそれが一番よかったんですけど。やっぱり、初めてじゃうまくいきませんね」

 にへら、と力なく笑って、イーチナさんは話を終えた。

「本当に初めてだったのなら、魔杯演舞の予選を通過しただけでも、驚くべき偉業だと思います」

「ああ、まさしくその通りだ。君は誇っていい」

「あ、ありがとうございます、えへへ。フレザリオさんには、届いたでしょうか?」

 きっと、とわたしは答えた。期待は、痛い。わたしは本当に、彼女に応援されていい人間なのだろうか? 届かなったわたしが。

 ……駄目だ、と思った。このままでは駄目だと思った。

 だってわたしは、諦めたら、二度とそれに触れることはなくなってしまう。その素直さをわたしは持てなくて、だからわたしは諦めてはいけないのに。

 ケイロスの光線を諦めた。破壊適性の不足だ。だから破壊適性の要求値を下げたアレンジを作って、満足した。

 家を諦めた。逃げ出すように王都まで、何日も馬車を乗り継いだ。それから手紙すら書いていない。

 そしてわたしは、ソーマさんに負けたとき、いったい何を諦めようとしたのか。

 そしてわたしは、イーチナさんを諦めたらどうなるのか。

「元気づけるつもりが、諭された気分だな。ファンも悪いものじゃないかもね」

「……そうですね。本当に」

「いや、あるいはファン層に偏りがあるのかな。フィオーレ然り、イーチナ然り、フレザリオのファンにはどうもいい子が多い気がする」

「どう……でしょうね」

「もったいないお言葉です……」

 生返事を返しながら、代わりに頭を必死に回していると、メインストリートが見えてきた。

 一時間前と比べればいくらか動き出してはいるものの、まだいまいち乗り切らないような日曜日の空気に満ちている。唯一明確に違うのは、匂いだ。

 まだ開店こそしていないが、飲食店は本格的に開店準備を始めたらしく、出汁や煮込み料理の芳醇な香りがそこかしこに満ちている。

「イーチナ。君はこれからどうする予定なんだい?」

「えっと、お昼まで適当に街を見て回って、ご飯を食べたらノルボース領に帰ろうかと」

 イザベルさまの家が治める土地だ。カレザナ領とは隣接している。ノルボース領のどこかにもよるが、おそらくはここから王都までと大差ない距離だろう。

 だが、あなたの土地の領主の娘さんと知り合いですよ、なんて口に出したらイーチナさんがどう反応するかなんてことはわかりきっていたので、わたしもソーマさんも、あえて取り挙げたりはしなかった。

 代わりにソーマさんは鷹揚に頷いて告げる。

「そうか。それではお昼は奢ろう。敢闘祝いだ」

「え、ええっ! そんな、悪いですよ!」

「悪いが、君が嫌だと言わない限りは私は退かないよ。フィオーレも、それでいいかな?」

「はい」

 イーチナさんとの時間が伸びることは、わたしにとってもありがたかった。

「それで、お昼までは……どうしましょう」

 言葉を繋ぎながら、ようやくそこで思考が固まる。

 どこかで、抜け出そう。それに都合がいいのはどこだろう。

「ふむ。イーチナは、どこか当てはあったのかい? 私たちは特に調べずに来てしまったから」

 ソーマさんに距離を詰められていくイーチナさんは、ぐるぐると目を回していた。

 気持ちはわかる。

「メインストリートはもう少し後のほうがいいですよね? ……裏路地を見てみませんか?」

 イーチナさんは無邪気に、ソーマさんは意外そうに、同じような首肯を返した。

 かつかつと耳にも心地よい石畳を歩き、メインストリートから少し横合いにそれると、足場が急に悪くなる。石は敷かれているが、メインストリートのそれと違って規格化が行われておらず、本当にただ石を敷いただけだ。

 道幅もやや狭くなり、建物の陰になって日光が入ってこれず、どこかじめっとした雰囲気を醸し出している。

 立ち並ぶ店も飲食店があまり見えなくなり、代わりに彫刻や絵画といった形体芸術に遷移していく。創造属性魔法の存在から、このような形体を問う手の文化は、需要と供給が崩壊してしまっている。創造魔法を使えさえすれば誰でも作れるのだから、無理もない。ある意味芸術における流転魔法と呼べるかもしれない。

 商品管理にもそれらは表れていて、店先に出されている台の上に適当に並べられているものも多い。盗むなら盗め、という感じだが、盗む人間なんていないし、盗まれたところでどうともならないのだろう。

 けれどソーマさんは実に興味深そうに、それらをためつすがめつ眺めていく。

「ソーマ様は、その……こういったものにはお詳しいのですか?」

 イーチナさんがちょうど訊きたかったことを訊いてくれた。

 が、返すソーマさんはざっくばらんに。

「いや、ぜんぜんまったく」

 妙な恰好をした狸の置物を手に取りながら、でも、と続ける。

「こういうのは、精良も稚拙も、結局見る人間次第だからね。知識があるならそれでもいいだろうが、ないからこそ楽しめるものも、きっとあるよ。ほら、これなんてフィオーレにそっくりじゃないか?」

 差し出されてきた手の上には黒いウサギがちょこんと鎮座していた。安っぽい陶器だ。どことなく不服そうな顔つきをしている。これがフィオーレ・ララベル。

「そう……ですかね?」

「あはは、ちょっとわかります」

 意外にも同意意見が出てきた。

「こっちはイーチナかな」

「ね、ねずみ……?」

 厳密にはハツカネズミだ。確かに雰囲気はある。小さくてちょろちょろとしていて、けれど生命力に満ち溢れているところとか。自分だといまいちよくわからないものなのかもしれない。

 ずらりと並ぶ掌大の動物たちをじっと見つめてみる。確かに、簡単で不器用だが、どこか本物の生物とは違う、作り物だからこそのあたたかさを感じる気がした。

 そんな中に、ふと、色合い鮮やかな小鳥を見つける。第一印象は間違いなく巨大な鷲だったのだけど、いまはこちらのほうが正確な気がした。その小鳥が、ふとイーチナさんの小さな手につままれて、空を飛ぶ。

「じゃあこれは、ソーマ様です!」

「うん? うーん……」

 例に漏れず、本人は納得いっていなさそうだった。

 店の中の作業台で眠りこけていた店主を起こして、それぞれに選ばれたものを購入する。店主はソーマさんの顔を知っていたらしく、まさに青天の霹靂といった感じで、しきりに自分の頬を叩いていた。それでもやがて、夢なら夢で楽しむことに決めたのか、店主は急に饒舌になり、ソーマさんの演舞のあれこれを語り始める。

 対応に時間を取られているソーマさんの横でひとつずつ言い訳を考えて、わたしはそっと口にする。

「ソーマさん。イーチナさん。すみません。わたし、演舞場に忘れ物してきちゃったみたいです」

「それは大変だ。すぐに向かおう。あ、いや、イーチナさんは……」

「私ももちろんご一緒しますよ!」

 ふんすと決意表明。ありがたい話だが、いまに限ってはありがたくなかった。

「あの人出だと、見つかるかもわかりませんから。そうですね、正午になったら諦めますから、そのときに迎えに来てもらえませんか?」

「しかし、ひとりで探すより──」

「ソーマさん。お願いします」

「……ああ。いや。そこまで言うなら、わかった。見つかることを願ってる」

「ありがとうございます」

 一礼して駆け出すと、路地裏の細かな通りはすぐに二人を見えなくした。

 そのまま路地裏を走り抜けると、メインストリートは嘘のような量の人でごった返していた。何度も人にぶつかって怒鳴られる中で、万能の魔女ソーマがどうとか、ユーレリアがどうとかいう話が断片的に聞こえてくる。察するに、記者が面白おかしく書き立てたのだろう。

 二人が心配だが、ソーマさんはこの手のことには慣れているだろうから、そこは彼女の嗅覚を信じる他ない。

 わたしには、わたしにしかできないことがある。

 ようやく駅に辿り着いたわたしは、息を整える暇も厭って駅員に向かって叫ぶ。

「王都まで、激化馬車を!」

 フレザリオを汚すな。

 それはイーチナさんではなく、わたしに向けられるべき言葉だから。

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