第5話 やっぱりわたしはダメだから
やがて長い遊覧は終わりを告げ、わたしたちは寮の玄関付近へと着陸する。
見上げた学徒寮はつい先ほどまで見下ろしていた優美なだけの存在ではなくて、はっきりとした物質としての強さ、雄大さに満ちている。
住居としては頼れるに越したことはないけれど、どこか圧迫感があるのも事実だ。
「君の部屋は?」
「あ、はい。ご案内しますね」
玄関を抜けて、一階は炊事場やシャワールームといった共用スペースだ。
入寮は希望制で、毎年それなりの数に人が入る。だが、その中には研究室として、あるいはいっそ物置として使う目的も多く、貸し与えられている部屋数のわりに、一階に人の気配を感じることは少ない。ソーマさんのあの部屋は……どっちだろう。
ともあれ、学徒層からして金銭的にはわりかし余裕があるので、彼らは普通に街でもっといい部屋を借りているのだった。わたしとしては、実家にあまり迷惑をかけたくないし、別にここでも普通に生活できるし、という感じだけど。
階段を上り、三階、五番目の部屋。
ポケットから取り出した鍵を回し、扉を開く。
「どうぞ」
「ああ、お邪魔しよう」
ソーマさんに続いて部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。ソーマさんは初めて入る雑貨店に対するそれのように、視線を右へ左へ動かしながらゆっくりと歩を進めていた。
「私の部屋とは大違いだ」
確かに、本の山がうずたかく積まれたあの知識の殿堂からはかけ離れている。
さりとて、普通の女の子みたいに可愛く仕上げてみたり、仮にも貴族令嬢らしくと教養や自然に枠を割いてみたりということもなく。
備え付けのベッド。クローゼット。テーブルと椅子。チェスト。デスクと本棚。暖炉の上には本棚にはわずかに入りきらない本と、茶葉や焼き菓子の缶が並んで置いてある。
使うものを使うだけ置いてあるだけ。決して物が少ないわけではないのに、どこかがらんとした空虚さに満ちている。
わたしの部屋だった。
ソーマさんに着席を促してから、わたしは水場の上の収納からティーセットを取り出して、ポットに水を入れた。
じっと集中すると、ぱちん、と青白いマナ干渉光を振りまいて水が熱される。
破壊属性で火を焚くほうが魔法としては簡単だが、わたしの場合は適性との兼ね合いでどちらも似たようなものだった。
お湯の用意が済んだら、一式をトレイに載せて、ソーマさんの待つテーブルへ。
ガラスのティーポットに茶葉を二振り入れて、お湯を注いで蓋を閉じる。透明な容器の中で茶葉が下から上へと吹き上がる様を見るのは、わりと好きな時間だった。
クッキーを缶から小皿へと盛り、テーブルの中央に置く。
「よかったら、どうぞ」
「ありがとう。手慣れているようだね」
「イザベルさまと、たまにお茶をご一緒するので」
「確かに、彼女には似合うかもね」
実際、イザベルさまにはティーカップがよく似合う。棚で受け皿の上にのっているより、イザベルさまが取っ手に指を通しているほうが標準じゃないかと思うくらいだ。
でも、ソーマさんも負けていないと思う。
「しかし意外だったな、彼女。私でも名前は知っていたのだけど、抱いていたイメージとはだいぶ違ったよ。いや……うん。なんでもない」
どう、だろう。わたしの場合、イメージを抱く前に実物にお会いしてしまったので、わたしの知っている以上のイザベルさまを知らなかった。
「さて。それじゃ、スケジュールの話をしよう。日曜日はもちろん授業はないが、お互い予定が入ることも多いだろう。暇が重なればいいが、基本的には別の曜日を定例としたいね」
「木曜日は五限があるので、少し時間が取られるかなと。あとは、それなりに空いていると思います」
「ふむ。それでは、火曜日の十七時からはどうだろう? そこで会ったときに、お互いの今週の予定から入れられそうなところに一日、二日加えるような形だと、柔軟に対応できると思うのだけど」
「じゃあ、それでお願いします」
火曜日って、今日か。
四時限目終了直後に空を飛んできたので、せいぜいまだ十六時半だろう。そう思いつつスカートのポケットから懐中時計を取り出すと、誤差は二分程度だった。第一回は初回拡大版といったところか。
ソーマさんもそのつもりのようで、マナタイト剣を吊っているベルトごと帯剣を解き、椅子の横へと立てかけた。ごとん、と重量感のある音が鞘の先を受け止める。
「そろそろですかね」
蒸らしを終えた紅茶を、ふたつのティーカップに交互に少しずつ注いでいく。
染み入る琥珀色は骨灰器特有のとくりと息づくような白と合わさって、香りと色をくゆらせながら、無感情な部屋をあたためる。
「ありがとう」
やっぱり、それはソーマさんにもよく似合っていた。
「美味しいよ」
「それはよかったです」
頷いたソーマさんは、紅茶を一口含み、喉で味わうみたいにゆっくりとそれを嚥下してから、また口を開く。
「さて……それじゃ、記念すべき第一回といこう。君は、流転属性とはなんだと思う?」
「な、なにといわれても。えっと……、『移し替える』魔法、ってことですか?」
それが流転の本質だ。
転移は視覚的にもわかりやすい。空間と空間を入れ替える魔法。ケイロスの光線は、周囲の光を奪い取り、任意箇所に転移させたそれを、破壊属性を添加して一方向に打ち出す魔法だ。
光は突き進むに従って自然と熱を生み、遠距離で当てるほど大きな威力を生む。もちろん、それをマナタイトにまとわせるアレンジも『移し替え』で成り立っていた。
ついでに、お湯を沸かすのは、極小規模のケイロスの光線魔法だ。鳥を捌くのに牛用の刀を使うようなものだが、わたしは火の魔法は使えないので。そこで考えると、火を伴わない熱は地味に貴重だったりもする。
「流転は『移し替える』魔法……あくまで移し替えるだけで、環境の性質、総量には作用できない。だから、流転は操作として弱い。これまでの論理といえば、おおむねそのような感じだったね」
論理というか、それは単に事実だと思う。
「さらに言えば、物と物を交換するような移動には差し障りもないが、物を何もない空間に移動させる、転移の魔法のような操作の場合、難易度が恐ろしく高くなるという点も無視できない」
「……認識の問題ですよね」
見てそれとわかるもののほうが、当然魔法では作用しやすい。
実は、難易度の高い転移を避けるために、投げた小石を対象に置換の魔法を行う、といった手を使えば、瞬間移動という結果は比較的容易に再現できる。
しかし、実用性は微妙だった。石を投げる動作は隙だし、そもそもの話、置換の魔法の準備であることがバレバレだ。瞬間移動した先に攻撃を用意されていては、移動する意味がない。
もちろん、地面に置いてある石に転移したら地中に埋まってしまう可能性が高いので、それも駄目だ。
「だが、フレザリオは転移を呼吸でもするかの如く頻用する。彼が乗り越えてしまった流転属性の常識のうち、最も大きなものはあれだ。転移は取り回しが悪いから脅威にならないのであって、ああも自由自在に使われてはね」
こそばゆいような痛ましいような感覚に耐えかねて、口をはさむ。
「でも、ソーマさん、勝ってましたよね?」
「見てくれてたのか。まあ、そこはね。どこにいるのかわからないなら、広範囲に攻撃していけばいつかは当たるだろうと思って」
まあ、そういう力技をぶつけられると詰んでしまうのは確かに流転属性という感じだけど。
……あのときは、そんな雑なものじゃなくて、もっとはっきり狙われてたと思うんだけどな。それこそ、転移先を読まれてるみたいな感じで。
「とにかく、彼の転移は、これまで限界だと考えていたラインを超えた流転属性が、いかに振る舞うかを教えてくれた。補助魔法も、極めれば下手な攻撃魔法よりタチが悪い。なら、例えば、君も習得しているケイロスの光線。あれを更に高次の段階に高めたとしたら、どうなるんだろうね?」
「どう……なるんでしょう」
もともと、転移よりもさらに高度な魔法で、簡単には次の段階に上げられない、という点には目を瞑るとして。
「転移のように回数が増えることには、大きな意味はなさそうですけど」
回数を増やすくらいなら、ひとつに集積させたほうが強い。
弾速が極めて速いオリジナルにしろ、当たるまで振り続けられるわたしのアレンジにしろ、相手に当てることに関してはそこまで難がないのだ。だから数を打てるより、相手の防御を突破できる威力が欲しい。
まあ、できたらやってるけど。
「どうなるんだろうね。そのように、流転属性をいままでの限界以上に強化してみたら……というのが、現時点で私が抱いているイメージだ」
「面白いと、思います」
「ありがとう。それじゃ、とりあえず、ひとつずつ流転魔法を考えていこうかな。本棚を見てもいいかい?」
「大丈夫です。お茶、淹れ直しますね」
「ああ、頼むよ」
改めて紅茶を用意する。その間にも、ソーマさんは本棚から選んできた魔導書を開いていた。
意外にもというか、あの部屋の持ち主なので、てっきり何十冊もまとめて持ち出してくるのかと思ったが、読むのは一冊ずつのようだ。
他人の部屋だからというところもあるかもしれないけど。
なんとなく遠慮しながら、わたしは数冊の本を手に卓に戻った。
そのころには、ソーマさんはすでに個人魔導書(グリモア)に草案を書き出しているところで、時折悩まし気に唸りながらも、そう長く手が止まることはない。
……それは、わたしが持ってきた本の内容をさらい終えても、ソーマさんに続こうと個人魔導書の上にペンを置いても、そしてそれがまったく進まなくても、何も変わることがなかった。
そもそも魔法の設計とは、何を認識し、どんな認識に魔法干渉を行えば目的の現象が発動するのかという、認識の手順書を作ることにある。例えば、ケイロスの光線であれば、周辺光の認識、射出位置となる空間の認識、光と空間に対する流転干渉、干渉結果の認識、その一部に対する破壊干渉という一連のプロセスを履行することで成立する、といった具合だ。
そこに対するアプローチは二通りある。結果から過程をつくるのか、過程から結果をつくるのか。だが、どちらを選ぶにしても、核となる思考は必要だ。むしろその思考がどちらかを選択する。あの魔法を強化したらどうなるのだろう、というのはシンプルイズベストでいいと思うが、わたしにはあまりピンと来なかった。強化できるのなら誰かがもうやっているんじゃないか、という思考が拭えない。
ならばとて、わたしがピンとくる思考というのも浮かんでこない。たぶん、結局のところ、わたしは魔法で何がしたいのかという部分にビジョンが足りていないのだろう。
とにかく、ソーマさんは実践としての魔法使いだけでなく、文官としても実に有能であり、ついでにわたしは、こちらの方面でもロクに役立たないのだった。
いっそ、いまからでも謝って身を引いたほうがよいだろうか、というところまで思考を飛ばしていると、不意にソーマさんが口を開く。
「何か行き詰まっているのかい?」
「ご、ごめんなさい!」
「いや、そういうのではなくてね。ただ、力になれるならと思って」
「で、でも。ソーマさんは色々思いついてるみたいなのに、わたしは何も……」
「ふふ、そりゃあね。そこはむしろ、簡単に追いつかれたら嫉妬してしまうとも。自慢になるが、私は君よりも、同年代の魔法使いの誰よりも、魔法の開発を行ってきたはずだからね」
なおも動いていたペンがぱたりと止まり、翠緑色の視線がこちらに向けられる。
「それは私にできることだ。君には私にできないことをしてほしい。それが協力というものだろう?」
盗み合うのではなくてね、と続ける。
「ソーマさんにできないことが……わたしに、できるんでしょうか」
「もちろん。君は私にはない視点を持っているはずだ。違う人間で、違う魔法使いだからね。魔法適性も、見てきたものも、何もかも違う。違うからこそ意味がある」
ソーマさんは、優しいひとだ。
そんな言葉を、こんなわたしにかけてくれて。でも。だから。
応えられないのが、痛いんだ。応えたいのに、ここにいたいのに、わたしにはここにいる資格がない。なのにどうして、そんな目でわたしを見るんだ。
わたしとソーマさんは、違う。
わたしは、ソーマさんと同じになりたかった。
わたしが思い願った魔法は、もう、できないと諦めたものばかりなんだ。
そして、それにもう一度手を伸ばせるような素直さも、わたしにはない。
「……すみません。そもそも……自分がどんな魔法を開発したいのか、よくわからなくて。やっぱり──」
「ふむ」
ソーマさんは、顎に手を当てて何事かを思索する。
その息遣いのおかげで言わなくてもいいだろうことは言わなくて済んだものの、ソーマさんであれば、わたしが言いかけた言葉くらい、とっくに理解しているだろう。
わたしは判決を待つ罪人のように、うなだれたまま、次の言葉を待った。
どれだけの時間が経ったのか、あるいは一秒も経っていなかったのか。
果たして、その時は訪れる。
「なあ、今週の日曜日、予定はあるかい?」
「ないです、けど」
それは思い描いていたどんな言葉とも違うものであり、困惑を隠せないまま、わたしは答える。
けれどそんなものはまだ序の口だった。
「ちょっとデートしないか?」
「はい?」
心臓が口から飛び出るんじゃないかと思った。ソーマさんはくつくつと意地悪く笑い、言葉を紐解いていく。
「今週末は、カレザナ領で石魔杯があるだろ?」
「あ、ああ。そうでしたっけ」
魔法演舞の大型大会、竜冠演舞は、毎月一度の開催で、先週輪竜冠が行われたばかりである。次の白竜冠は来月の中旬だ。
しかし中型大会である魔杯演舞、さらに小さな大会である霊剣演舞を含めた場合、演舞はほぼ毎週のように行われている。場所さえ問わなければだが。
ただ、その中でもカレザナ領は王都からもほど近く、馬車で一時間と少しで行ける場所だ。
激化馬車であればもっと早い。乗り心地は最悪だけど。
「それで、お返事は?」
どちらを答えるべきかと逡巡するうちに、ソーマさんの右手がわたしの頬に添えられる。
それで、緩やかな弧を描くソーマさんの口元がなにを言いたいのか、理解できた。
というよりは、知っていた。
「わたしでよければ」
くるくると、同じように回っていく。
ティーポットの中の茶葉みたいに。
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