第3話

 この時ばかりは、林下の存在を恨んだ。しかし、僕が一週間前、彼へ真実を白状していたら、こうはならなかったことに気付いて、僕はやはり自分が嫌になった。


 林下は、放るように、棚の上に鞄を置いた。彼の鞄は、僕の鞄にもたれた。


「何かあったの?」文庫本から飛び出たしおりを弄びながら、竹中は林下を見ている。

「いや、何もないさ」林下はさび付いたパイプ椅子を引いて座った。


 彼は、僕の横に、席を一つ分開けて座っている。だから、彼から見ても竹中は斜め向かいに座っているのだ。


 僕らはだいたいいつもこんな風にして、雑談したり、詩や短編小説を書き、互いに読んでからかい合ったりしている。ふと、時刻が気になった。背後の棚の上の、壁に掛けられた時計を見ると、16時51分を示していた。僕は林下に、17時30頃に帰るよう頼まれた。あと、大体40分か。もう一時間もない。


 僕が帰れば、部室は、竹中と林下、二人だけになる。そうして、林下は竹中に告白する。どうやって、言うのだろうか。パイプ椅子を竹中の真向いに移動させて言うのかもしれない。


 向こう側の黒板を、何となく眺める。チョークで書かれた文字を、黒板消しで擦った跡もない。誰も使っていないから、綺麗な黒板。そういえば、自己紹介の時は、白のチョークでこれに名前を書いたな。あれからそろそろ一年になる。その時の部員は、僕と竹中だけだった。彼女が名前を書こうと提案したのだ。部室も広くないし、人数だってたった二人なのだから、口上で済むのにと、ちょっと面倒に思ったのを覚えている。まだ、彼女に特別な感情を抱いてはいなかった。いつからだろうか、分からない。


 劇的な、一目惚れではなく。僕の気付かぬうちに、淡い感情が徐々に芽吹いて、花を咲かせたのだ。

「野中君、とっても間抜けな顔だわ。どうしちゃったの? ねえ」竹中は僕から林下へ視線を移した。

「元から間抜けな顔じゃないか」と林下は、竹中の目を見て答えた。


 彼の口調からは、早くも僕を排しようという気があるように感じた。君が僕に途中まで居てくれと頼んだんじゃないか。いや、違うか。僕が勝手にそう感じただけなのだ。それに、実際彼がそう考えていたところで、何も悪くない。好きな女性が他の男を話題にして、僅かでも嫌に思って、それが口調に現れるのは、全くおかしなことではない。


 僕は席を立って、棚の上の鞄を手に取り肩に掛けた。いつもより、重く感じる。

「もう帰っちゃうの?」竹中は心配そうな声色だ。

「用事を、思い出したんだ。帰らないと」

「そう。じゃあまた明日」

「うん、明日」


 林下にも挨拶しようと彼の顔を見たが、彼はなんだか不満そうな表情だった。それで僕は、その気が失せた。僕の足音と、扉の開閉音。扉を閉じてから、たった今から二人きりになった部室の光景が頭に浮かぶ。振り払いたくなって、廊下を足早に歩いた。しかしその光景は、歩を進めるごとに確かになっていった。


 竹中と林下が部室内で二人きりになるのは、何も今回が初めてではない。ただ、今日林下は、竹中に告白するのだ。好きですと、想いを告げるのだ。


 一日中、心の奥底にあった靄が、だんだん僕全体を覆っていく。


 


 


 

 

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