ただ独り夜を歩め(アルレルケ・カヌニアレ)

伊島糸雨

ただ独り夜を歩め(アルレルケ・カヌニアレ)


 夜は雪景を掃く山嶺を越え、黄昏は燃える水面の海に沈む。

 レラコーは、海彩鋼ヴィニアを鍛えた蒼き刃を石牢の隙間から漏れる朝日に翳した。光を浴びた刃紋は冴え冴えと蒼く澄み渡り、陰に隠せば闇に蕩けて見えなくなった。

 傍らで少女が身を起こし、密やかに名前を呼んだ。觜翠しすいの都へと連れてこられた不安と恐怖はすでに遠く、しかし身を寄せ合って眠ることは今も変わらなかった。名無しの皇玉髄隷アレコネッロは「夜の藍レラコー」と口にした。応えるように「黄昏の紺シナトリ」と声が返った。

 レラコーは北の山地に生まれ、シナトリは東方の海辺で生を受けた。二人は若かりし頃の觜翠帝国ニアルカレク皇帝が侵略による版図拡大の折に各地で宿した落胤であった。子供たちはやがて〝血地帝けっちてい〟と呼ばれる父の膝下に集められ、帝国の蒼き刃、皇玉髄隷アレコネッロとして第二の生を授かった。

私の国ニアルカレクの落日まで、逃げようなどと思ってはいけないよ」

 美貌の皇帝は狂乱を秘めた翠緑の瞳で己が子らを見下ろした。人前には滅多に姿を現さない彼は、日陰に押し込めた皇玉髄隷アレコネッロには冷笑を湛えて顔を見せた。「どこまでも追って、心の臓を掴むからね」

 皇玉髄隷アレコネッロは戦道具、皇帝に隷属すべき駒であった。年端もいかぬ頃から暗殺に戦争にと駆り出され、いとも容易く使い潰される。隷属の証として下賜される海彩鋼ヴィニアの武具が皇玉髄隷アレコネッロを〝蒼き刃ヴィアレーコ〟とひとつに定め、避けようのない死の連環へと誘っていた。

 時には街娘として夜の閨で首を掻き、時には白銀の面を携えて戦場いくさばで骸を築く。日が昇るたびに消えてゆく兄弟姉妹を想い、落日と共に欠けた花弁を並べ数えた。觜翠しすいの都に煌く宝飾の絢爛は腐敗と堕落を覆い隠し、街路に焚かれた香木は遠い地に漂う濃密な血臭をかき消した。

 しかし、どれほどの汚泥を底に秘めようとも、觜翠しすいの都は美しかった。戦場からの帰途、夜半の都市が淡く輝く様はレラコーとシナトリを不思議と安堵させた。「帰ろう」「うん、帰ろう」二人は皇玉髄隷アレコネッロだけが知る秘路を辿って宮殿へと戻っていく。そして眠り、再び朝が来る。頽廃の光に目を眇めても、孤独な夜よりはずっとましと思えた。

 二人の得物、その柄にはそれぞれ「ただ独り夜を歩めアルレルケ・カヌニアレ」「黄昏を追い花を紡げイェクシナタ・メエトサレ」という文言が掘られていた。これはかつて、二人がある文筆家を骸に変えた折に偶然見かけた言葉たちで、シナトリの提案で各々気に入ったものを刻むことになったのだった。

 文字を掘ったのはシナトリだった。シナトリは器用な娘で、細工や罠の仕掛けに長ける他、縫製も得意でよく兄弟姉妹の擦り切れた衣服を直していた。彼女は花紡ぎの名手でもあり、花輪を作ってはささやかな祝いに兄弟姉妹へと与えていた。戴冠を経た皇玉髄隷アレコネッロは少しばかり長く生きたので、願掛けにとせがむ者もいた。しかし最後には皆花を潰す屍となり、花の王冠は願いのぶんだけ赤く染まった。シナトリは焼け焦げ蝿と腐臭の温床と化した大地を巡っては、海彩鋼ヴィニアの輝きを拾い集めた。王冠を新たにつくりながら、虚底うろぞこに落ちた皇玉髄隷アレコネッロの愚かな首を掲げて泣いた。

 その傍らで、レラコーは翻意を見せた同胞を狩っていった。シナトリと同じように主を欠いた蒼き刃を回収し、都の暗がりに帰っては、割いたはらわたの苦悶を嗅いで落とせぬ呪いに身を寄せあった。「黄昏の紺シナトリ、今日は何人消えた?」「わからないよ、夜の藍レラコー」寄る辺はない。だから、夜を呼び落日を誘う故郷の景色を想い、密かな楔を打ち込んだ。名前は二人の符丁だった。存在を確かめ、刃を振るって死を遠ざけるという。

 海を写す蒼き刃は、血潮を知らぬように色褪せぬ罪を灯し続けた。少年少女が成長するほど、国は皇帝と共に老いていった。あれほどいた皇玉髄隷アレコネッロもいつしか寡兵となり、しかし父はいつまでも変わらなかった。燻んだ諦念故に憂いを知らず、斜陽にあっても凍てつく微笑みは溶けなかった。

 シナトリは花紡ぎをやめた。レラコーの初陣から七年、シナトリの最初の暗殺から六年が経っていた。

 栄華を歌う詩人が死んだ時、燎原の火は翠緑を呑む竜となった。干戈交われば觜翠しすいの都はとみに輝き、よすがを失くした皇玉髄隷アレコネッロは思い思いに姿を消した。ある者は逃亡し、ある者は血の虜囚であり続けた。またある者は皇帝の言葉を思い出し、蒼き刃を鞘に収めた。

 レラコーは決意などしなかった。シナトリに憎悪はなかった。「ごめんね」わかたれた道の先で、悪夢に縋る女は笑う。「大丈夫。私が連れていく」レラコーは静かに答え、蒼き刃を揺らぐ炎にそっと翳した。

 刃は毀れ、剣戟と過去の狭間で生まれの罪を贖った。花冠は腐り落ち、神威纏う皇帝は蒼き刃と血によって洗礼された。「黄昏を越えて、夜を連れてきたね」レラコーは憎まなかった。悲しみは決して蒼くなかった。

 無二の皇帝を失った觜翠帝国ニアルカレクは、内紛と反乱の中でその国土を散逸させた。皇玉髄隷アレコネッロの行方は杳として知れず、それはレラコーも同様であった。日陰を揺蕩う噂ばかりが彼らの存在を密かに語る。皇帝に隷属する蒼き刃ヴィアレーコの子供たち。そのひとりは戦火を逃れる隊商の列に紛れて国を脱し、用心棒として数年を過ごしたのだと。そして、不意にかつてを思い出しては、柄の凹凸をなぞったのだ、と。

 明らかなのは、レラコーとシナトリが名を知られるただ二人の皇玉髄隷アレコネッロであり、それを示した何者かが存在したということである。

 古觜翠帝国ニアルカレクの觜部分、海を臨む辺境の緑草地帯には、海彩鋼ヴィニアで鍛えた二振りの短剣と一編の散文が寄り添うように埋められている。物語は、次の一文で締め括られる。

 黄昏を越えイェカシナタただ独り夜を歩めアルレルケ・カヌニアレ

 それだけが二人の証明となる。

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ただ独り夜を歩め(アルレルケ・カヌニアレ) 伊島糸雨 @shiu_itoh

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