インク

 青ばかりを集めたインク屋があった。古めかしい佇まいのこれまた古めかしいドアをぎぃと開けると、ずらりと並ぶ青、青、青。そのどれひとつとして同じ青は無いのだから驚きだ。

 ある時、売れない小説家がこの店を訪れた。小説家はしばらくインク瓶を眺めていたが、やがてひとつを選んで店主の前に置いた。


「試し書きをしたいのですが」


 店主は読んでいた本を置くと、紙とガラスペンを用意した。それから、小説家が選んだインクと同じ色の、試し書き用の小瓶を棚から取り出した。


「お客様はお目が高い。これは特別な青なのですよ」


 売り文句だ、と小説家は思った。店主は誰にでもそう言うのだろう。小説家ははあ、と曖昧に頷いた。

 しかし、試し書きをしてみると、小説家は考えを改めた。さりさりとペンが紙の上を走る度、青とは別の金や銀や虹色の光が瞬いているように思える。初めはインクで濡れた線が光の加減でそう見えるだけだと思ったが、光はいつまでも褪せることがなかった。それどころかインクが乾いてからの方がよりしっとりと上品な輝きを見せる。なんとうつくしい青であろう。小説家はほうと溜息をついた。いつまでも書いていたいと思わせる魅力がインクにはあった。このインクがあれば、いくらでも話が書けるかもしれない。見れば見るほど小説家はこのインクが欲しくなった。


「これは確かにうつくしい。このインクを頂こうと思います」

「ええ、ええ。左様でございますか。お気に召していただけたようで何よりでございます」


 店主はにこにこと微笑むと、インク瓶を包み始めた。


「しかし、こんな青インクがあるものなのですねえ。一体何からこの青を着想されたのでしょう」


 すっかりいい気分になった小説家に、店主は包む手を止めた。


「これはですねえ、走馬灯の最後の色なのでございますよ。人間が生きている間の最後に見る色なのでございます。お客様もきっと近く本物を見る機会に恵まれますよ。……何せ、人間の寿命は短こうございますからねえ」


 小説家はぎょっとして店主を見た。穏やかな店主のどこにも影がないことに、小説家は初めて気がついた。

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