Ⅵ 玉ねぎのスープ

 痛みとゴツッという鈍い音で強引に眠りを覚まされた。横向きに寝ている腰と背中の辺りだ。じわじわと波が広がっていく。

「いってぇ……なんだよ……って何してるんですかフランさん?」

 まだピントが定まりきらない視界の中、フランが脛を押さえてうずくまっている。


「なにって、もう十時半じゃない! どうして起こさなかったの? 大遅刻だよ」

「あの、今日は定休ですよ」

「……」

 コチコチと柱時計の音がする。カーテンの向こうは明るい。


 その姿勢のまま、フランがコテンと床に転がった。

 寝坊したと勘違いし、慌ててベッドから下りたが、絨毯に寝ていたルゥにつまづいて向こう脛と膝を打った、といったところか。


「フランさんでもそういうことあるんですね。安心しました、本当に。気分はどうですか?」

「最悪だよ」

 そのままルゥの足元に顔をうずめてしまう。フランの両手には痛々しい包帯が巻かれていた。


「心配したんですよ。頭が痛いとか、胸や呼吸が苦しいとかありますか?」

 返事はなく、ルゥの顔も見ようとしない。

「床で寝ないで、ベッドに戻りましょう。あ、この毛布は勝手に出して使っちゃいました」

 しかし毛布をつかんだまま動こうとしない。


「フランさん、ほら」

「君のその手は、僕がやったんでしょ」

 火傷したルゥの右手は包帯に覆われている。


「早く治すためにこうしてるだけです。大した事ありませんから」

「料理人が手を怪我したら、仕事ができなくなるじゃないか。腕が壊死えしするくらいの火傷だったらもう二度と——」

「もう作ってありますよ。フランさんが好きな玉ねぎのスープ」


 包丁を握るだけで激痛だった。ガスコンロの熱すら恐怖に感じた。けれど木ベラを握り玉ねぎを炒め続けるのは絶対にやめたくなかったから、一時間耐え続けた。

「……なんにも食べたくないよ」

「それでもおれは作ります。フランさんが食べたくなくても、もし右腕が壊死したとしても、フランさんのためにごはんを作り続けますよ」


 やっぱり顔を上げてくれない。けれど「……痛い。体中いろんなところが痛いよ」と小さくつぶやいた。

「そりゃそうですよ、普段運動しない人があれだけ暴れまくったんですから。布団でゆっくり休みましょう」

 体を起こすのを支えてやると、のろのろとベッドをよじ上る。


「君は一晩中ここにいたの? 料理までして」

 こことは、フランの自宅のことだ。火葬場の敷地の端っこで、木造の小さな平屋に一人で暮らしている。寝室はチョコレート色の床に薄水色の壁紙で、形の揃わない一点ものの繊細なガラス製のオイルランプが、そこここに置かれていた。


「当たり前じゃないですか。気絶した人を一人放置できませんよ」

「もう帰りなよ。休日なんだし」

 と、頭からすっぽり布団を被ってしまう。なんの負けじとルゥは話し続けた。


「家の中に入ったのは初めてですけど、絵がたくさんですね。フランさんが集めたんですか?」

 昨夜、気を失ったフランをモノリ、デビッキ、ライザと共に運び込み着替えさせたのだが、圧倒されたのはランプや絵画の数だけではない。額縁や彫像や壺など壁や棚には収まりきらず、玄関から廊下からどこも、足の踏み場もない程なのだ。立てかけたり積んであるものを崩さないよう、避けて歩くのに神経を使った。


「実家を売却した時に持ってきただけ」

「こんなに美術品が家にあるってすごいですね。お仕事だったんですか? うちはボロいし狭いし貧乏だしなぁ」


「……君のご両親が亡くなって、もうどれくらいになる?」

「三年半です。フランさんがくれたベルジェモンドもちゃんと持ってますよ。ほら」

 それを見ようと、布団からふわんふわんの頭がちょっとだけ出てきた。


 いつも首に下げているペンダントに、淡い紫色と透明な小さな石がはめ込まれている。鉄肺病で相次いで死んだ父母のベルジェモンドだ。フランが火葬し、その際に生活の糧を失ったルゥを見習い料理人として雇ってくれたのだ。

「二人にはお世話になったからね。料理長を紹介してくれたのもお父さんだったし」

 火葬場を買取り、新参者として旧市街にやってきたフランを、近所で弁当屋を営んでいた両親がいたく気に入っていたのは、ルゥも覚えている。


「とにかく貧しかったですけど、まともな親ではありましたね」

 だから今でも思い出が詰まったボロ家に一人で暮らしているし、忙しいと忘れることもあるが、月命日にはベルジェモンドに話しかけている。


 すると玄関扉がバタンと閉まり、誰かが入って来た。

「オーナー⁉ 気付いたんですね? 話せるんですね?」

 軟膏や包帯の買い出しから戻ったモノリがベッドへ駆け寄る。

「よかった……」


 普段は感情をあまり表情に表さないモノリが、大げさでなく涙ぐんでいる。フランは「ごめん」と一言言うと、また布団の中に引っ込んでしまった。

「オーナーが謝ることなどありません。ご無事ならそれでいいんです」

「これは僕の責任なんだよ」

 かける言葉が見つからないモノリに代わり、ルゥが聞く。


「フランさん、一昨日の夜はどちらに行かれたんですか」

 暴走の理由があるとすれば、そこしか考えられないのだ。

「デートじゃないですよね。だってあなたがこんなに苦しんでいるのに、その方は来ないじゃないですか。新聞を見たら、心配ですぐにでも駆けつけるはずじゃないですか」

 黙ったままのフラン。


 するとまた玄関扉が閉まる音がし、今度は白いのがやって来た。

「フ~ラン君、どう?」

「目覚めてますよ」

 布団にくるまり小さくなっている物体を、モノリと二人で指さす。


「ほんと⁉ よかったぁー。顔見せてほしいんだけどな」

 言いながらベッドに乗り、愛しい人へするように布団の上からやさしく撫でた。

「フラン君のために徹夜して特別な聖護札を作ってきたんだよ。それから朝のミサを立てて疲労困憊なのに来たんだからね。おれ神だから」


 そして自己主張の強い神が核心に迫る。

「ねぇフラン君、胸のあれ、何?」

「………」

「とぼけないでよ。昨日脱がせた時に見たし。女性にするより興奮しちゃったぁ。体ももちふわ肌でおいしそうだね」

 そういえばルゥが手伝おうとしたら「おれがやるからいーの!」と激しく拒否されたのだ。非常事態だったというのにこの神、何を妄想していたのか。


 しかしあの時、白い肌のちょうど心臓のあたりに、カブト虫みたいなものが貼りついていたのをルゥも見た。取ろうとしても、無数の触手のようなものが皮膚の下へしっかり入り込んで無理だったのだ。


「一昨日の夜、何があったんですか。フランさん」

 デビッキはルゥをちらっと見て、また布団を撫でた。

「覚えてるかどうか分からないけどね。フラン君昨日、たすけてって言ったんだよ。だからおれたちは、君をこんなにした奴を絶対に許さないと決めてる」


「僕は……、君たちやたくさんの人に取り返しのつかないことをしてしまったよ」

 弱々しい返答に胸が詰まる。やっぱり全部分かっているのだ。暴走しても、フランは都合よく記憶を失くしたりなんてしていない。


 ちょうどその時、玄関から「失礼するぞ」と声がする。積み上げられた物を倒さないよう、ライザが慎重に部屋に入って来た。

「なんだ、揃っているな。フランは目覚めたのか?」

「僕を逮捕しに来たの?」

「話せるなら顔くらい出せ。昨夜は全員、お前を救おうと必死だったんだぞ」

 署長命令にはフランも逆らえない。にゅうっと首から上が出てきた。


「被害状況を説明しよう。負傷者はルゥを含めて二十名。火災の煙を吸った重症者はいるものの全員命に別状はなく、死者もいない。少しは安心したか?」

「被害を受けた方に謝罪しなきゃ」


「それならブラッドサッカーという男がもう動いているぞ。フランはしばらく動けないだろうから、先に謝罪に回ると言っていた」

「……」

「それに支配人にとっては建物の被害よりも、騒ぎに乗じて盗まれたスヴァルト・ストーンの方が甚大なようだ」


「えっ⁉ あれ盗まれちゃたんですか? デビッキ司教が競り落としたのに?」

「そうなんだよ。ねぇフラン君、おれ4000万払ったの忘れてないよね。支払いの話できてないし、腹いせにもう食べていいよね?」

 上唇を舐めながら、ギシッとベッドを軋ませデビッキが迫る。フランは再び布団の中に潜り込み小さくなった。


「フランよ、被害を受けた方もいれば、お前のために動く人もこれだけいるのだぞ。昨夜のお前を見れば、故意に行ったことでないのは明らかだ。逮捕を猶予するためにも、起こったことを話すべきではないか」


「ねぇフラン君、乳首」

「それ以上発言するなァ! あんたが静死フェイダムしろ!」

 ルゥが背後から頸部をクラッチし、デビッキを引きずり下ろした。するとふわんふわんの髪が出てきて、ゆっくりと上体を起こす。


「一昨日の夜は、楽団が殺害された現場へ行ったんだ」

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