68話 ユリの狩人(1・-1→1)
「この薬があればアリーシャの病気は治ります」
リベリカが手の平に乗せている小瓶。
そこには一目しただけで食欲がごっそり奪われてしまうような、ドロドロした深緑色の液体が詰められていた。
「これは……普通の回復薬とは違うよね」
「はい。黒腐病、つまりベスタトリクスの感染病を治療するために新しく調合された特効薬です」
狩人がよく使う回復薬も同じような緑色をしているが、そちらはよりサラサラとして目に優しい若草色をしている。
確かにこの薬は市販の回復薬とは似て非なるものなのだろう。
ベスタトリクスの黒い粉塵を浴びて感染する黒腐病は、進行を遅らせることはできても、根治は不可能とされてきた。
そんな不治の病を治せる薬ができたというのだから世紀の大発明だといっても過言じゃない。
「騎士団って凄いね。そんなものまで作っちゃうんだ」
「凄いのは騎士団じゃありませんよ」
受け取ろうとしないアリーシャに、リベリカは小瓶をつまみ上げて見せつけるように差し出してくる。
「この薬を調合したのはモカです」
「モカが、そっか。モカちゃんも書士隊に戻ったんだったね」
ローブをすっぽりかぶった生意気な女児の姿が脳裏に浮かぶ。
あの奇天烈な天才ちびっこ学者がこの薬を発明したというのなら、なるほどあり得る話だ。
それこそ、モカの学者としての目標はベスタトリクスの生態を明らかにすることだと言っていた。
つまりこの薬は彼女の努力の結晶。
今やこうして世紀の大発明を成し遂げたとなれば、彼女もまた騎士団に入団したリベリカと同じように、その宿願を果たせたということだ。
「モカはずっと薬の研究をしていたんです。まだ量産はできていませんが、安全性は私の部下が既に検証済み。アリーシャ程度の症状なら効くはずです」
「部下を実験体に使ってんのかよ……」
さらりと何の気なしに言ってのけるリベリカだが、冷徹さというか、サイコパスさが3年前より増しているように思えて、ある意味で恐ろしい。
リベリカはアリーシャの手を取って自ら薬の小瓶を握らせてくる。
「これで病気のことはもう心配しなくて大丈夫です。アリーシャならすぐに身体の感覚を取り戻せますよ」
これで戦えない理由はなくなったでしょ?
そう慰むようにリベリカは微かに微笑みを湛えて頷いてみせる。
けれど彼女は分かっていない。
身体の衰えは戦えない理由の本質ではないということを。
アリーシャは一抹の罪悪感を噛み殺しながら、薬を掴んだまま拳をリベリカの胸へと突き返す。
「ありがとう。でも、アタシにはもう必要ないから」
「なにを言ってるんですか……?」
「身体が治ってもアタシにはもう戦う理由がない。この病気は治らなくたって別に死ぬわけじゃない。戦わないならその薬を飲む理由はもう無いよ」
「そんな、元からこの薬はアリーシャのために研究したもので……」
まるで突然飼い主から見捨てられた子犬のような表情をされて、胸が痛まないといえば嘘になる。
けれど、彼女が期待している薬の対価、つまり狩猟への復帰を約束できない以上、黙ってその薬を受け取る訳にはいかなかった。
「戦力にならないアタシが貴重な薬を受け取るわけにはいかない。副団長としてちゃんと団員のために使ったほうがいいよ」
「それは違います!」
「違わないでしょ。副団長として冷静に考えてみなよ」
意味が解らないと訴えるように首を激しく横に振るリベリカ。
理解してもらえないとしても、理解してもらうしか無い。
アリーシャは彼女を諭すように続ける。
「仮に復帰したとしてもアタシの力は呪いの武器に頼ったハリボテの力。『黄金の民の武器』を使える騎士なら、誰でもアタシと同じように……ううん、アタシ以上に戦えるはず」
自分の存在意義とは何なのだろうかと散々に問答し、苦悩してきた。
そしてすでに頭の中で結論は出てしまったのだ。
その決定的な答えをいざ口にするのだと思うと、無意識に唇が震え、激しい鼓動で胸が破裂しそうになる。
けれど、未だにリベリカが自分に幻想を抱いているのであれば、その夢から覚まさせる責任が自分にはある。
心を決めて、アリーシャは息を吸う。
滲む目頭を力ませ、震える唇をゆっくりと開いた。
「もうこの世界には、アタシの代わりが、
つまるところ、自分は有象無象の凡人のひとりだったわけだ。
幼い頃から積み重ねてきた経験と培ってきた技術が、自分をどんなモンスターでも太刀一本で狩ってみせる最強の狩人たらしめているのだと自負していた。
他に何の取り柄もない自分にとってそれだけが存在意義だった。
けれど、その力はまやかしだった。
呪いの武器の力を自分のものだと思い込んでいただけだ。
今や誰もが自分と同じ武器を手にして、自分と同じように、それどころかそれ以上の力でモンスターを狩れる時代なのだ。
そんな世の中で、凡人たる自分が武器を振るったとしても雑兵のひとり。
自分のいた居場所はすでに他の誰かが埋めていて、きっと今日自分が死んでも世界は何不自由なく同じように続いていく。
自分が自分として誰かに必要とされる理由なんてこの世界にはもうどこにもないから。
アリーシャは乱れた息を深呼吸でなんとか整え、強張る筋肉で口角をつり上げて笑って見せる。
「だから、思い切って違う生き方をしてみようって決めたの」
これまでの日々で身体中の水が枯れるほど泣いてきたからだろうか、不思議と涙はこぼれていない。
「この村ね、みんな良い人たち。可愛いって褒めてくれるし、仕事も住む場所も紹介してくれたし、食事も美味しいし」
嘘はついていない。
この村での生活は不自由していない、それは本当だ。
「なんだかんだ、今はけっこう楽しくやってるんだよね」
よかった。言葉はスルスルと口から出てくれる。
もう気持ちを切り替えられている証拠だ。
自分は、この場所でただの村人Aとして生きていくと割り切ったのだ。
「だから、アタシはもう大丈夫だよ」
宣言の意を込め、今日一番の明るい声で口にして、
「――だったらなんでそんな顔してるんですか」
サクリと。
短剣を胸に突き刺されたような衝撃が走った。
「え、顔……アタシはべつに……」
戸惑いながら、部屋の中を右へ左へと探す。
ようやく見つけた、壁に立てかけられた
目を向けると、その向こう側からは、口角を歪ませ、まるで笑っていない瞳で、魂の抜けたような空っぽの少女がこちらを見つめていた。
「……アタシ、笑うの下手なんだ。初めて知った」
「そんなことないです。アリーシャの本当の笑顔は可愛いです。もっとも、モンスターを狩ってるときの笑顔ですからちょっと不気味ですけど」
「それ、全然フォローになってない」
リベリカの胸に突き立てたまま力を失っていた拳に、細い指先がそっと触れ、巻かれていた包帯がスルスルと解かれていく。
「この手で分かります。今も鍛錬を続けてますよね。さっきの反射神経だって、鈍りきった人間の速度じゃなかったです」
「でも……意味ないから。きっと今はリベリカの方が強い」
露わになった右手をリベリカは暖かく柔らかな手の平で包み込み、愛おしむようにぎゅっと胸元に抱きよせた。
「仮にそうだとして何だって言うんですか」
「アタシじゃリベリカの助けになれない。加勢が要るなら他の人を誘うべき。強い
「遠慮します。アタシが会いに来たのは貴方ですから」
「なんで? 意味わかんない! アタシに頼る意味なんて――」
「ありますよッ!」
震えている声にはっとして視線を上げると、リベリカは顔を真っ赤に染めていた。
「確かにあの武器を使えば、誰でもアリーシャと同じ技を使うことができるかもしれません」
リベリカは今にも溢れだしそうな涙をこらえるように眉間にしわを寄せ、アリーシャの襟元をぎゅっと掴む。
「でも、それだけであなたの代わりが務まるはず無いじゃないですか! アリーシャの凄さは技だけじゃない! モンスターの知識、立ち回り、判断力、どんな時も引かない覚悟、誰にも媚びない自信、そういうのをひっくるめた全てがあなたの強さなんです!!」
細めた瞳からあふれ出る涙が頬を伝い、大きな水滴となってこぼれ落ちていく。
「初めて出会ったあの日、あなたが救ってくれなかったら私はとっくに死んでいました。ギルドで落ちぶれていた私を誘ってくれなかったら、ずっと弱いままでした!!」
もう頬はぐしょ濡れで、目の縁を真っ赤に染めたリベリカは、怒るように泣きじゃくりながらありったけの感情をぶつけるように叫ぶ。
「だから私にとって、命の恩人も、憧れの人も、本当に背中を預けられる親友も貴方しかいない! 他の誰かじゃない、アリーシャなんです! 私にとって、アリーシャの代わりが誰にも務まるはずがない!!」
最後に大粒の涙を一滴落とすと、リベリカは握っていた手を襟元から離し、自分の服の袖を目元に押し当てた。
それから十分に時間を取って息を整えると、赤く腫らした目で前を向く。
「貴方の価値は最強であることだけじゃない。貴方の価値はそんなものじゃ測れない。どうかそれだけは分かっていてください」
リベリカは薬の小瓶を床に置き、自らの膝にあった太刀をアリーシャの膝の上に乗せると、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。
「無理に戦ってくれとは言いません。ベスタトリクスとの決戦は1カ月後。戦場はここから南西の砂漠地帯です。この村は確実に戦禍に巻き込まれますから、もしも準備が整わない時は、必ず避難してください」
背もたれに掛けていた外套を羽織り、リベリカは退室の準備を始める。
「待って!」
身支度をしていたリベリカの手が止まる。
けれど、まだ一緒に行くと答える決意ができているわけでもなく、何のつもりで呼び止めたのか分からなくなって、続ける言葉が見つからない。
そうこうしているうちに彼女の手が再び動き始めるのを見て、アリーシャは出まかせに言葉をつないだ。
「その戦いは、勝算あるわけ……?」
「どうでしょうね」
顔を曇らせたリベリカは、副団長のくせにこんなことを言ってはいけないんですが、と前置きをして続ける。
「正直、今回の作戦は無謀だと思っています。騎士団員たちは連日の戦闘で疲弊していますし、予想されるモンスターの数に対して兵力も十分とは言えませんから」
「だったらなんでそんな作戦に参加するの⁉」
「なんでって……決まってるじゃないですか」
リベリカは困ったように口元を緩ませる。
けれど次の瞬間には、組織を率いる者としての矜持を持った表情に変わっていた。
「これは私がアリーシャと出会って選んだ道なんです。最高の狩人の戦友として、王立騎士団の副団長として恥じないように戦うんです」
白地の外套をひるがえし、リベリカは一歩一歩きた道をたどり、薄暗い小さな部屋の出口をくぐり抜けていった。
その大きな背中を今すぐに追いかける自信はない。
けれど、今まで居心地の悪くないと思っていたこの部屋は、いつの間にか狭くて息苦しい空間に変わっていた。
いつぶりだろうか、自分の元に戻ってきた太刀をふたたび手に取って立ち上がる。
彼女の背を追うためにはまずは自分の過去と向き合わねばならない。
その一歩を踏み出すため、アリーシャは部屋の壁を隔てた向こう側でずっとこちらを見守ってくれているはずの人物に向かって声をかけた。
「パーカス、やっと決心着いた。聞かせて、アタシの生い立ちのこと」
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