滝の家

ういろう

滝の家

10月15日 曇り


 自分探しの旅に出た男がなんと自分を見失って帰ってきたという。


 そして男の母親いわく「忘れ物が増えてしまった」、「自分を落としてしまった」などと言うばかりで、マトモな会話すらできないどころか、簡単な読み書きすらおぼつかないようになってしまったとのことだった。


 しかしながら母親の『お金は惜しみませんのでタクミ君を普通の人ぐらいにまで再教育してほしい』という熱い要望の求人があったために、ほぼ同年代の男の家へ私が家庭教師として馳せ参じた訳である。


 そこで母親に彼が旅を始めた理由について訊いてみた。すると母親は少し言いづらそうに身を捩って、奥の棚から一冊の古ぼけた日記帳を取り出してきた。


 そして「たぶんコレです」と言ったきり、目線を逸らして居心地悪そうに黙ってしまった。


 私は説明が下手な母親を少々面倒に思ったが訊いた手前断る訳にもいかないので、その日記帳の最後尾から適当にページをめくって、一行だけが記された簡素なページにたどり着いた。そこには


 『さようなら』


 とだけ書かれていた。おそらく男は自分の死に場所か、あるいは人生の転機を探しに旅へ出ていたのだろうと、その1ページだけで見当がついた。


 そして私は日記帳を閉じて、そのまま件の男がいるであろう2階の部屋へ向かうことにした。座り込んでいる母親の方は、急に立ち上がった私に気掛かりな態度をみせはしたもののついてくることはなかった。


 2階へ通じる階段には、空き缶やプラスチック容器などのゴミが散見でき、それらが階段の段数に比例して増えているように思われる。


 そのゴミを払い除けながら足早に昇っていくと階段の最上段に『落石注意』という文字が油性ペンで乱雑に書き殴られているのを発見した。


 辺りに散らばるゴミを落石となぞらえた冗談のつもりなのだろうか。なんて思いを巡らせたとき、正面の方から人影が差したことに気がついた。


 階段を登りきった所には小窓があって、昼過ぎの曇って光る空を映していたのが、今では暗い人影によって遮られている。しかし目が暗さに慣れてくるとそれが若い男であることが分かり、彼こそが件の男ではないかと思われた。


 精悍な顔立ちではあるものの、どことなく疲れた様子の拭えない表情は先の話の登場人物としてはピッタリで、そんな男が私を見て発した第一声は「あぁ、遅かった。ごめんなさい」という謝罪であった。


 私は、それを彼なりの社交辞令的なものかと思ったので、「いえ、こちらこそ急にお邪魔してすみません」と謝り返した。


 すると彼は階段に座って落石注意の文字を足で隠しながら「上がってもらう前に、まずは僕の話を聞いてください」とやたら真剣な面持ちで私の答えの方は聞かずに話をしだした。


 その内容は転勤族であった彼の出自から始まり、数年前この家に越してからの出来事に移った。各地を転々とする生き方が好きでなかったこと、それが今になってひどく恋しくなったこと、この家に住んでからは彼だけ不幸続きであること。


 最後の方は偶然から来る単なる彼の思い込みだろうと思って聞いていたが、続く彼の「端的に言うと、この家は呪われているんですよ」という発言で不穏なものを感じた。


 聞くところ彼の場合は1階に降りたり外に出ようものなら、必ずそこで何かを落としてしまうらしい。しかもそれは2階から降りている間ずっと続き、中退してしまった大学にいたときも大変な苦労したという。


 では他の家族はどうなのかと訊くと「僕とは逆に、いろんなモノを拾いすぎて困ってるみたいです。まぁでも、そのおかげで失くした物が返ってきたりするんですけどね」と彼は皮肉混じりの笑みを浮かべて、私が手に持つ日記帳を見た。


 どうやら無意識のうちに彼の日記帳を持って来てしまっていたらしい。すると彼は日記帳を指差して「それ、読みました?」と答えにくいことを訊いてきた。


 しかし、たとえ最後の1ページだけでも本人を目の前に読んだとは言えるはずがないので「いや、まったく。お母さまから貴方に返すように言われて持ってきただけです」とすかさず私は嘘をついた。


 すると彼は申し訳なさそうな顔をして「そうですか。じゃあ謝って正解でしたね」と小さく呟いて項垂れてしまった。そのセリフに多少の違和感を覚えたが、今後のためにも気不味い雰囲気を作ってはいけないと思い、私は苦し紛れのフォローをした。


「いやぁ、謝らないでくださいよ!むしろ生徒であるタクミさんの方が頭良さそうで、こっちこそごめんなさいって感じです」


 そのとき、やっと私は違和感の正体に気づいた。なぜ、彼と普通に会話ができているのだろうかと。求人の備考には、読み書き、会話の意思疎通すら難しくなった男の再教育とあったはず。


 しかしこうやって会話も成り立つ上に、彼の瞳には狂気や錯乱のいずれも宿っていない。それどころかこんな彼を異常者のように扱ったり、普通でないと思いながら入院という措置を取らずに家庭教師というお門違いな者を高額で雇う母親の方が異常なのではないか。


 だから私は素直にその疑問をぶつけてみることにした。(もちろん母親の方が異常な気がするという部分は濁したが)


 すると彼は「僕が変になったとき、色々思い出させてくれたのは母なんです。完全に自分を見失わずにいられたのは全部母が教えてくれたからなんです。だから恨まないでやってくれませんか?」


 などと、また少しおかしなことを言うのである。「恨むもなにも、俺は自分から進んでココに来たんですよ?」と彼の母親を恨む動機が無いことを伝えてみても、彼は眉一つ動かさずに私を見据えていた。


 そんな釈然としない沈黙が1分近く続いたとき、ドタドタと2階の廊下の奥から見知らぬ男が四つん這いでやってきた。ソイツは階段に座るタクミの傍までやってくるなり「お、俺を、俺を探してくれ!どこにも見当たらないんだ!」と泡を食いながら大声をあげてタクミの裾を引っ張って揺さぶった。


 するとタクミはその男の手を握り返して「大丈夫ですよ、タクミさん。待ってれば、いつか母さんが拾ってくれますから」と言ったのだ。


 当然ながら私は混乱した。今まで自分が接していた人物が件の男ではなく、いきなり降って湧いた男の方が母親の言っていたタクミという人物だったのだから。


 そして階段に座る男は私に向き直り、諭すようにこう言った。「だから貴方も安心してください。いくらモノを落としても、必ず母さんが拾ってくれます。物になったり、お金になったりと様々ですが、決して僕らが落としモノが失くなるわけではありません」


 その口振りは、まるで私にも呪いがかかっているとでも言いたげだった。そしてそう思った途端に階段を踏みしめる足の裏から、かじかむような悪寒が走って背中を包んだ。


 違う。呪いなんか存在しない。私はただ、よく分からない狂人だらけの家に来てしまっただけなんだ。


 すると、背後から声がして「ユウ君。これからはその人が新しい家庭教師だからよろしくね。それと先生・・・よければ貴方のお名前、きかせてくださる?」と大層にこやかな笑顔をみせる母親がいた。


「あぁ、僕も先生の名前聞きたいです。本名だけで結構ですので」男はニヒルな笑みを浮かべている。


「お、落ちるぞ!落ちるぞ!降りたら落ちるぞ!落ちたくなかったら注意しろ!」タクミの絶叫が頭に響く。


 そこで私は気が遠くなり、曇る窓のほかすべてが暗転したこの家から途方もなく逃げ出したくなったのだった。

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