第四楽章 地に落ちて死ぬ一粒の麦のようになれたなら
祝福を終えて戻ってきたカルペディエムと共に、汽車を乗り継いで冠の国へと向かっていた。
一等席の個室で、ウィータエは猫の姿のカルペディエムを膝に乗せて、毛並みを弄ぶ。
「どうしてそんなに急ぐんですか?」
「猫は……猫は、時間が短いじゃろう。わしの旅で無駄な時間を——」
「ウィータエ、冠の国へ向かうにはかなりの時間がかかります。それで最初に言っていた一週間という期限が過ぎていきます。貴方が目的地を伝えた時、離れたいと望めばそのまま元の縄張りに帰っていました。けれども私はそれを望まなかった。だから此処に居るんです。時間なんて気にしないで、私はウィータエとの時間を楽しむことを決心したから今、飼い猫として貴方の膝の上で寝ているんですよ」
ウィータエは目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑む。
「そうか」
「ええ、私の飼い主はきっと生涯ただ一人、ウィータエだけです」
「それなら……最初のカケラを手に入れた時、少し観光でもするかのぅ」
ウィータエは車窓をゆっくりと眺めようとして、ハッと顔を扉の外に向けた。
「嗚呼、わしを探していたからカケラが移動していたのか」
神に与えられた唯一の力、己のカケラの位置や気配を感じ取ることが出来る能力でウィータエは目的地に向かっていた。
けれども、とある駅からカケラが近付いて来ていたのである。
ノックもなく個室の扉がゆっくりと開く。
「こんにちはぁ」
膝の上に乗っていたカルペディエムが、毛を逆立てて低く威嚇する。野生の感か何かで恐ろしさを感じ取ったのだろう。
「座席の下に隠れてろ」
ウィータエはそう指示すると、扉をぎりぎり通れるくらい太った醜悪な男に睨みを効かせた。
「へへへぇ、彼が教えてくれたんですよ。オラにチカラをくれた女の子がココに居るって。へへぇほんとぉにいたぁ」
ふしゅう、ふしゅうと呼吸しながらニタニタと男は笑う。
「随分無礼だな。一等個室にノックもなく入ってくるとは」
「へへぇ、ぼくちんのすっごく好みだけどぉ、でもぼくちんはもっと力が欲しいんだぁ」
「それでわしを殺せば手に入ると?」
「うん、彼が言ってたよぉ。もっと欲しいならきみが持ってるって」
ウィータエは顔を顰めて、男を睨む。
鞄の中に隠してある魔道具のどれを使うか、と計算していた。
「それで彼とは誰じゃ」
「ぇえ、おしえなぁい。ぼくちんは契約したからぁ」
「そうか、お前は力を手に入れて何をする」
「ぼくちんが好みな女の子を全部ぼくちんのこと好きにするんだぁ。それでぼくちんが王様になるのぉ」
頭の螺子が外れている、と言えば簡単だ。しかしウィータエにはそうではないと解っていた。
——目の色が変じゃ。恐らく強い魔力による反動で幻覚症状があるのじゃろう。妄想が現実になったと思い込んでおるに違いない。或いは……そういう魔法を掛けられたか。
ウィータエは一つ溜息を零して、足元を見る。
「目を閉じておれ」
シュン、と普段は短くしている爪を伸ばして男の首を掻き切った。
血を溢れさせながら男は後ろに倒れる。そして、男の首からコロリと薔薇の形の宝石のようなものが転げ落ちた。
返り血を浴びぬようにウィータエは避けて、窓を開けた。
「風よ、運べ」
魔道具を一つ使い、血と共に男を風で吹き飛ばす。
「全く、非常用の強力な魔道具だというのにこんなことに使うことになるとはのぅ」
ウィータエは痕跡一つ残さず風で全てを消し去った。
まるで今の出来事がなかったかのように。
「血を飲んだりしなくて良かったんですか?」
「一言目がそれか」
「いえ、気になっただけです。血を見たらどうとかそういうのはないのかと……」
「わしは人間の血は飲まぬように決めたんじゃ。それにあれは見た目から解る。絶対に不味い」
首を傾げながら座席の上へとカルペディエムが戻ってくる。
「ところで、あの人間殺して良かったんですか?」
「……さぁな。まぁ、あんな性格の気狂いじゃ。身内なぞ既におらぬであろうし、そもそも飛ばした先は死体がいくつも転がる場所じゃ。一つくらい増えても問題なかろう」
ウィータエは腕を組みながら座る。
——まぁ、こんなことをしても罪悪感を抱かぬのだから神に未だに罰を与えられているのだろうな。
他者に対する無関心、それこそがウィータエの本質。
そしてそれ故に他者を理解することに何百年という時間を掛けなければいけなかった。
「腹が減った。カルペディエム」
「かしこまりました」
人型に変じたカルペディエムの手首から血を飲む。
久々に爪を伸ばした疲労感が癒え、そしてゆっくりと全身の痛みを拭い去っていく。
「不味いな」
「毎回言わないでください。聞き飽きました。あと傷付きますよ」
「かっかっかっ」
ウィータエは転げ落ちている薔薇の宝石を拾い上げ、手の中で握り締めた。
「この白黒色の薔薇、一眼見れば宝石にも見えるコレがわしの心臓のカケラじゃ」
「意外と大きいですね」
「カルペディエムにはそういう風に見えるか」
「え?」
「なんでもない。さぁ、わしは寝る。終点までだからカルペディエムも寝れば良い。とはいえ……あともう少しで到着するだろうがな」
車窓を見遣れば穏やかな麦畑が過ぎ去っていく。
——彼……か。
男が言っていた存在がウィータエの胸の中に支えていた。
*<=>*<=>*
冠の王国の首都、スブ・ロサーに二人は辿り着いた。
五年前に起きた革命戦争によって大改革が起きた街である。たった五年で変われる人間の凄さというものに、ウィータエは圧倒されかけた。
「ふむ……あれほどに酷い街になっていたのにこうまで綺麗になっているとはな」
整理された美しい煉瓦の街並み、蒸気による産業革命によって発展した服飾、それら全てを享受する姿は幸福に満ち溢れていてウィータエは瞳を伏せた。
「カルペディエム、階級制度をどう思う?」
「猫にはよくわかりません。ただ、上に立つものにも上に立つものなりの苦痛と重さがあるのを、下にいる人々は高過ぎて見ることが出来ないのだけは酷く虚しいことだと私は思います」
薄く微笑むカルペディエムを見上げる。
彼には美しく気高い心持ちの貴族しか見えていなかったのだろう。
「或いは猫だからこそ気付けぬか」
「何をですか?」
「何でもない、少し観光しよう。見たいものはあるか?」
首を傾げて悩み出すカルペディエムから目を離し、周囲を見渡す。
小さく綺麗な飲食店の看板を見つけ、ウィータエはカルペディエムの手を引いた。
「先に食事にしよう。そろそろ午餐の時間じゃしのう……」
「あの、マキナさんに猫だからあまり——」
「そんなことは知っておる。わしは千を超える時を生きる吸血鬼ぞ」
そうして連れ立って店の扉を押し開けた。
「ようこそ……」
明らかに貴族のようなドレスを纏うウィータエを見つめ、萎縮する店員にウィータエは手を振った。
「わしは確かに身分は高いが他国のものじゃ。この国の世情などどうでも良い。ただ午餐を取りたいだけじゃ」
その一言に安堵した様子で接客する姿にウィータエは溜息を零す。
「変わらぬのう、人は」
*<=>*<=>*
ウィータエの細く痩せた見た目で病を抱えているという設定が活き、味付けのない焼き魚とステーキを存分に堪能したカルペディエムはとても満足気だった。
「魚と肉、何方の方が好きじゃ?」
「うぅん……肉料理の方が好きですね。でも生で食べず焼いたものは格別だと今日知れました!」
嬉しそうなカルペディエムを見つめ、ウィータエも笑う。
「今迄はその辺の鼠を食べて居ましたので……その……味よりも量でしたし……もう……元の生活に戻れなさそうです」
ボソボソと小さく零すカルペディエムが、ふと立ち止まった。
「ん?」
「いえ……」
「なんじゃ、市場が気になるのか」
大通りを活気溢れる人々が行き交い、露天商が大きな声で客を呼ぶ。その様子を目を輝かせて、カルぺディエムは見つめていた。
ウィータエは腕を組み、近くに有った花壇の端に座る。
「カルぺディエム、少し話をしよう」
「はい?」
「わしはな……解らぬことが有る」
首を傾げながらもカルぺディエムは隣に座る。それをウィータエはじっと見つめていた。
「わしには天使を殺したことに罪悪感がない」
一つ吐息を吐き出し、そして味わうように息を飲み込む。
「何故ならば人は人を殺すし、戦争をする。それは時に神の為、己の為、他者の為……理由を付けて人は命を奪うことを繰り返し、そうして命を繋げていった。神はそれを善とも悪とも言わず、ただ見ているだけ。それなのに何故、天使を殺したから悪になった? 人を殺すのと変わらぬだろう。そして人が行う争いと何も変わらぬだろう。それなのに……何故わしには罰が与えられたのか……解らぬのじゃ」
ウィータエが見つめる先には教会が有った。人々が
「故にわしは放置していた。例え苦痛の伴う悪夢が体を襲おうと、気にはならない程の悲しみと憎しみが胸中に有ったから……わしはただあの部屋で起き、人の戦が有れば覗き見し、人の虐殺が有れば観察し、そして眠ることを繰り返していた。カケラを集める気にもなれず、罪と言われたことを理解しようともせずに……」
その結果、誰かがカケラを利用して神に怠惰を責められた。
——もしもカケラの力を扱いこなせるものが居れば争いは起き、数多の人が死ぬ。それはわしの所為であり、怠惰による罪だと……神はわしに罰を増やした。しかし……わしには未だそれが理解出来ぬ。何故、わしの所為になるのか。何故、わしばかりが——。
「ウィータエ、私はこう思うのです。神にとって天使とは我が子のように大切なのではないでしょうか? その我が子を奪われたなら、誰だって怒るでしょう。けれどもその奪った相手は我が子のことをなんとも思わず、奪ったことすら理解していない。そうしたら……罰を与えて苦しんでほしいと望むのは当然のことだと私は思うのです」
「我が子……」
その言葉にふとある友人の言葉が浮かんだ。
『ねぇ、ウィータエ。その子供、赤子同然よ。貴方は親になるの。気持ちはそうではないかもしれないけれど育てると決めた時点で貴方は、親として最後まで見届けなければならないのよ』
脳裏を駆け巡ったその言葉にウィータエは妹の顔が浮かんだ。
二度と出逢えぬ、血の繋がりもない人間の子。
「それでもわしには大切であった」
——ああ、そうか。あの日のわしの感情と同じものを神は抱いていたのか。
ほんの少しばかり歩み寄れたような心持ちで、ウィータエは心臓の有った場所を撫でる。
「しかし……未だ解らぬな」
「わかる必要はないと思うますよ、ウィータエ。貴方は貴方のまま、生きるべきです。だからカケラを集めましょう。それから考えるのでも遅くないと思います」
カルペディエムはゆっくりと微笑んで、ウィータエの顔を覗き込む。
それが温かくて、痛くて、それでも……。
「悪くはないな」
——ああ、一粒の麦のように死ぬないのが……酷く悔しいな。
それくらいにカルペディエムの意見と思考は新鮮で、ウィータエにとって多くの実りをもたらしていた。
知ろうとすれば手に届く物でも、知って変わっていくのが恐ろしかった。
それ故に今のウィータエがある。
「さぁ、観光を楽しむとしよう」
ウィータエは勢いよく立ち上がり、カルペディエムの手を引っ張った。
その日は眠りたくないと望むほどに楽しい一日だったのは言うまでもない。
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