第三楽章 祝福に頼らざるを得ないほどのコウカイ

トントン

「ウィータエ、起きられますか?」

「ん゛ぐ……」

 ゆっくりと瞳を開ければ、胸の上で猫の姿のカルペディエムが乗っかっていた。ぺしぺしと肉球で人の顔を叩くのがなかなか心地好い。

 全身に響き渡る悪夢の痛みが和らいでいくようで、ウィータエはカルペディエムの頭を撫でた。

「そうか、朝か」

「ええ、朝です」

 起きたのを確認すると、カルペディエムは軽々と地面に飛んで床に降りる。

 ウィータエは体を伸ばしながら立ち上がると、大きく目を見開いて己の体を見つめた。普段ならば起き上がるのすら重たくしんどいのだが、久方振りに食事をしたからか体が直ぐに動く。おまけに鈍く続いていく眠気がスッキリと消えていった。

「ふむ……なかなか悪くはないな」

「どうしましたか?」

「いや、なんでもない。カルペディエムは食事が必要だったな」

「ああ、それなら済ませてきました。マキナさんにこの辺のことを聞きに行った時に、朝食をお邪魔させてもらったのです」

 ウィータエは目を瞬かせ、それから喉を鳴らして笑う。

「あのマキナがそこまでするか。まぁ良い。それならばさっさと動くとしよう」

「もしかして着替えずに行くのですか?」

「吸血鬼は人間のように汚れが溜まる体じゃないからのぅ。それに着替えは時間がかかって面倒じゃ」

「あんまりだ……酷すぎる……」

「かっかっかっ、毛繕いが必要な猫とは違うんじゃよ」

 笑いながら周囲を見渡せば、ある程度部屋が綺麗になっていた。

 散らばっていたものは分類ごとに分けて置かれ、美しい模様の木板で出来た床が見えている。

「これを全部カルペディエムがやったのか?」

「ええ、人間の体に慣れる練習として掃除しておきました。廊下には扉が沢山有りましたが、どれも開かなかったので入っていません」

 自慢気にそして誇らし気に胸を張るカルペディエムの頭を撫でて、ウィータエは分別されたドレスの山を見つめた。

「そうだな。あの中から確か白い質素な服が有った筈じゃ」

「あ、それなら此方に」

 パタパタと指定されたものを服の山から見つけて叩く姿に、くすりとウィータエは笑った。

「なんじゃ、猫の姿のままか」

「う……そもそも二本足が慣れないんですよ」

「かっかっかっ、そういうものか」

 渋々と言いたげな顔で変化するカルペディエムは、洋服を取り出すとウィータエに手渡した。

「外に出てますね」

「いらぬ、そんな女男の気遣いなぞわしらのような種族には無縁じゃ」

「では、そこに立って両腕を広げていてください」

 そう告げられてウィータエは首を傾げて指示に従う。

 するとカルペディエムは覚束ない手付きながらも、ウィータエのドレスを脱がして服を着替えさせた。

 服の構造上時間が掛かる為、あまり服を着替えたりすることなどしなかったウィータエにとってこれだけ時間が短縮出来るのは驚きだった。

「凄いのう……もう少し練習すれば更なる時短を期待出来るな」

「そもそも女性の貴族用の服は人に着替えさせてもらう為に作られています。貴方のも流行遅れでは有りますがそういうたぐいのものでしょう。一人で生きるのにどうしてこんな服を選んでいるんですか?」

「ただの趣味じゃ」

「そうですか」

 ぽんぽんと服を畳みながらまた分別した場所に置くカルペディエムを見つめ、ウィータエは手を顎に当てる。

「しかし人の着替えの仕方を知っているとはのう」

「これでも長い時間生きているんです。猫としては異質ですが……その長い時間で人間の家を覗いて生活の仕方を見る機会は多かったので、こうしてやり方くらいは真似出来るようになりました。実際にやると少し工夫が必要だということは今、知りましたが……」

 頬を掻くカルペディエムを見上げ、ウィータエは穏やかに微笑む。

「では昨日のようにエスコートしてもらおうかのう」

「お任せください」

 胸を叩くカルペディエムが差し出した手の温かさが、今日は何故か嫌ではなかった。


*<=>*<=>*


 二人乗りの馬車に三時間眠られながら揺られ、目的地に辿り着いた。

 質素な服、とはいえ真っ白で背が高く見えるような細身のドレスと腰元で結ばれた真っ赤なリボンの繊細な美しさは、とても目を惹く。

 カルペディエムのエスコートで馬車から降りた途端、周囲が騒めいたのは言うまでもない。幅の広い白い帽子で顔を隠しているからこそ、余計に騒然としたのだった。

「さて、此方じゃ」

 くふくふとお淑やかそうに笑みながら、馬車の行き交う大通りから目立たぬ細い路地を指差す。

「治安悪そうですが……」

「わしは吸血鬼ぞ。カルペディエムが思うよりは強い。それにのぅ、そう思うならば鍛える時間でも与えてやろう。わしに守られるばかりでは癪であろう」

 ウィータエが細い路地へと躊躇ためらいなく進み始めるので、慌ててカルペディエムが付いてくる。

「矢張りカルペディエム、動きは悪くないな」

「そりゃ、猫ですから。高所閉所なんのその、望むが侭に走ってきました。そのお陰か人間に変身しても腕と足の力は健在の侭で、かなり動き回れます」

 自慢気なカルペディエムを無視して、路地の奥へと進む。木板で塞がれた道を押し開くと、大きな教会の前に出た。

「此処は?」

「わしの古い友人の家じゃ」

 ウィータエは教会へと突き進む。白磁の壁は威圧を漂わせ、二人を威嚇しているかのようだった。

バン

「やはりこの気配はアエテルナエさんでしたか!」

 突如——教会の扉を勢いよく開いて初老の男が飛び出して来た。そうして息を切らして胸を抑えてしゃがみ込む。

「久しいな、ノッシング。カルペディエム、こいつはノッシングゼアだ」

「アエテルナエさん、今は先人の名を抱えマタイオスと名乗らせております。ですのでマタイオスでお願いします」

「そうか、そんなになったのか」

 ずれた司教冠ミトラを直しながら、マタイオスは優しく微笑む。

「ええ、もうあれから六十年経ちますから。こんな重たい司教冠ミトラまでいただけるほどに長い時間が過ぎたのです」

「ああ……そうか」

 ウィータエにとって瞬きのような時間は人間には重たい枷だ。改めて理解すればするほどに思い起こす痛みに、ウィータエは唇を噛んだ。

「それでどうなさいましたか?」

 司教が唐突に外に飛び出した所為なのか、教会の人間が大慌てで集まってくる。ウィータエはそれらを見つめながら腕を組んだ。

「お前の祝福を、唯一使える魔法を……カルペディエムに施してほしい。数に制約が有るのは知っておる。その分の対価は払う」

 マタイオスは目を見開き、数度瞬きをすると幸せそうに微笑んだ。

「アエテルナエさん。貴方が私の祝福を望む日が来ること、それだけで充分です。あの日、私が伝えた言葉を忘れなかった……その事実だけで私はもう満足しております。教会の中は辛いでしょうから離れで待っていてください。彼は私が責任を持って預かります」

 穏やかに、そして優しく微笑むその姿は幼いあの頃と変わっておらず天使のようなその性格も……全てが記憶通りだった。

『妹さんのことが辛いのでしたら、私の唯一使える魔法……それさえ有れば忘れられます。ですから頼ってください。私を必要としてください。無価値で何もない私に価値を与えてほしいのです』

 そうやって懇願して跪いていたその日暮らしの青年は、衰えを抱えながらも成長し、昇進していた。

 ウィータエはそれが嬉しくて、微笑んでマタイオスの頬を撫でる。

「わしの優しい従者、カルペディエムを宜しく頼む。わしがいなくても幸せになれるように、ほんとうの幸いに辿り着けるように……導きと祝福を与えてほしい」

「ええ、任せてください」

 優しく頷いたマタイオスから離れ、カルペディエムの背を押した。

「カルペディエム、彼に祝福をいただいてくると良い。旅のお守りじゃ。わしはその辺を散策して……此処の宿で寝ている。明日の朝にまた起こしておくれ」

 地図と宿の名前を書いた紙を手渡すと、ウィータエはカルペディエムの顔を見向きもせずに歩き出した。

——わしには矢張り、天使を殺したことへの罪悪感などがないんじゃのぅ。

 昔と違い、神に仕える立場となったものすら利用することに対して人間はどう感じるのか、ウィータエは気になって仕方がなかった。

 それでもそれらを無視して目を閉じる。

「わしは受け入れる勇気もない臆病な吸血鬼失格の愚か者なのじゃろう」

 死の近い古い友しか頼れず、親しきものは死に絶え、仲間である筈の吸血鬼にすら敬遠される……それが当たり前になってしまった事実を変える気などカケラも無かった。けれどもそれをもっと早く変えていたならば旅は一人でも痛みを抱くことなく、虚しさを抱えて終わらせることが出来ただろう。

 けれども食事をさせてもらえるような人ならざる友でさえ死に絶えた今、旅をすることになり糧が必要になってしまった。

 たった一匹の猫……その猫を愛おしそうに見つめるマタイオスの顔がウィータエの心に引っ掛かっていた。

——これでカルペディエムはわしが消えた時、わしのことを気にすることなく幸福な道へ進める。だが……それで良いのじゃろうか。

 旅とは互いの記憶で彩られ、そして思い出になるものだと周りは言う。それを知れれば神の言葉を理解することが出来るのか、ウィータエはギリギリと歯軋りする。

 きっと一人ならば——カルペディエムのような存在をわざわざ用意する必要がないくらいに、少量の糧で生活出来るくらいに若ければ、そんなことで悩まなかっただろう。

「今更、後悔を抱くか……」

 ウィータエは鬱陶しいくらいに青い空を見上げて睨んだ。

 旅は未だ始まったばかりである。

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