第二楽章 知れば戻れぬかえられぬ
「う゛ぅん……」
ウィータエは胸の重たさに顔を顰めて目を開けた。
「ウィータエ! 起きましたか。痛くないですか、苦しくないですか」
胸の重たさはカルペディエムが乗っかっていたかららしい。猫とはこのように重いのか、とウィータエは物珍し気にその顔を覗き込む。
「ウィータエ?」
「ああ……そうか。刻限が来てしまったのだったな」
いつもならば悪夢の余韻で苦痛に苛まれる目覚めが、わんわん叫ぶカルペディエムのお陰で幾分かマシだった。
「カルペディエム、どうじゃ。良いものは出来たかい?」
「そういう問題じゃないです。貴方が苦しそうに寝ているのに起きなくて、どれだけ怖かったか……。マキナさんが気にするな、なんて言っても私は——」
「そうじゃな。話す前であったな……」
泣き出しそうなカルぺディエムの頬を撫で、頭を撫でるとウィータエはゆっくりと起き上がった。
「あぁ、おはよう。彼の望むものは完成したし、首輪に融合させた。変身と同時に発動するようにね」
マキナが長椅子に体をもたれかけさせながらウィータエに話し掛ける。それをカルぺディエムがじろじろと睨むように見つめているのが、ウィータエには面白かった。
適合する為と称して散々触りまくられたのだろう。
「マキナは猫好きだったしのぅ」
「毛皮が全て剥がれるくらいに触られました。此処には二度と来たくないです」
「かっかっか、さて……急ぐとするかのぅ」
ウィータエはマキナに白紙の小切手を手渡すと、素早く立ち上がった。
「全て説明するにはこの場所では良くないからな」
床を歩こうとするカルペディエムに、人差し指と親指で音を立てる。
「変身しろと仰るのですか?」
「そうじゃ、折角なのだから見せておくれ」
カルペディエムはグッと伸びをすると人型へと変じた。
黒のベストに真っ白な襯衣、黒いスラックスを合わせたその服装はカルペディエムにとても良く似合っていて、ウィータエは満足気に微笑んむ。
「さて、行こう。わしの秘密の部屋に」
店を出ようと歩き出そうとして、カルペディエムに服の裾を掴まれた。
「整えますので動かないでください」
その言葉通りまるで執事のように丁寧に乱れを治すと、片手を差し出した。
「かっかっかっ、エスコートか」
「人の姿でやってみたかったのです。いつもママをエスコートする人が羨ましかったので……」
そうやって頬をかくカルペディエムの左手に手を重ね、ウィータエは歩き出した。
「ウィータエ、次はあるかい?」
「さぁな」
「そうかい。では良い門出を」
「嗚呼、マキナもな」
緩やかに柔らかに店を出る。
外は夕焼けが輝く時刻になっていた。
ウィータエは微笑んで、その眩しさを受け止める。
「そういえば吸血鬼って日差しに弱いとか聞きますがウィータエはどうなんですか?」
「そんなの五百年そこらしか生きてない若造くらいじゃな。わしなんかとうの昔に耐性を身に付けたわ。季節よりも激しい変化をする人の世では、常に進化を続けねば長く生きる種族は人の信仰する神に消されていく」
ウィータエは瞳を細めて通りを行き交う人々を見つめる。
何もかも変化していく。
長く生きるウィータエにとってのたった数年を、人間という種族の時間に当てはめるのが難しいくらいにその流れは早い。
あの出来事が起こるまで、それらへの興味なんてウィータエには一切なかった。
脳裏に思い起こしそうになり、ウィータエは首を振る。
「さて、向かおうか」
そうして素早くウィータエが歩き出せば、歩幅を合わせてくれるカルペディエムの手の暖かさに違和感が拭えず手を離したくなった。それでもその顔を見上げた途端、それが出来なかった。
「カルペディエム、背が高いのう。首が痛くなるわ」
「失礼しました」
二人分の足音が路上に響く。それはまるでカノンのように心地良い音色だった。
「ウィータエの手は冷たいですね」
「そりゃ吸血鬼じゃからな」
「私を選んだ理由を今聞いても良いですか?」
「そりゃ美味そうだったからのう」
ビクリと背を震わせる姿を見つめ、ウィータエは喉を鳴らして笑う。
「わしは吸血鬼じゃ。食事になるかどうかで従者を選んでも良かろう」
「え……では私は貴方の糧になるということですか?」
「嗚呼、そうなるな。飼い猫兼、非常食じゃ」
「ウィータエ……少しばかり後悔しています。今後貴方についていく気力が少々失せました」
「吸血鬼と生きるならその覚悟をしておくんじゃったな」
ウィータエは久方ぶりに心の底から笑みを浮かべる。
そうして煉瓦造りの壁が圧迫するような細い路地へと歩みを進めた。
コン、ココン
爪先で合図をひとつ。
すると扉がうっすらと現れてゆっくりと開いた。
「おお……すごい……凄いです。これは何ですか!」
瞳を輝かせて、その扉を覗き込むカルぺディエムを押し退けて部屋へと入る。
「これはな、数百年前にとある魔法使いが作った秘密の家じゃ。そいつが死ぬ間際にわしにくれたのさ」
人間一人分の狭さの廊下を抜けると、六メートル四方の部屋がある。ウィータエはそこで寝泊まりをしていた。他の部屋も有るが扉が壊れて開かなくなってしまうくらいには使っていない。
「きったな……汚いですね。何でこうなっているんですか?」
ドレスや靴、本、絵画などが乱雑に散らばりかろうじて床が見える程度のその部屋を見つめ、カルぺディエムは嫌そうに唸った。
「この辺は魔法使いが暮らす路地だったんじゃ。今やある程度改革がされて規模が小さくなったがのぅ……。それでも未だ沢山こういう家は有る」
「あの、話を聞いてましたか?」
「汚いとかじゃろう。そう思うならば片付けておけ。わしはそう思わぬ」
紫色の
「その辺に椅子が埋まっている筈じゃ。人の姿で居るならそれに座れ。わしは話をさっさと進めたい」
「あとで片付けますからね」
「好きにすれば良い」
ウィータエが指差した先にあった木の椅子にカルぺディエムが座るのを見届けると、溜息を零しなら瞳を伏せた。
「わしはな、遠い昔に天使を殺したんじゃ。天界に忍び混み、四番目の天使に挑んだ。そうすることで手に入れたいものが有ったのじゃ」
瞳を開けば、カルぺディエムがじっと顔を覗き込み、興味津々とばかりに瞳を輝かせている。
「あまり面白い話ではないぞ」
「天使様って本当に居るんですね」
「嗚呼、神も居る。今は唯一神の時代じゃがな……。まぁ、わしはその神に天使を殺したことを気付かれ、手に入れたかったものすら失った。そうして……心臓を奪い取られたのじゃ。目の前で四つに刻まれ、薔薇の形の宝石にされた」
ウィータエは一つ溜息、二つ頬を引っ掻き、三つ歯軋りをした。
「その心臓を取り戻さぬ限り八時間しか起きていられぬ体にされた。そして……眠り続ける間は苦痛に苛まれる悪夢を見て感じるようにさせられた」ふぅと吐息を零す。「しかしわしにはそんなことどうでも良かったのだよ。心臓を取り戻す気なんてなかった。それで良い、もう何もかも必要ない、そう思っていたのじゃ」
「どうして変わったんですか?」
「わしと神しか知らぬし開けることの出来ぬ心臓の隠し場所を、何者かが開けた。その結果、心臓はわしが持っていたとてつもない魔力を他者に与え、強い魔法を使える道具……或いは奇跡の宝石になってしまった」
ガン
ウィータエは肘掛けを拳で叩く。そして苛立ちを露わにするように、爪を噛んだ。
「お陰でわしは心臓を回収せねばならなくなったし、神にすら新たな罰を与えられた。嗚呼! 身勝手で愚かな者め……見つけたら苦痛の中で永遠を生きる呪具で縛り付けてやる」
ビクリと毛を逆立てるかのように背を震わせて立ち上がるカルペディエムを射抜くように見つめ、爪を噛む。
「そうして人間の手に渡った心臓の場所は解る。己の心臓であるからな。しかし……長い旅になる。すると力がどうしても必要になるのじゃ。わしがこのように骨と皮だけで細く、小さいのは吸血鬼として血を飲まずに生きてきたからでのぅ……」
ウィータエが瞳を細めると、カルペディエムは大きく頷いてウィータエの足元に跪いた。
「なるほど、そういうことだったんですね。そしてその為に私という糧が必要なのですね」
「嗚呼、そうじゃ」
ウィータエはふいと外方を向く。カルペディエムがどんな顔をしているのか見たくなくて、肘掛けに頬杖を突いて瞳を伏せた。
「ウィータエ、どうぞ飲んでください。私が役に立てるのならば……」
膝の上に猫の姿でカルペディエムがぴょんと飛び乗る。そうしてすりすりと細い腕に耳の後ろを擦り付けた。
「何故、そう思った?」
「ママがよく言っていたのです。糧を望まれるならば貴方が与えられるものを少しだけ分けなさい、と。
その低く柔らかで純粋な声にウィータエは膝の上の猫をじっと見る。
ただの目が珍しく、美味しそうな三毛猫だ。
そしてカルペディエムという猫にしては随分豪勢な名前を名乗り、吸血鬼にすら物怖じせずに、魔道具まで受け入れた頭の螺子が捻れているかのような変な猫。
——情を入れるつもりはなかったんじゃがのぅ。
ウィータエにとってただ利用する為の道具にするつもりだった。けれども母を想うその姿は古い感情を思い起こさせるには充分で、ウィータエは深呼吸する。
「わしとの旅を後悔はさせない。カルペディエム、お前の命を大切に扱うと誓おう。人の姿になっておくれ」
こくり、と一つ頷いたカルペディエムは膝から飛び降りるとまた人へと変化する。
そしてウィータエはその手首を掴んだ。
ガリッ
隠していた牙を突き立て、その手首から溢れ出す血液を本能の侭に飲み干す。
全身が沸騰するかのように魔力が漲り、体に力が戻っていく。骨と皮だけのような背の低い見た目は変わらなくても、昔のように体を動かすことが出来るくらいには回復していくのがウィータエにはよく解った。
「ウィータエ……少し、痛みが……」
その言葉に顔を上げて、掴んでいた手首を離す。
ウィータエは口元に付いた血を拭い、舌で舐めとる。
「不味い」
「一言目それですか!?」
血の出る患部を抑えながらカルペディエムが目を見開くのが可愛らしくて、ウィータエは喉を鳴らして笑う。
「ほれ、手当してやろう」
マキナから貰った治癒の魔法が刻まれた指輪型の魔道具を傷口に当てる。指輪程度の小さいものだと傷口を塞ぐ程度の魔法しか起きないが、カルペディエムにはそれで充分だったらしい。
「わぁ……傷が消えました! これも魔道具の力ですか?」
嬉しそうに瞳を輝かせウィータエの手を覗き込むカルペディエムに、頷いて応えた。
「わしは魔法が少ししか使えぬからな。さて……わしは寝る。朝の七時を過ぎたら起こしてくれ」
手元に有った懐中時計を放り投げ、
「え!?」
「長い時間起きていることが赦されないだけからのぅ。長い時間眠ることには制限がないのさ」
そうして目を閉じたウィータエの腹の上に、程良い暖かさが触れたが迫り来る悪夢によって目を開けることは出来なかった。
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