第4話 秘密

 気にしない、気にしない、そう自分に言い聞かせて美歌の問題に目を当てずにいた。だけど、好奇心とは嫌なものだ。気になって仕方がない。どうして彼女は、声が出なくなってしまったのか、美しい歌と名付けられているのにも関わらず、歌を口ずさむことすら出来ない人魚姫のような呪いをかけられてしまったのか。

 それは先天性のものなのか、何かが原因で発症してしまったのか、あるいは悪い魔女によって奪われてしまったのか。考えれば考えるほど、胸の高鳴りが抑えられなくなってくる。


 一度、彼女に聞いてみたことがある。無責任にも平然とした顔で、何も心の準備をさせぬまま「どうして声が出ないの?」こんな聞き方は良くないと、自覚もせずに。

 だから、彼女は呼吸を荒くした。

 胸を抑えて、頭を抑えて、流れる涙を拭けぬまま倒れてしまった。

 声が出ない理由を聞いただけで、彼女は倒れてしまった。それほど重い何かが、呪いとして彼女に取り憑いているのだとすぐに察した。


「ごめん、何も考えずに聞いちゃったからあんな風に・・・・・・」


〈ううん、ごめんなさい、心配をかけて。私は、大丈夫だから〉


 腹が立った。

 無責任な僕を許してくれる優しい彼女が、太陽のような笑顔を向けてくれる彼女が、どうして声を奪われなくてはならない。

 僕はその日から、彼女の声を奪った何かを調べるために行動し始めた。会社には行っている。美歌との生活を守るために働かないといけないことは分かっていて、その裏で真実を探っている。

 今はそれがバレないようにするのに必死で、ほんわかしている彼女は意外にも勘が鋭い。


〈どうしたの? そんな真面目な顔をして〉

〈もしかして、何かあるの?〉


 元々準備してあったかのようにページをめくり、僕に見せる彼女は目を薄く伸ばしてこちらを睨んでいる。


「いや、実はね。明日から仕事だと思うと、嫌でしょうがないんだよ。君との時間を奪われている気がして、仕事の時間が無ければデートをして美味しい何かを・・・・・・そうだ、お茶なんてどうだろう。静岡に茶摘みの体験をして、広大な青空を眺めながらお茶をする。最高だと思わない?」


〈うん! とても楽しそう! でも、仕事しないとそういう事も出来ないよ〉


「あ、確かに。じゃあ僕、美歌のために頑張って仕事行くよ」


〈ありがとう。でも、無理はダメだよ。体調を崩して動けなくなったら、どこにも行けなくなっちゃうからね〉


「そうだね、体調管理もしっかりしなきゃ。美歌の美味しい料理で、僕のことをサポートしてね」


 彼女は、笑顔で頷いた。

 僕と共に暮らす上で、彼女には仕事を辞めて家事に従事して欲しいとお願いした。僕たちはこれから結婚を予定していて、そのための二人暮しでもある。というのは表向きな話で、本当のところ、上村の八つ当たりやなんやらに彼女がサンドバッグにされている姿を見ていられなかったからだ。


 初めて話した時から、僕は彼女と無関係ではなくなってしまった。むしろ、笑顔に見惚れてしまったせいで、三峰美歌という存在がどんどん大きくなっていった。

 毎週、金曜日はお互いに残業、夜中のオフィス内でキーボードを叩きながら会話を弾ませていた。直接話すにも難しいわけで、メールを送りあって話をした。好きな料理は、好きな映画は、好きな動物は。小学生の交換日記のように、お互いの趣味嗜好を共有した。そして。


〈今度、一緒に出かけませんか?〉


 気付いたら、この一文を迷いもなく彼女に送っていた。十五分くらいか、間が空いてから返信がきて開くと、〈はい〉と一言だけのメッセージが届いた。僕は、急に恥ずかしくなって立ち上がって彼女の元へ頭を下げに行った。


「ごめんなさい、無意識にメッセージ送ってしまって、その・・・・・・調子に乗ってしまって」


 上村に頭を下げる姿を、周りの同僚たちに見られるよりも恥ずかしく思えた。

 だけど、彼女は冗談だったのかと紙に書いて見せてきた。顔を赤らめて、彼女もまた恥ずかしそうにしていた。


「えっと、それじゃあ、いつ、空いていますか」


 と、歯車で動く人形のようにカタコトの日本語で聞くと、彼女は、土日ならいつでも、と紙を見せた。それならと、僕は明日はどうかと聞いてみる。


〈大丈夫です。空いています〉


 心の中で、やった、と飛んで喜ぶ少年の自分がいたのは言うまでもない。こんなに綺麗な人とデートの約束が出来るって、僕はなんて運が良いんだ。

 今から鼓動が早くなって、緊張で落ち着きが無くなっていることに自分でも気付いてしまうくらいにソワソワしている。この緊張は、帰ってからも続いて楽しみであったお酒が一滴も喉を通らなかったのいまだに覚えている。


 こうして、彼女と初めてのデートをした。

 次の日というのもあって、何も準備が出来ておらずありあわせの服装で、特に格好つけることも出来ずに顔を隠しながら彼女の隣を歩いた。

 行先は動物園、デートの定番でもあり、話すことが苦手な僕からしたら、動物に目がいって会話をする時間が少なくなる方が効率が良かった。それからも、映画や美術館、水族館などデートを重ねていく中で、彼女との会話は少ないながらもお互いに距離を縮めていった。


 あのさ、と僕から切り出したのは十回目のデートだった。植物園の温室で、サボテンに触れて棘の鋭さを体感している時だった。


「三峰さん、あの、ぼ、僕とお付き合いしてくれませんか?」


 最後まで言えたようで言えていない、声がだんだんと消えていくのがはっきりわかった。そりゃそうだ。人生で初めてなんだから、こんな台詞はダサい僕が口にするのは烏滸がましい。格好の良い奴が髪をかきあげながら、相手の瞳を見つめて言うのだから、それで落とせない人なんてまずいないだろう。

 なのに、その反対の僕から告白されて受け入れる人なんていないと思ってた。君は優しい。


〈はい。よろしくお願いします〉


 二つ返事だった。


〈知っていますか? サボテンの花言葉〉


「サボテンの花言葉? サボテンにもそういうのがあるんだね」


〈うん! 枯れない愛っていうの〉


「枯れない愛・・・・・・か、とても情熱的な花言葉だね。三峰さんは、意外とロマンチストなところがあるんだね。それに今の会話、スパイ映画の男女が気持ちを伝え合うシーンみたいで、また別の意味でドキドキしちゃったよ」


〈私も、すごくドキドキしちゃった〉


 数秒間、お互いに見つめ合うと、笑いが込み上げてきて声を上げて笑った。声が出ない彼女からも、大きな笑い声が聞こえてきた気がする。そうして、僕たちは恋人同士になり手を繋いで歩き始めた。

 僕はその日の帰り道に、ずっと気になっていたことを聞いてみた。


「ねえ、みつみ・・・・・・みか、さんは手話って使わないの? もっと会話が楽になると思うけど」


〈覚えが悪くて、全然分からないの。それに、怜士さん手話分からないでしょ?〉


 あ、確かに。全く知らないや。


「そうだね、僕の方が勉強不足だったよ。でも、スケッチブックで会話するのは大変だと思うんだ。僕も頑張って覚えるから、一緒に​─────」


 と言いかけた時、彼女らしい答えが返ってきた。


〈手話で会話するより、ちゃんと文字を書いて伝えた方がしっかり伝わる気がするの。だから、怜士さんと話をする時だけでもこっちがいいかな〉


「そっか、君に言われると確かにそんな気がするよ。だったら、多めにスケッチブックを買っとかないとね。これからもいっぱい会話をするんだから、今持っている分だけじゃ足りないでしょ」


〈うん、全く足りないや〉


 その時の、夕焼けに色付けられた彼女の笑顔は素敵で、輝いていた。

 彼女の笑顔は、どんな時でも僕に幸せをくれる不思議な魔力があって、仕事で上村に嫌なことをされた時も、失敗して落ち込んだ時でも、彼女の笑顔が僕を支えてくれる。

 そんな美歌でも、暗い顔を見せる時があった。付き合ってまもなく、二人で衣替えに合わせて洋服を買いに行こうと朝からデートをしていた時だった。突然、隣に歩いていた彼女が僕の後ろに隠れて袖をぎゅっと握り、目を伏せている。


「美歌さん、何かあったの? 急に隠れて。もしかして、幽霊でも見かけた?」


 霊感が有無は関係なく、冗談で聞いてみると、彼女は首を横に振った。


「あ、何か言いたいことがあって恥ずかしくなったとか?」


 と聞くと、彼女は数秒間、遠くを見つめて小さく頷く。話してみて、と子供をあやす様に言うと僕の肩の向こうを指さした。振り返ってみると、ハンバーグステーキの店があった。確かにもうそんな時間だ。お腹が空いてきたから、あれが食べたいと指をさしたのだと、僕は彼女の可愛い一面に思わず笑顔をこぼしてしまう。


「そっか、お腹が空いてきたんだね。じゃあ、そこのお店に入ってみようか。僕もさっきから香る肉の匂いで腹の虫が鳴き始めたし、なんかこうガッツリ食べたい気分なんだよね」


 腹をさすって、照れくさそうに言う。本当のところ、腹はあまり空いていないけど彼女が食べたいなら大いに付き合う。肉が好きな僕からしたら苦ではない。それに、さっきの彼女はどこか怯えているように見えた。そのことについても聞かなければ、僕はもう他人ではないのだから。


「さて、入ろっか。肉好きの僕なら三00グラムくらい余裕で食べ切れるし、ここの店入ったことないから行ってみたかったんだよね。ほら、行こ」


 美歌の手を引き、僕たちは店員の案内の元で席についた。休日だから多少混みあってはいるけど、タイミングが良くすんなり入ることが出来た。

 彼女は周りを見渡しては、少し安心した表情をする。僕はメニューを開きながら、彼女に聞いてみた。


「さっき、どうして怖がっていたの?」


 沈黙。

 僕の問いに、うんともすんとも書かない。


「言ってくれないと心配だし」

 僕はずっと気にする性格だから。

「気になっちゃうんだよね」

 声のことについても。

「秘密にされちゃうと、余計にダメなんだ。寝れなくなっちゃう。」

 それに、助けになりたいんだ僕は。

「だから教えて欲しい」


 本音をしまって、僕は彼女に問う。俯いたままで動きもしないけれど、そこまで隠して何を知られたくないんだ。いい加減にしてくれ。僕は、部外者じゃないんだぞ。

 僕はこの時、初めて彼女に怒りを覚えた。


〈ごめんなさい、お話しておかないといけませんね。迷惑をかけたくなくて、どうしても言えずにいたことがあるんです〉


 彼女は意を決したのか、真剣な表情でスケッチブックを押しつけるように見せた。


「・・・・・・聞かせてくれる?」


 彼女はこくりと頷くと、スケッチブックを一枚めくる。内容を読んで目を疑った。何故、それを今までひた隠しにして過ごしてきたのか。実家暮らしとは聞いたけど、どうして相談すらしてくれなかったのか。僕は気が付かなった僕自身にも腹が立った。


〈私は、ストーカーに、命を狙われています〉

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