第3話 変化したあの日
雲は徐々に青空を隠して、アスファルトを濡らし始めた。僕たちは早々に帰宅したから雨には当たらなかったけど、あのままいたらすぶ濡れになって風邪を引いていたのかもしれない。でも、欲を言うのならば美歌の濡れた姿を見てみたかった。水の滴るいい女、彼女にピッタリの言葉だ。しかし、風邪を引いてしまっては元も子もない。
窓際で降りしきる雨を眺める彼女も、これまた美しく麗しい。手元に一眼レフカメラがあるのなら、これを写真に残してアルバムの一枚にでもしている。それほどに、彼女はとても絵になる被写体だと自慢に思う。
「外は雨だ。まだご飯には早すぎるし、映画でも見ようか。ジャンルは何がいい?」
僕は映画をよく見る。彼女がこうして、僕の家にやってくるまでは、休みの日なんて一日中、映画で時間を潰すほどに気の抜けた一日を過ごしていた。
美歌は、質問に対して泣き真似をする。これは感動ものというサインだ。僕はてっきりアクションでも見て、天気のせいでどんよりとした空気をスッキリさせるのかと思っていた。
基本的に洋画しか見ない僕は、隠れた名作と言ったら失礼かもしれないが二0一一年に公開された「最強のふたり」のDVDを自室から持ってきた。車椅子で生活をする大富豪フィリップと、介護のために雇われた青年ドリスとの垣根を越えた友情の物語、僕はこれを何度観ても涙を流してしまう名作中の名作だ。
この名作を、僕らは駄菓子を食べながら鑑賞する。気付いた時には駄菓子の味が少ししょっぱく感じて、頬を伝う涙で味付けをしていた。美歌も隣で食べる手を止めて、涙をひたすら流し続けていた。
フィリップが病気で希望を無くし、絶望の毎日を過ごしていたところにドリスの豪快な性格が、フィリップの真っ白な人生に色をつけた。実話をもとに制作された映画な故に、細かい描写があって余計に心打たれる。
エンドロールを迎えると、彼女はスケッチブックを取りに行き、何かを書いて僕に見せてきた。
〈私たちも最強のふたりになれるかな? 友情じゃなくて、愛情で〉
「当たり前だろ」僕は彼女をぎゅっと抱きしめた。この映画で不安にさせてしまったのかもしれない、いやむしろ、お互いに想いを伝えることが出来たのは、この映画のおかげだな。
僕は、美歌を離したりなんかしない。だって運命の人だと、そう感じたんだ。こうして、親御さんから離れて二人で暮らすことが出来ているのも、僕が頼み込んでの願いだった。
まず、彼女との出会いは思い返すだけで三年も付き合っているのに、いまだに最近のように感じる。
書類、書類、書類、毎日、目にするのは文字が縦横無尽に整列する何百枚もの紙っぺら達。目頭を抑えて、唸りながらパソコンに向かって文字を打ち込む作業。飽き飽きとする毎日で、トイレの洗面台に立つ度に、細く糸のような鏡越しに映る自分の瞳を睨み返している。
社会人になってから、どのくらい経つのだろう。最初はこんなはずじゃなかった気がする。期待感と高揚感に満ち溢れて、何事にも積極的に壁にぶつかっては頭を下げて、それでもなお頑張って、いつからだろうか、こんなにも情けない顔になってしまったのは。
辛い、苦しい。
そんな感情が頭の中をグルグルと駆け巡る。
肩を落としため息をつきながら自分のデスクに戻って、あらかじめ入れておいたコーヒーを口にしようと手に取ると、ハエが一匹、波紋を立てて泳いでいる。自分を見ているようだ。
社会人という底なし沼に自ら飛び込んで、必死に生きるために溺れないよう水面で必死にもがいている。
僕は給湯室にそのコップをもっていき、流し台にコーヒーを捨てた。排水口に流されていくハエを見つめて、ふと首から提げている社員証に視線をずらしてため息をつく。
暗い性格な上、ストレスも溜まっている。この社員証が首輪に見えて会社の犬のような気分になって、ますます気分が沈んだ。
「里見、どうしたんだよ。こんなところで油売ってないで、さっさと仕事に戻ったらどうだ? お前みたいな目立たないやつが、こんな陰にいたら余計に目立たなくなって、タンスの角に小指をぶつけるみたいに気付かずに蹴っちまうだろ」
すいません、と僕が頭を下げて謝った相手は、上司の
社内で嫌われ者なのだが、上村はそれを知る由もなく、女性社員に絡んではそのむさ苦しい顔の表情をアイスのように溶かしている。
対して仕事もできないくせに、自分より上の立場にいる彼の存在は僕にとって邪魔でしかない。しかし、何も言い返すことができない。悔しいことに、そんな度胸なんて僕の中には存在しないのだから。
「分かったらさっさと戻れよ。そんで、俺の仕事もやっといてくれ。机の上に置いておいたから、優先してやってくれよ? 明後日が締切だからな。ちなみに、俺の仕事だからって手を抜いてやったら・・・・・・わかってるよな。俺にはコネっていうのがあるから、俺の鶴の一声でお前の首なんて一発だからな」
「はい、わかりました」
「よろしい。それじゃあ、この後はみんなで飲みに行くから、お前は頼まれた仕事をしっかりやっておけよな。頼んだぞ」
「・・・・・・」
「返事は?」
強制的に頭を下げさせられているようで、重力がいつもより余計にかかっている気がする。はい、と俯いて答えると上村は自分のデスクに戻っていった。
みんなが飲みに行っている間、僕は残業して深夜コース、週に一回行われる。それは金曜日、華の金曜日とは言うけれど僕には山の金曜日、山場を超えるという意味の山、会社に入社して三年が経った今でも、僕がやることは上司からもらう雑用。
会議で使う資料をまとめる仕事を任されるのだが、渡される資料の内容は全く分からない。伝わらない内容をつらつらと綴られているだけで、解読するのが一苦労だ。
さてと、それも踏まえて新しく入れたコーヒーを持って席に戻った僕は、出来るだけ早く帰れるようにと画面に向かった。
僕は、今まで書類をまとめる作業しかしてこなかった。いつの間にか文字を打つ速度も視点も手元から画面へと変わっていて、まとめ方も上手くなって仕事の効率も格段に上がった気がする。だけどそれは・・・・・・出来て当たり前。
否定的で悲観的かもしれないけど、僕の能力はそこで打ち止めだ。これ以上良くならない気がする。
でもそれはそれで良いこともあって、慣れた作業だから失敗は少なく、ついでに人前で喋ることもない。上村からの仕事が無ければ完璧だ。だけど、他の人たちは上村に頭を下げて謝ったり、話を聞いたりしないといけないし、飲みに行ってプライベートを潰さないといけない。
更に、女性社員なんてその飲みでセクハラをされることがよくあるらしく、おしりを触られたり、スカートから伸びた生脚を触られることがあると耳にしたことがある。嫌だけど、みんな口を揃えて言うことが「気に入られるためなら」と、我慢しているようだ。
出来の悪い上司なのだが、運の悪いことに上村は社長の息子で楯突こうにも自分の首が心配で何も言えないのだ。
だから僕も、黙って上村の指示に従う。
「・・・・・・」
黙り込んでひたすら頭を下げるあの子は、とても可哀想だ。確か彼女は、障害者雇用で入った新人だったはず。パソコン作業をメインでやっていくと聞いたけど、あの様子じゃ何かミスをしたようだ。上村に怒られるなんて、腹立たしくてしょうがない。見ているだけでストレスを感じる。
もっとも、腹立たしいのは彼女が一生懸命に頭を下げて謝っているのに、上村はそれを上からニヤニヤと笑みを浮かべて、文句をタラタラと口にしていることだ。
動きから感じ取れる謝罪の気持ちを踏みにじるように、鈍い、クズ、しっかり働け、ハラスメントまみれの言動には湯快適悦を感じられる。
もちろん、上村は社長の息子でその行為を誰かに咎められることはないし、僕もそんな勇気はどこにもなかった。
定時を過ぎて、僕は上村と飲みに向かう彼らを横目に見送った。羨ましいけど、僕には僕の楽しみがある。お酒を嗜みながら映画の一人鑑賞会を行うことで、缶ビールと枝豆をお供に映画のジャンルはランダム、その日の気分で変わる。楽しみがないとやっていけない日々に、そういった娯楽は大切だ。
僕のタイプ音だけが響き渡る無人の職場、集中しているから気にならなかったけど、ここは心霊現象がよく目撃されるビルで、残業していた同僚が何回か恐怖体験をしている。
給湯室のお湯が勝手に沸かされていたり、ガラガラと椅子が動く音や使っていない別のパソコンが急に起動したりと、どうやら良くないものがいるようだ。
「あー、終わんねー、早く帰りてー」
時刻はとっくに二一時を過ぎており、焦りが僕の仕事の邪魔をする。
「ミスった。また打ち直さないと、しかも最初からか。くそっ、上村のやつめ」
苛立ちをキーボードに打ち付けて仕事を進めていると、モニターの向こうからポッと明かりがつくのが見える。
きたっ。
僕は毎週のように、金曜日は残業をしている。だから、心霊現象を目撃しているのは同僚だけではないけど、最初の頃は恐ろしく感じた。だって一人でにパソコンが起動するのだから、誰しも恐怖に感じるわけで好奇心も湧いてくる。
正体を調べるために、僕は立ち上がってそのパソコンに近づいてみたのだけど、足が思うように進まなくて自分の度胸の無さに腹が立った。
「誰かいますか」と恐る恐るデスクを見ると、そこには誰もいない。その時、初めて幽霊はいたんだと信じ込んでしまった。更に、給湯室の方からお湯を湧かしているふつふつとした音が聞こえてきた。
僕は、また恐る恐る給湯室へと向かった。小さな光が見える。発光体が、実体のない何かが、中でお湯を沸かしているのだと僕はそう思った。
だが給湯室を覗こうとした次の瞬間、青白く光る顔が急に現れたのだ。
「ぎやあああああああああ」
恥ずかしくも、男らしからぬ叫び声を上げてしまい尻もちもついてしまった。何かが目の前で倒れる音がして、人間の性なのか後ずさりをしつつ携帯を取り出し明かりをそちらに向ける。
すると、スーツを着た女性が同じように尻もちをついて、驚いた顔をして心臓を抑えていた。
「あれ、君って確か、昼間に上村から罵声を浴びせられていた・・・・・・」
障害者雇用の新人、まさかこんな時間に鉢合わせするとは。だとすると、パソコンの画面は勝手についたのではなく彼女がしたこと。お湯も彼女が暗闇の中、右手に握りしめた携帯のライトだけで沸かしていたということか。
「幽霊の正体は君だったのか」
そう言うと、彼女はきょとんとした顔で、その綺麗な瞳に僕を映しているように見えた。暗闇だけどそう思う。そして、彼女はおもむろにポケットから手帳を取りだして、胸ポケットのボールペンで何かを書き始める。
ひとしきり書き終わると、中身を明かりで照らして見せてきた。
〈ごめんなさい、怪我はありませんか?〉
その時、僕は気付いた。上村に対し、黙ってひたすら頭を下げていたこと、こうして驚いても叫び声を出さないこと、そして彼女が障害者雇用で入社してきたこと。
彼女は、声を出せないのか。
これが、僕たち二人が出会った最初の日である。
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