第2話 木漏れ日の下で

 今日は、いつもより心地よい風が体を包み込んでから通り抜けていく。外出して正解だ、彼女も喜んでいるように見える。繋いだ手を大きく振って、笑顔を絶やさない。ひまわりのような笑顔という表現が一番合っているのか、パッと咲いた彼女の笑顔を見る度に心が安らいでいくのがわかる。

 交際を始めてから随分たったけど、やっぱり彼女の笑顔が一番素敵だ。名前も素敵で、三峰美歌みつみねみかという思わず耳を澄ませてしまうような名前だ。容姿もいいし、他人に気を遣える優しさもある。これは惚気とかじゃなくて、出会った当初から素敵だと思っていたし他人には言いずらいが、僕は彼女の笑顔で恋に落ちた。


 普段から僕は、休みの日に家から出ることは滅多にない。だけど、今日は彼女が外で風景画を描きたいというから、彼女専用の画材を持って公園に向かった。徒歩圏内だからといって、夏の暑さに全身から汗がじんわりと吹き出てきて、冷却シートで体を冷ましながら歩いた。

 いつも通りの寝癖のような髪型は、汗のせいでぺったりと落ち込んでいて、眼鏡も汗でずれ落ちてきていちいち人差し指であげるのが面倒だ。コンタクトにすれば良かったと後悔している。


「暑っついなー、やっぱり夏は苦手だなー。暑いし蝉もうるさいし、お腹が弱いのについアイスを食べたくなる。美歌は、そう思わない?」


「・・・・・・」


「ん、どうしたの?」


 木陰にレジャーシートを敷いて画材を手に持ち座る彼女は、膨れた顔で自分の隣をポンポンと叩く。ここに座れ、そう言いたいのがすぐにわかったのだけど、彼女の表情をまだ見ていたいがために数秒空けてそっちに向かった。

 横に腰かけると満面の笑みで寄り添ってきて、これもまた愛おしくて思わず僕から笑みがこぼれた。


 遠くを見ると子供たちが少人数で野球をしているようで、小さい割にはなかなかの上手さでつい魅入ってしまった。ピッチャーの子が繰り出す直球は、素早く綺麗な一直線を描いていた。帽子を深く被っているところを見ると、甲子園の舞台で活躍する選手のように思える。

 しかし、バッターも負けてはいない。ピッチャーの投げた球を上手に拾い上げ、大空へと打ち放った。ぐんぐんと伸びていく球を追って外野の子が走っていくのだが、頭上を超えて草むらの方に入ってしまった。これは可哀想に。

 ピッチャーの子に視線を戻すと、バッターの子に向かって怒鳴っているようにみえる。まあそりゃ怒るだろうな、なんだってあそこまで飛ばさなくてもいいのに。口論になっている。バッターの子が逆上したのか、ピッチャーの子の肩を強く押して仰け反っている。

 帽子が落ちて、中から長い髪があらわになる。


「女の子!?」


 と、つい声に出してしまった。次の瞬間、伸ばしていた足に鋭い痛みが走る。


「痛って!」


 隣を見ると、美歌が色鉛筆の柄を握りしめてこちらを睨んでいた。彼女は嫉妬深い。僕はごめんと一言伝えて、簡単に理由を話した。いい球投げる男の子がいて、口論になっていたんだ。押された時に帽子が外れて、その時初めて気付いたんだけど女の子だったんだよ。と説明すると、彼女は納得してまたスケッチブックへと向かった。

 こういうことがあると、デートをする度に怒られていたことを思い出す。僕がすれ違う女性の服装を見て、美歌ならもっと似合うんだろうなと考えていると、顔を両手でグイッと向けられたり、電車で僕の隣に女性が座ってきたら、腕を引っ張って引き寄せてきたり。

 可愛い一面が多すぎて、表情に出さずに喜んでいる自分がいる。ゾッコンだとかご執心というのはこのことを言うのだろうか。


「美歌、今日は何を書いているの? この前は、ベランダに止まっていた小鳥を描いていたよね。なかなか良いところまで描けていたのに途中で飛んでいってしまったから残念だったけど、今回はそういう難しいものを描こうとしているわけではないでしょ?」


 彼女は集中しているのか、僕の質問に反応を示さなかった。仕方なく、彼女を邪魔しないように覗き込んでみる。青空、広大な芝生、青々とした緑、野球をしている子供たち。描き途中ではあるけれど、彼女の自由で幸せな気分を描き写したような、どこか心地の良い絵だった。


「とても良い絵だね」と、僕は関心した。「でもまだまだだよ」彼女にそう言われた気がした。これだけ上手な絵を描いているのに、それでも足りないというのなら、僕の画力は下手な人よりも下手になってしまうな。

 でも、棒人間が戦っている絵しか描けないのだから、下手よりも下手と言われても仕方がないか。


「それにしても、風が冷たくて気持ちがいいね。この大きな木のおかげかな。そういえば、そろそろ十二時なるから、お昼ご飯でも食べないか? 僕はお腹が空いてきたけど、美歌はお腹は空いているかい?」


 描くのに夢中だったけど、ご飯の話をすると彼女は集中を切らして小さくこくりと頷いて、描くのを一度止めて風景に背を向ける。彼女の後ろで、帰っていく子供たちの姿を見る。


「美歌、子供たちが帰って行っちゃうけど絵の方は大丈夫なの? また、ベランダに止まった鳥のようにはならないかい?」


 また描き終わらなかったなんてことが無いよう彼女に問いかけると、スケッチブックの絵を見せてにんまりと笑顔をつくった。描き終わっている。鳥の絵を描いた時に学んだのだろう、先に描き終えて他はあとで描き足していくようだ。


「そうか、描き終えていたんだね。良かったよ。それじゃあ、この為に作ったお弁当を食べてもらおうかな」


 僕は僕で、美歌に喜んでもらおうと朝から作ったお弁当の披露といこう。彼女より料理は出来ないけど、力量を理解した上で初心者でも出来るものを用意した。

 レジャーシートの上に、三段だった弁当を並べていく。「頑張って作ったんだ」とみせた箱の中身は、全ておにぎり。中身を知らなかった美歌は、目を丸くしていた。


「じゃーん! ロシアンおにぎりだよ。先に味を言っとくと、鮭にツナマヨ、焼肉、それと塩に昆布もあるよ。ちなみにロシアンだから、ハズレも存在する。味は・・・・・・秘密で。さあ、食べてみて」


「・・・・・・」美歌は無言で固まっていた。「ささ、早く早く」と急かすと、美歌は嫌そうに目を凝らしておにぎりの中身を見極めようとしていた。だが、そんなことは不可能。全て工夫を重ねて、自分でもどれがハズレかが分からないくらいに似せて作っている。

 だから「先に取るよ」と手を伸ばしたものが、ハズレのおにぎりであることを僕はまだ知らない。

 そして、美歌もやけくそにおにぎりを手に取った。ロシアンルーレットをする時の、この胸の高鳴りが大好きだった。学生時代にどれだけやったことか。思い出すだけで​─────。

 噎せ返る。

 美歌は、咳き込んでから鼻の頭を抑えて、涙を流していた。一発目でハズレを引くとは、美歌はもっている。


「ハズレだねー、わさびを入れたんだ。適量だからもしかすると、結構な量に当たったのかも」


 美歌は、こういう時でも冷静だ。水を飲んで口にハンカチを当てる。そして、こちらを睨みつける。


「ごめんごめん、まさか一発目で当たるとは思わなかったから。でも、とりあえずハズレはあと一個だけ。まだ美歌がハズレを引く可能性もあるから、気をつけて選んでね。ちなみにもう一つはわさびじゃなくて、唐辛子ペーストを大量投入したんだ。面白いでしょ?」


 余計に彼女は、おにぎりに対して不信感を抱いていた。次のおにぎりを選んでいる間、僕は手に取ったおにぎりを一口、二口と口に入れた。美味しい、やっぱり塩は最高だ。この塩味が汗をかいた体に染みて​─────。


「辛っ!!」


 今にも火をふけるほどの辛味が口全体を燃やし、痺れて、痛くて、口を開けたまま閉じることが出来ない。急いで水を飲もうとペットボトルに手を伸ばすが、美歌はそれを遠くに動かした。


「美歌、ちょっと水、ちょうだい!」


 だが彼女は、慌てふためく僕を無視して他のおにぎりを食べ進める。立ち上がって水を取りに行こうとすると、美歌は自分の懐に隠し、またおにぎりを食べ進めた。静かに怒っている。僕はすぐに察して、一言、ごめんと謝った。


「次からはこういうことしないから、僕に水を分けてください。お願いします」と懇願した。よろしいと無口のまま首を縦に振って、水を渡してくれた。

 口に流し込んだ水は、砂漠のオアシスのように感じた。なんて美味いんだ。口の中が落ち着いた頃には、辛さで吹き出た汗が涼しい風で乾き始めていた。空を見上げると、青空が時の流れを忘れさせてくれる。

 彼女と二人、こうして楽しいデートが出来て幸せでいっぱいだ。


 お昼ご飯を食べ終わると、彼女はまたスケッチブックに向かう。もう少しで絵は完成しそうだ。さっき青空を見上げた時に、遠くに見えた暗い雲が気になっていた。今日は確か、一日中晴れだった気がするけど、天気予報とは必ず当たるわけではない。完成したら早めに切り上げよう。


「そういえば、夜ご飯は何食べたい? 休みだし僕が作るよ。まあ食べたいものが無ければ、適当に料理を作るよ。一応思い浮かんでいるのは、ニラ餃子と炒飯なんだけど、美歌はどうかな?」


 話しかけても彼女は答えない。また集中してしまっているのだろうか、僕は肩を叩いてもう一度聞く。

 彼女は、スケッチブックの新たな一ページを開いて描き始める。なんだろうと、中身を覗き込むと「ごめんなさい、聞いてなかった」と書いていた。

 僕は、つい忘れてしまう。まだ慣れない。

 美歌はスケッチブックをこちらに向けて、ペンで指し示す。


〈うん、ニラ餃子と炒飯でいいよ。ザ・男飯みたいでいいね〉


「わかった。じゃあ、夜ご飯はそれにしよう」


 彼女は、こくりと頷いて絵を描き進めた。

 付き合ってから結構時間は経っているのだけど、つい普通に話しかけて彼女を困らせてしまう。

 僕は以前から、彼女の声を聞いたことがない。

 彼女は、声が出ない。

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