第21話 三章⑤ 『希望』
体育館へ先に辿り着いたシャトラは思わず口を押さえた。
「まさか、ここまでとは…………」
悪魔が放つ独特な臭いが体育館に充満しており嘔吐感が襲ってくる。
口を開くと胃の中の物が逆流するのを抑え込むのは辛いが、それ以上に状況は最悪に近いものがあった。
この独特な臭いを西洋と東洋では少し違いはあれど共通して古来より『
その中を慎重にシャトラは進んでいく。
しばらく歩いていてふと気が付いた。
「(そう言えばこの場所にはまだ生徒達と厄災の魔女がいたハズ…………あの人達は何処へ―――――)」
どうにも身体が重く感じる。
疲れなのか、それとも緊張からなのかは分からない。
そもそも、
シャトラ・ティエットという女性はこの程度で疲れるような柔な鍛え方はしていない。
「しまッッッ!?」
気付いた時には彼女の身体は魔力で生成された糸のようなもので幾重にも縛られた。
かなりの強度なのか少しでも動けば糸が身体に食い込んでいく。
「クッ!?」
ギチギチと締め付ける糸に力が込められる。
「グヒヒヒッ! ようやく油断したな、異端審問官よ」
地獄の底から響くような声が自分の上から聞こえ上を見上げると天井にはびっしりと蜘蛛の巣のように糸が張り巡らされていた。
そこには見当たらなかった生徒達や彩葉の姿も見える。
その様子は罠に掛かった獲物のようでもあった。
「失敗しましたね―――――自分の迂闊さに腹が立ちます」
ギリッと歯を食い縛る。
今までのシャトラからすれば油断し過ぎな失敗だった。
「いや、それは我が一枚も上手だっただけだ」
カサカサと何かの足音が聞こえる。
よく見ると黒い物体が巣を縦横無尽に動く姿が見て取れた。
その黒い物体は重力に従い落下し、ズン! とその巨体をシャトラの前に現した。
まず目の前に飛び込んできたのはギョロリとした複眼。
八つもある青白いその眼球が一斉にシャトラを射抜く。
次に黒い巨体はさながら蜘蛛のフォルムをしていた。
確認されている世界最大の蜘蛛は体長はおよそ十センチ、脚を広げた際の幅は三十センチで、体重は約百七十五グラムもあるルブロンオオツチグモが有名だがこれはそれを遥かに凌駕する大きさで少なくとも体長が十メートルほどの大きさだった。
常人ならばそれだけで卒倒するのだろうが彼女は平然と受け流す。
「大きな蜘蛛とは珍しいですね。その無駄に大きい図体なら記念館にでも行けばどうですか? 今より待遇はいいかもしれませんよ?」
嫌味をいうシャトラに対し、蜘蛛の悪魔は愉快に嗤う。
「グヒャヒャヒャヒャヒャ!! 我を見てもそんな大口を叩けるとは見上げたものよ。我を誰と心得るか!! 我は三十二の悪魔を従えし王、『バエル』であるぞ!!」
シャトラは絶句した。
それは畏れ、ではなくこのバエルの迂闊さにだった。
本来悪魔とは自身の名は知られてしまった場合、強制的に地獄へ還されてしまう恐れがあるので名は伏せるのが常套なのだが、こうもあっさりと言ってしまうと少し肩透かしを食らったと同時にこんな悪魔の罠に掛かった自分に憤りを感じた。
「――――――――――驚きましたね。こうもあっさりと自身の名を言ってしまう愚か者だとは…………何故私はこんなのに捕まってしまったのか理解出来兼ねます」
苛立ちを隠さず素直に表に出した。
しかしそんな彼女の表情を見てバエルは高らかに嗤う。
「下級の悪魔ならそうだろう! しかし我は三十二の悪魔を従える王ぞ! その様な些細なことでは真名を知られたところで地獄へは帰らぬし貴様ら異端審問官如きでは我は滅せぬよ!!」
つまりこの
「なるほど、では」
一呼吸を置き真っ直ぐとバエルの眼を見て告げた。
「この程度で勝ち誇るとは所詮クソ虫はクソ虫というわけですね」
シャトラは自分に巻き付いていた魔力の糸を力尽くで引き千切った。
そして手にしていた純白の鉄塊を振り上げ、
「祈りなさい」
一言だけそう言うと思い切り手にした凶器を振り下ろす。
ゴ、バッッッッッ!!
衝撃と轟音が周囲に広がる。
バエルの巨体は鉄塊に圧し潰されぺしゃんこになった。
静けさだけが残り、周囲を探るも気配はもうない。
「やはり呆気なかったですね。悪魔の王と言っても所詮この程度―――――」
鉄塊を退けるとその場にはグロテスクな蜘蛛の死骸が、
「………………これ、は」
そこにあったのは死骸、というより蜘蛛の抜け殻だった。
カサカサと中身の無い外皮が風に揺られている。
「中身は一体――――――――――ッッッッッ!!?」
シャトラの背後からとてつもない殺気を感じ思わず前のめりに転がる。
彼女の頭部スレスレを何かが薙いだ。
慌てて振り返るとそこにはバエルがいた。
しかも先程より一回り大きくなっている。
「脱皮………………ですか。見た目も中身もそのままなのですね」
軽口を叩くも内心焦っていた。
どうやらこの
「鬱陶しい――――ですがッ!」
鉄塊をもう一度振り回す。
先程より力を込めれば粉砕出来る、そう思ったのだが。
「確かにそう来るな…………だが甘い!!」
今まさに鉄塊を振り下ろそうとした時シャトラに群がるように子蜘蛛が襲い掛かってきた。
「いつの間に!?」
判断が遅れたシャトラだったが辛うじて振り下ろす鉄塊の軌道を無理矢理に変えて横に薙ぎ払う。
だが同時に無茶な動きが腕に負担を掛けたのか筋が千切れる音と骨が軋む音がシャトラの耳に届く。
「くッ!?」
思わず手から鉄塊が離れ落とし、シャトラは膝をついてしまう。
苦痛に歪むシャトラの顔を見てバエルは嗤う。
「グゲゲゲゲゲッッ!! 所詮人間なんぞこんなものよなァ!!」
八本の足を器用に動かしながらバエルが近付く。
「(くそっ! あの蜘蛛達は何処から!?)」
視線を巡らせるとボトッボトッと子蜘蛛が上から落ちてくるのが分かった。
見上げると、吊られていた生徒達の影から涌き出ていた。
正確には背中から、と言った方が正しいのかもしれない。
「…………まさか、人間に卵を産み付けたのですか?」
バエルは答えない。
蜘蛛に表情があるのかは知らないが自分が嗤われているという事だけは分かる。
シャトラにとっては屈辱以外の何者でもなかった。
「我ら悪魔にとって人間はエサだ! 我が子らは生物の生命力を栄養に育つ。同族は大した栄養はないが、そこはやはり人間。ここは我の餌場にしよう」
シャカシャカといちいち耳障りな音をだす。
バエルの口からはドロッとした液体が滴り落ちている。
その液体がポタポタと体育館の床に落ちる度にじゅうじゅうと焼けていく。
「――――――――――」
シャトラは内心舌打ちをした。
いくら何でも迂闊すぎる自分にもだが、何よりいつものように動く事が出来ない自分に腹を立てていた。
いつもなら何の躊躇いも無く人を処分することが出来た。
いつもなら何も考えずに武器を奮うことが出来た。
いつもなら、例え悪魔に操られようとその時点で悪と決めつけ何の関係もない一般人を屠ることが出来た。
だが、
それをしようとする度にあの少年の顔を思い出してしまう。
自分ではなく、他人のために怒ることが出来る少年。
自分よりも恐らく弱いはずなのに必死で食らいついてくるあの少年。
何故ここまで自分の心がかき乱されるのか?
育ててくれた敬愛する神父の為ならばこの命は惜しくないはずなのに、どうしても神父と少年を比べてしまう。
数度だけ会っただけなのに、
どうして?
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして――――――――――
力の入らない身体で上を見上げる。
意識を失っているのかぐったりとしている『厄災の魔女』と呼ばれた少女。
ある意味この場で最も幸福で不幸な少女。
何を思ったのか、力の入らない腕を伸ばし鉄塊を手にする。
そして、
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッッ!!」
渾身の力を振り絞り鉄塊を投げ捨てる。
鉄塊は勢いのままバエルの横を通り過ぎて体育館の壁を突き破った。
「気でも狂ったか!? 我に当たってはおらんぞ!!」
気味の悪い嗤い声を上げながら唾液をまき散らす。
数滴ほどシャトラに飛び純白の修道服を所々焦がしていく。
「気が狂った、ですか」
そうなのかもしれない。
今の自分は欠陥品のようなものだ。
「気が狂ったというより、開き直ったと言った方がいいでしょうか? 癪に障りますが、少し分が悪いような気がしますしね」
どこかすっきりとした表情でシャトラは顔を上げた。
「えぇ、お姫様を助けるのは古来より王子様の役目――――――――――あとは任せましたよ」
その言葉と同時に数発の銃声が鳴り響きバエルに命中する。
「グッ――――――――――何奴!?」
シャトラが開けた大穴に複眼を一点に向ける。
そこには大型の銃をバエルに向けている一人の少年が立っていた。
「よォ、少し見ない間にずいぶんな格好になっちまったな」
不敵に笑う少年はいつもと変わらない格好でそこにいる。
それがシャトラには眩しかった。
「ふぅ、遅いですね。やはり番犬さんはご主人様の命令がなければ動けないんですか?」
「うっせ!! 俺には犬塚冥夜って名前があるんだよ! 覚えとけっての」
冥夜は改めて目の前にいる悪魔と対峙する。
「うわぁ、こんなデケェ蜘蛛見たの初めてだわ。ナニコレ?」
物珍しさが勝ったのか至近距離でマジマジとバエルを見て更には頭部の部分を軽くノックするように数度叩いた。
気持ち悪さより好奇心が冥夜には大きかったようだ。
バエルはと言うとそんな突然の乱入者に戸惑っていた。
自分は悪魔で恐れられているはずだ。
今までもそうだった。
しかし目の前の人間は恐れるどころか怯えもしない。
「貴様は――――――何だ?」
そんな間の抜けた質問をすると冥夜はニヤッと不敵に笑う。
「俺はただの〝番犬〟だよ。それに―――――虫ごときに俺の名前を言ったところで理解出来ねぇだろうが」
ブチリ、と血管が切れる音がした。
「こ、の、―――――虫ケラがァァァァァァァァァァァァァッッッッッ!! 我は三十二の悪魔を従えし王、『バエル』であるぞ!! 人間が舐めるなァァァァッッ!!」
ゴゥゥッッッッッ!! と凄まじい
しかし冥夜は耳を軽く押さえ、
「あぁ? 蜘蛛じゃなくてハエだったのか? そりゃすまねぇ事言ったな」
言葉は不要と言わんばかりにバエルの腕が冥夜を捉える。
だが怒りに任せた攻撃は単調になり避ける事は容易だった。
「おうおう怒ってんなぁ―――――まぁいいや。丁度新しくなった〝コイツ〟を試そうと思ったんだ」
右手に携えた大太刀『改魔刀 ヴェヒターシュタール』と左手に構える大型六連式のリボルバーマグナム『改魔銃 シュバルトブリッツ』をバエルに向けた。
「〝
冥夜が名乗り戦いの火蓋が気って落とされる。
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