003『アルシエルという名の少女』

 ゾゾッと鳥肌が立って固まる僕に、アルシエルと名乗った少女がカクンと首を傾げる。その様がまた人形的で気味が悪い。


「……ッ!」


 反射的に僕は彼女を突き飛ばしてしまった。


 突き飛ばされたアルシエルは壁に後頭部を思いきりぶつけたが、しかし痛がるそぶりも見せず不気味な笑みを携えたまま不思議そうにただ僕を見つ続けている。ほとんどホラーだった。


「な、何なんだよお前……!」


 いよいよ恐怖を感じてきて声が震える。

 アルシエルは少し悩んだそぶりを見せてからポンと手の平を拳で叩くと、


「なるほど、そういうことデスか。この姿でお会いするのは初めてだったデスね。この体はそこらで拾ってきた魔術師のメスガキの死体デス。便利なのでアルシエルが使ってやってるデス」


「は……? し、死体……?」


 死霊術ネクロマンシーという言葉が即座に思い浮かぶ。中二病時代の僕は古典的な正義のヒーローよりもダークヒーローに憧れたタイプだった。目の前の少女もそっちのタイプなのだろうか。


 そうだとしたら、雰囲気作りは完璧だ。これは自分以上の重症患者かもしれない――と、そう思うのと同時、光の感じられない暗い穴のような彼女の瞳を見ると、どうしても自分の考えに自信が持てなくなる。


 中二病とはいわば行き過ぎた〝ごっこ遊び〟だ。子供が戦争ごっこをしても兵士の雰囲気を出せないように、本物を知らない人間のごっこ遊びでは本物の雰囲気は出ない。ごっこ遊びで醸し出されるものと言えば滑稽さぐらいのものだ。


 だというのに、この子の異様な雰囲気はどうしたことだろう。

 自分よりも年下にしか見えない彼女が纏う不気味な雰囲気は、それこそ本物の死者のような生気のなさを思わせる。


 もしかして本当に――いや、何を考えているんだ僕は。馬鹿馬鹿しい。いい加減中二病を卒業しろってんだ。


 〝もしかして〟という思考を追い出すように頭を振ると、忌々しい仇敵を見るつもりで彼女を睨みつけた。そうでもしなければ、中二病思考に負けてしまいそうだった。


「……悪いけど、そういう痛々しいのはやめてくれ。僕はもう中二病は卒業したんだ……もううんざりなんだよ」

「チュウニビョー? 何デスか、それ?」


 アルシエルは音もなく立ち上がりながら首を傾げる。


「とぼけんな! マジで中二病の妄想はもうたくさんなんだよ!」

「妄想?」

「何だよ、妄想じゃないってか? だったら証明してみろよ! お前が死体だっていう証明を! できるもんだったらな!」

「いいデスよ」

「ほら見ろ、やっぱりできな――……え? いいですよ?」

「アルシエルはご主人が何に怒っているのか分かりませんデスが、とにかくこのメスガキが死んでることを証明すればいいのデスね? それなら簡単なことデス」


 アルシエルは何を考えているのか分からない虚無的な表情でそう言うと、パーカーの胸元に付いたファスナーをジジジッとゆっくり下ろしながら僕に歩み寄ってくる。

 

 そして、反射的に後退ろうとした僕の腕を取ると自分に引き寄せ、そしてそのままぱっくりと開いたパーカーの胸元へ挿し入れた。


「ちょ、え!? 何して――…………え?」


 最初の驚きはもちろん彼女の突拍子もない行為そのものに対するもの。しかし、その驚きは続いてやってきた〝驚くほど冷たい体温〟に対する驚きで塗り替えられてしまった。


 体温が低いという次元ではなかった。まるで、つい先ほどまで氷水にでも浸かっていたのではないかと疑うほどに、彼女の肌からは温もりが感じられなかった。


 その衝撃に硬直している間に、アルシエルは「ほら、ちゃんとここに手を当ててくださいデス」と言って左胸へ僕の手の平を移動させる。


「……そんな……馬鹿、な……」


 異性の胸に触れているとか、そんなことがどうでも良くなるぐらいの衝撃に身を凍らせる。

 彼女の胸の大きさは歳相応。拍動が手で感じられなくなるほどの厚みなどないというのに、僕の手の平は何のリズムも感じ取ることができなかった。


「……心臓が……動いてない……」


 呆然として彼女の顔を見る。そして、そこで初めて彼女に対して抱いた〝違和感〟の正体に気が付いた。

 

 瞳孔が開いているのだ。夕暮れ時とはいえ、夕日が差し込み十分に明るいこの場所で、彼女の瞳は完全に散大していた。


 氷のように冷たい体温。鼓動の感じられない胸。散大する瞳孔――まさしくそれは、死人であることの証明だった。


「……嘘、だろ……? お前は……一体何なんだ……」


 目眩を感じた。ふらふらと蹈鞴を踏んだ直後、足がもつれてその場にへたり込む。


「何って、だからさっきからアルシエルだと言ってるじゃないデスか」

「いや、それだけじゃ何も分からな――」


 と、そこまで言い掛けてふと引っ掛かりを覚える。アルシエルという言葉は中二病時代の僕にとって、とても身近な言葉だった。彼女の名前がと同じなのは果たして偶然だろうか。


 荒唐無稽すぎる考えに思い至って固まる僕に、彼女はどこからか取り出した革張りの本を差し出してきた。

 瞬間、僕は自分の考えが間違っていなかったことを確信した。


 幾何学文様が描かれた古めかしいブラウンレザーの表紙。それは僕がこの世で最も忌み嫌う黒歴史の象徴。


 ――中二病時代に捨てた黒歴史ノートォォォォ!?


 中二病から卒業するため、涙を呑んで海に投げ捨てた自作の魔導書〝深淵ノ理アルシエル〟に間違いなかった。


 と、不意に。本当に突然、僕の虚を突いて、表紙が歪んでシンボリックな目と口の絵が浮かび上がった。目がギョロリと僕を見上げたかと思うと、そのギザギザ口が少女の代わりに『デススススッ!』と奇怪な笑い声を上げる。


『アルシエルは深淵ノ理アルシエル――ご主人が創始した深淵魔術の大魔導書、深淵ノ理アルシエルデス!』


 ――黒歴史ノートが喋ったぁぁあああ!?


 あまりの衝撃に僕は馬鹿みたいに口を開けて〝黒歴史ノート〟だったはずのそれを見つめること以外、しばらくの間できなかった。

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