第十一話「千寿の決意」

 千寿は荒川の川岸を歩きながら、ため息をついていた。


 彼女の出で立ちは鉢金を頭につけ、体には鎖帷子を纏っている。非常に勇ましい恰好であるのに、それに反して気迫はあまり感じられない。


 いつもの千寿はその丁寧な物腰の裏に、凄まじいまでの覇気を秘めている。それが今は全く感じられない。


 いつもの彼女を知る者なら頭を傾げたに違いない。


 これは、これから行う予定の捕り物に原因がある。


 旗本の娘達を攫った歓喜堂の本拠地は、荒川の中州に存在していた。


 江戸の北に位置する広大な中州であり、豪雨によって増水すると水に覆われる場所である。


 元々そこには水害が起こらぬ様に祈願するための寺が立てられていたのだが、どういう訳か真言立川流の一派と目される象眼の一味が乗っ取って根城にしたようである。


 中州に建てられたその寺は、攻めるとなると非常にやりづらい。渡河作戦というのは古今東西の戦において困難なものなのだ。


 しかも彼らは元々幕府転覆を目論んでいたためか、本拠地の防護はかなり強化されている。最近は中州に設置された構造物を押し流すような氾濫が起きていないのが、彼らに幸運したのだ。案外彼らにも仏の加護があったのやもしれぬ。


 荒川の様な大きな河川の岸には、何処からともなくやって来た民が住み着くものである。彼らに聞いてみたところ、中洲の寺に女達が連れ込まれたのは間違いないらしい。


 彼らは大分前に管理する者もおらず荒れた寺にやって来て、それいらい大勢の人間が出入りしているのだという。


 かつては水天寺と呼ばれていたはずなのだが、彼らは歓喜寺と自称しているとの情報も得ている。


 本来寺社領であるため、寺社奉行が管理すべき寺であった。だが、あまりに辺鄙な場所にあるため、宗門からも奉行所からも忘れられてしまい、その隙を象眼は突いたのだ。


 寺社奉行所のある意味怠慢が事態を重くしているため、寺社奉行の土井は全力でこの事態に当たろうとしている。


 歓喜寺への踏み込みは各奉行所の協同で行う事になっているのだが、やはり寺社奉行は大名である。その勢力は一番大きい。その次は両町奉行である。与力や同心はそれほど多くは無いのだが、その下には多くの捕り方が編成されている。こと捕り物に関しては彼らに並ぶ者はいないため、彼らこそが今回の捕り物の主役とも言える。また、北町奉行の稲生は娘が歓喜寺に囚われているため不参加で、その部下達は南町奉行の大岡に預けられている。


 勘定奉行は道中奉行も兼ねているため、この地域一帯は彼らの管轄である。勢力が少ないため直接は踏み込まないのだが、辺りの道を閉鎖する役割に就いている。


 そして千寿が率いる女奉行所なのだが、突入部隊に組み込まれてはいるのだが、特段役割は与えられず遊撃的な立場である。勢力が少ないのであるから仕方がない。一人一人は武勇に優れているのだが、この様な事態では数がものを言うのだ。


 千寿が気にしているのは、別に自分達の活躍の場が少ないという、そんな理由ではない。


 この作戦では大きな犠牲が出る可能性があるのだ。


 娘達は歓喜寺の中に未だ囚われたままであり、もしも踏み込めば人質にされる事は必定だ。


 歓喜寺は中州にあるため、周囲は水に覆われているので攻め寄せるには困難なのであるが、奉行側は相当の大人数を用意している。これだけの勢力で犠牲を省みず攻撃を仕掛ければ、間違いなく象眼達を討ち取る事が出来る。しかし、それには時間がかかるため娘達の犠牲が出る事は間違いない。


 とは言っても、寺の壁は高くよじ登るのも時間がかかりそうだ。また、門も相当強化されており、かつて小松修理亮の屋敷を攻撃した時の様にせんが槌で叩いたとしても、打ち破るには相当時間がかかるだろう。それでは遅いのだ。


 何もこの事に関しては、千寿だけが心配しているのではない。評定で策を練っている時にこの事が問題となり、他の奉行達もこの事をどうすべきか思案したのだ。犠牲になるのは旗本や豪商の娘達であり、犠牲者が出れば恨みを買いかねないという思惑もあるのだが、人道的な思いだとて当然ある。


 結局良い案が浮かばず将軍に状況を報告したのだが、構わず攻撃せよとの沙汰があった。


 もしも中にいる娘達を気にするあまり、攻撃が疎かになるようでは寄せ手の被害が大きく成りかねない。ならば気にせず攻撃せよと言う事だ。


 これは非常な様であるが、正しい事は千寿も理解している。囚われている娘達は三十人程度だが、その命を気にするあまり妙な策を弄して失敗したのなら、その何倍も被害が出るだろう。ならば思い切って攻撃した方が被害が小さいというのは当たり前の話である。


 だが、理屈と感情とでは話は別なのだ。


「千寿様! ここに居ましたか!」


「せん、声が大きい。寺の連中に気取られたらどうする」


「すみません……」


 思案する千寿に近寄って来たのは、美湖とせんであった。彼女らも戦支度を整え、いつも以上に勇ましい出で立ちである。


「ああ、迎えに来てくれたのですね。もうそろそろ準備をせねばなりませんからね。では、戻りましょうか」


「千寿様、囚われた者達をどうすれば、無事に助け出せるか、それを考えていたのですね」


「そうです。ですが、余計な事を考えるのはよしましょう。味方の犠牲を増やす訳にもいきませんから」


 味方の犠牲が増えると言う事は、今目の前衣にいる美湖やせんも犠牲になるかもしれないのだ。彼女らはそれぞれが猛者であるが、戦場にあってはどの様な武芸の達人でも負傷する時は負傷するし、死ぬ時は死ぬのだ。有名な柳生石州斎だとて剣の腕だけで自らの領地を守り切る事は出来なかったし、二刀流で名高い宮本武蔵も城攻めの時に石をくらい負傷している。


 まさか、千寿達がかの剣豪達より実力が上なはずもない。


「千寿様、この荒川の下流は、隅田川に繋がっているそうですね」


「ええ、そうですね。それが何か?」


 美湖が急に妙な事を言い出したので、千寿は面食らった。


「私はまだ幼く覚えていないのですが、親類から、昔千寿様が隅田川の近くで不逞の輩に連れ去られそうになったと聞いています」


「そうですね。そんな事もありましたね」


 あれは単なる身代金目当ての犯行だったのか、それとも当時勘定奉行を勤めていた父への脅しだったのか、今でも判明していない。


 だが、あの時の恐怖は今でも千寿の脳裏に刻まれている。


「ですがその時、何処からともなく現れた若侍が救出してくれたとか。そしてその者は三葉葵の家紋の入った印籠を持っていたらしいとも」


「そうですね。何処のどなただったのでしょうね?」


「それは私の口からは申しません。ですが、千寿様が武芸に励まれるようになったのはその後の事だと聞いています」


 美湖に言われた千寿は、視線を美湖から外して何処か遠くを見た。その目は過去を見ているのだろう。


 少しの間そうしていた千寿は、口を開いた。


「言いたい事は分かりました。歓喜寺に囚われた娘達を、一人でも多く救う方法を見つけ出すべきだと、そう言いたいのですね?」


「そうです。私もせんも、他の者達も同じ考えです。そうでなければ大奥を辞して女奉行所に勤める意味がありません」


「分かりました。あなた達の気持ち、ありがたくいただきます。そして何か策を見つけましょう」


 千寿の心は決まった。幼い事に決意した初心に戻り、最後の最後まで多くの者を助けられるように力を尽くすのだ。


「でも、どうしたら良いのでしょう。あの寺は、壁も門もかなり強固です。あれは私でも壊すにはかなりかかります」


 ここでせんが口を挟んだ。旗本屋敷の門だとて丈夫に作られているのだが、せんにとっては飴細工の様に容易く破砕された。これは当時昼間に下見した時、せんが可能だと自信をもって進言したので、それを採用しての事だ。そのせんが今回は無理だと言っているのだから、その通りなのは間違いがない。


 女奉行所の精鋭たちは自らの実力に自信を持っているが、それは根拠のない自信ではない。自分の限界を見極め、無理な事は無理だと認める事が出来る。

それもある意味での強さなのであるが。


「その件に関しては、拙者にお任せを」


 そう言ったのは、いつの間にか近づいてきていた赤尾であった。そして中年の侍を一人連れている。


「女奉行所の軍師といえば拙者において他にありませぬ。お奉行様がその様にお考えならば、もちろんそのための策を立てます」


 将来を言い交した者が死に、相当憔悴していたのだが、今の赤尾はいつもと同じように見える。恐らく復讐戦を前に頭が研ぎ澄まされているのだろう。


「そうですね。確かに赤尾殿に相談すべき案件ですね。ところで、そちらにいらっしゃるのはもしや?」


 赤尾が連れている侍に、千寿は見覚えがある。


 その侍は一見冴えない風貌をしているのだが、その眼光は鋭く叡智が宿っている。そして、その服装を見ればそれなりの地位にある旗本である事が見て取れる。


 かつて、この侍が千寿の父に挨拶に訪れた際、彼女は応接でその姿を見たはずだ。


「私の名は北条新蔵氏庸と申し、千絵の父です。この度は娘の事もあり、助力したいと思いこうして弟子の赤尾に頼み込んで推参した次第」


 この男、天下に名高い北条流軍学の道統を受け継ぎ知恵者として名高い、北条新蔵その人であった。

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