第十話「真言立川流」
「この者は一体何者でしょう? 恐らくこの事件の重要な手がかりであると思うのですが」
女奉行所の中庭に転がされている男を見て、千寿は言った。男は月代も剃らぬ浪人風の身なりをしている。ただし、服はちゃんと選択されており、風呂にも定期的に入っているようで不潔さは感じない。何らかの定職に就いているか、割りの良い仕事をしているのだろう。
「流石お奉行、察しが良くて助かります」
千寿の問いに答えたのは赤尾であった。彼は将来を言い交した北条千絵の死により打ちひしがれていたのだが、今は立ち直っている様に見える。もちろん昨日今日で元に戻るなど有り得ないため、あくまで表面上の事である。だが、個人的な感情も含めてこの事件の解決に全力を尽くす覚悟が定まったのだろう。
「それでは、判明した事を報告してください」
「はっ」
ここからは美湖が話し始めた。
先ず、この男は歓喜堂の関係者であり、大本宗全という名前だ。さる大名家に仕えていたのだが、失態により浪々の身となり縁あって歓喜堂を運営する象眼の部下になったのである。
宗全以外にも同じような浪人達が何人も拾われており、宗全も組織の全体像は分からないが、江戸中に散らばるその一味は百人を超えるのではないかと考えている様だ。
象眼は表向きは私塾の経営者であり学者であるのだが、その本質は別にある。
真言立川流という真言宗の流派がある……というよりもあったのだが、象眼はその流れを受け継いだ者なのである。
ここで真言立川流について、
幕府の弾圧により姿を消してしまったのだ。
何故その様な事になったのかというと、真言立川流の信仰形態が要因だとされている。
性的な儀式を行う。
髑髏を本尊として祀る。
その髑髏本尊は、性的な儀式によって分泌された体液を髑髏に塗りつけ、その上から金箔などを張って作成する。
これらの様な信仰は、淫祠邪教の所業だと断ぜられ、時には関係者が捕縛され、厳しい処罰をされ、この時代にはその姿を消していたのであった。
もっとも、これらの淫らで邪悪としか思えない儀式を行っていたというのは、弾圧のための言いがかりであるという説もある。敵対する宗派から因縁をつけられ、そちらに加担した幕府によって真言立川流が攻撃された可能性は十分にあるのだ。
また、その教えには性的な儀式が含まれているが、解釈によっては彼らの信仰は男だけでは完結せず、女の協力も無ければ成り立たないとも言える。これが、男性優位な制度により成り立つ社会を是とする幕府にとって、都合が悪かったとも考えられるのだ。
真相は全て闇の中である。
その闇の中に消えたはずの真言立川流が、こうして千寿達の前に姿を現したというのだ。
「なるほど、真言立川流が関わっているというのであれば、その象眼という者が経営していた歓喜堂という私塾で女に対しても高い水準の教育をしていたというのも頷けますね」
男女の平等が信仰に含まれているために、女人を対象とした教育を実践しようとしたのである。
女子教育の充実は、千寿も歓迎する所である。真言立川流が淫祠邪教の滅ぼすべき教団であるという風評は、間違っていたのかもしれない。
「そして、旗本の娘達をとり込んでいき、数十年後には彼らを国教とするというのが、象眼の目的だった様です。旗本家や豪商の娘が多く信仰するようになれば、その影響は夫や子供達にも及びますからね。そして形勢が傾いたところで、一気に幕府を乗っ取ると」
残念ながら、やはり邪教だった様だ。
真言立川流事態が邪教であったかは定かではないが、象眼という男のやろうとしている事は社会に大きな混乱をもたらす。自然と教えが広まっていくのならばまだしも、この様なやり方は問題だ。
「なるほど、事情は分かりました。しかし、よくこの男を捕まえられましたね。まだ歓喜堂の実態すら不明でしたのに」
「それは、千絵殿のおかげです」
「千絵殿の?」
ここからは赤尾が返答した。北条家に運ばれた千絵の遺体を検分した時、髪の中から小さな紙切れが出て来た。
記号が羅列されており、一見して何の事だか発見した同心には分からなかったのだが、そばについていた赤尾はすぐに内容を理解した。
北条流で使用する暗号だったのだ。
北条流や竹田流の様に歴史のある軍学は、戦乱の世から遠ざかっているために観念的な事ばかり教えている様に思われているが、実際はそうとばかりとは言えない。
教えの中には諜報や防諜に関しても含まれており、当然暗号に関しても教えられている。同じ北条流の一門の中で
も暗号に関してはそれぞれ仕える家によって相違があるが、千絵も赤尾も北条新蔵の直系の弟子だ。同じ様式の暗号を使用している。
そこには隠れ家の一つが記されており、そこを襲撃したところ宗全が一人で後始末をしていたところに遭遇したのだ。もしも遅れていたら、手掛かりを失っただろう。
また、千絵の手記には他にも真相をしる手掛かりが記されていた。
歓喜堂の中には、象眼を中心とする本気で世の中を覆そうという派閥と、それは建前で上手く立ち回って金銭を得ようという一派があった。
娘が真言立川流が背後にある私塾に通っているというのは、家にとっては醜聞に成り得る。そのため、旗本や豪商の実家を強請ろうという者が現れたのだ。それは象眼の手の者により防がれ、粛清されたのであるが、これを発端に歓喜堂が普通の学問所で無い事が娘達に知れたのである。
その時歓喜堂にいた娘達はその場で捕らえられ、その他の娘達も別の場所で誘拐されてしまった。事を露見させないためである。
そして、歓喜堂の本拠地に連れ去られてしまったのだが、そこから何とか脱出したのが千絵なのである。
何とかこれを然るべき所に知らせようとしていたのだが、雑司ヶ谷の辺りで追いつかれ、何とか一人倒したところで刺殺されたのであった。
「そうですか。千絵殿のおかげで真相に近づくことが出来ました。感謝します」
千寿は目を瞑って千絵の冥福を祈った。
「ところで、その象眼とやらはこれからどうするつもりなのです? 既に計画は破綻しているようですが」
「それが少し厄介な事になってまして」
説明し始めたのは、町奉行所同心の忠右衛門であった。
彼の説明によると、象眼ら歓喜堂の主流派の者達は本拠地の寺に立て籠り、武装蜂起の準備をしているというのだ。
「な、何故その様な事になるのですか? 逃げるとか、もっと他にする事があるでしょうに」
千寿は困惑した。象眼達は邪教と断じられている教団ではあるが、今のところそこまでする必要性が無いように思える。
これまでやっていた事は単なる私塾経営だし、強請ろうとした者を殺したのは問題であるが身内の事である。表面化しても幕府はそこまで問題視しないだろう。
旗本の娘、しかも有名な北条流軍学の長である北条新蔵の娘を殺したのは大きな問題であるが、これも下手人を差し出せば事を大きくせずとも切り抜ける事は可能だ。
それなのに何故武装蜂起に結論が飛躍するのか。
「どうもこの象眼という人物、神憑り的な所があるらしく、それを慕ってついてくる者も多いそうなのですが、時折この様な突飛な事を言い出すそうです。今回の事もこれは御仏が与えた試練で、これを乗り越えれば自分達の正しさが世間に示せると、逆に血気盛んな様です」
「何と傍迷惑な」
これまで千寿は象眼の事を信念があっての行動をしている人物だと思っていたが、これはただの狂人かもしれない。
狂人は時として驚くべき突破力で社会を変革するが、失敗すれば周囲の者を巻き込んで被害を撒き散らす事になる。
「事情は分かりました。そうなれば捕らえられたままの娘達が心配です。速やかに救出しなければなりません。私達だけでは手勢がたりませんので、他の奉行に協同を申し入れます。丁度町奉行所や寺社奉行の方がいるようなので、それぞれの奉行に臨時の評定を開きたいと伝えて下さい。赤尾は歓喜堂の本拠地周辺の地図を探し、攻める策を立案する様に。他の者も、すぐに出発できるように準備を整えなさい。良いですね?」
千寿の言葉により、各々が行動を開始した。
この時はまだ、坊主や浪人相手の捕り物など、容易く終わるだろうと皆が考えていたのだった。
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