第九話「再び御用之間」
まつと平蔵の行方は、結局分からず仕舞いであった。気絶していた浄円院と滝川は、法明寺の心中事件を聞きつけて大勢の人が集まって来た時に互いの姿が見えなくなり、その瞬間に何者かに殴られたのだという。幸い後遺症になる事は無いとの医者の見立てだ。
だが、将軍の側室として中臈になる予定のまつを大奥の外に連れ出した挙句行方不明にしてしまった事は大失態である。しかも、大奥の重鎮中の重鎮である御年寄の滝川も負傷し、将軍生母たる浄円院まで危険に晒したのだ。これは大問題である。
そのため、千寿はすぐに吉宗に報告するために登城した。幸い千寿には色々と伝手が多いので、吉宗との面会希望についてすぐに耳に入れる事ができ、中奥の御用之間に通された。
あまり公にしたく無い報告内容だ。内密に話せる場を用意してくれた事は、吉宗なりの配慮であろう。
部屋に入るとすぐに千寿は事件の内容について虚飾を交えずに簡潔に報告した。保身に走った弁明をするのは見苦しいと考えているし、吉宗がそういった事を嫌うのも良く知っているからだ。
吉宗の反応としては、意外な位に淡々としていた。
実の母が危険な目に遭った事についても特に何も表情を変えなかったし、まつを見失った事に関しても反応を示さなかった。
自分が側室にと望んだ女が失踪、場合によっては男と駆け落ちしたかもしれないのに、それに対して何の感情も見せる事はない。ただ、淡々と受け止めるだけであった。
それどころか、自分がまつを側室にしたいとの希望を伝えた事すら覚えているか怪しい。これは、単に気まぐれかその場の軽い気持ちでまつを指名しただけであり、まつに関して特に何かが気に入ったとかその様な事は無かったのであろう。
確かに吉宗がまつの事を忘れている可能性はあった。普通将軍が側室にと大奥の腰元を指名したのなら、すぐにでも準備が整えられる者である。それなのに、今回はまつの事情があったため今まで相当な時間が経過していた。普通なら何か苦言を漏らしてもおかしくはない。もしもそうなったならまつの意思を無視して側室として吉宗の閨に送り込むしかなくなってしまう。
それを恐れていたため、滝川も千寿も事態の解決を急いでいたのだ。
だが、吉宗にとって大した関心事ではなかったのである。
「そんな事情があったのなら、早く申し出れば良かったではないか」
吉宗はそんな事も言った。
これは君主として家臣の進言を聞き入れる寛容な美徳を示しているものである。これは、目安箱の設置で庶民の声を直接聞こうという姿勢にも表れている事であり、吉宗が天下人として傑出した所でもある。
だが、上の者がそう言っていたとしても、下に付き従う者達にとって、それを素直にとる訳にもいかぬのが現実である。それが分かっていない。
それを純粋ととるか、鈍いととるのかは、人それぞれだろう。上に立つ者が鋭過ぎるのは下の者にとっても気苦労が多いため、この位の鈍さが丁度良いのかもしれない。
それでも千寿はもっと細やかな配慮を吉宗には期待したいのだ。
「滝川は大した怪我ではないようで何よりである。大奥にとって滝川は無くてはならぬ人材だ。後で薬を届けさせよう」
滝川は権力と財を巡って欲が渦巻く伏魔殿である。その大奥を御するのは並大抵の力では務まらない。滝川は大奥で実権を握る御年寄の中でも傑出した能力を持っており、しかも清廉な人物だ。吉宗の言う通り得難い人物である。
だが幕政改革に取り組む吉宗にとって、大奥は多額の費用を浪費する獅子身中の虫とも言える。ならばこの事件を利用して大奥の統制を強めてもおかしくはない。
かつての絵島生島事件の様にだ。
だが、吉宗の口調からは、心底滝川の身を案じている様にしか感じ取る事が出来ない。母や側室にと望んだはずのまつに対する冷淡さとはまるで違う。
「この件はこれで終わるとして、行方不明の事件についてはどうなのだ?」
「はい、その件に関しましては……」
吉宗はまつが行方不明になった件に関して既に関心を失ったようだ。それよりも、旗本の娘達の大量失踪事件について知りたいようである。
千寿は、失踪した旗本の娘達が歓喜堂という私塾で高い水準の教育を受けていた事や、その歓喜堂が今ではもぬけの殻になっている事について報告した。また、北条新蔵の娘である千絵が雑司ヶ谷の法明寺で不審な死を遂げたという事もだ。
「そうか、ならば調査を進めてくれ。寺社奉行にもこの事件の解決に協力するように申し渡しておく。それほど向学心のある女子達は国の宝である」
女子教育に関して否定的な者が幅を利かせる世の中にあって、吉宗の反応は好意的である。これには千寿も安堵した。
だが、何か引っかかりを覚えるのも事実である。
少しその違和感について考えてみると、ある結論に至った。先日の吉宗との会話でも感じた事であるが、吉宗は能力によって人の価値を判断している。
だからまつの様に取り立てて才覚を見せぬ女に関しては記憶から消えてしまうし、実の母ですらその安否への関心を示さない。
反対に滝川の様に実務において能力を発揮している者については、例え女だろうと立場上対立関係にあろうと素直に好意を持つし、見所のある向学心のある娘達にも関心を寄せる。
天下を統べる者として、才を愛するのは当然であり、そこに男女の区別をもつけない事は吉宗の開明的な思想の表れであろう。
噂では毛嫌いする者も多い蘭学にも興味を抱いているそうだ。
大きな繁栄をもたらし、多くの者を救うためにはこの様な考えが必要なのだろう。だが、吉宗にはそれだけで終わって欲しくないと千寿は感じている。
とは言え、それをこの場で口に出す訳にもいかない。ただ言っただけでは無駄であろうし、千寿としても自分の思いが定まっていない。自分が落ち着かぬのに他人の心に響かせるのは難しいだろう。
千寿は事件の早期解決を約束し、城を後にした。
そして、女奉行所に帰った千寿を待ち構えていたのは、町奉行所や寺社奉行所の役人達も含めた事件の関係者と、彼らの中央で縄に縛られて転がされている男の姿であった。
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