第四話「大量失踪」

 美湖とせんがまつが女奉行所に戻って来たのは、数日経ってからであった。


 まつと将来を言い交した相手である平蔵は名主の息子であり、同じ村の百姓の娘であるまつとは幼馴染であった。互いの家も昔から関係が深く、幼い頃から将来は結婚するものと本人達も含めた誰もが信じ切っていた。


 そこに、まつが公方様の側室に求められているとの報をもたらしたのが美湖達である。誰もが周章狼狽した。無理もない。天下人の気まぐれで、これまで描いていた将来像が全く変わってしまうかもしれないのだ。特に平蔵の動揺ぶりは美湖もせんも気の毒に思う程だった。


 まつや平蔵の実家が、もっと貧しい水呑み百姓であったなら、気持ちをすぐに切り替える事が出来たかもしれない。明日をも知れない生活をしていたのなら、例え将来を誓い合っていたとしても先ずは生きる方を優先せざるを得ないからだ。だが、両家共に百姓としては裕福であり、容易くまつを将軍に差し出したいとまでは思えない。


 だが、断固としてまつが側室になる事を防ごうとまで思っている訳ではない。名主という地位であるからして、地域の者達に責任を負っている。お上に睨まれる様な事は避けたいという義務感がある。そして、まつの幸せを思うのなら一時的な感情ではなく、天下人のものになるのを祝福した方が良いのではないかという考えもあるのだ。


 結局、容易く結論は出せないと言う事になり、まつと平蔵で話合わせる事で話は決した。


 旅支度を整え次第、平蔵は江戸に来る事になった。そして、それに合わせてまつの外出の許可を貰えるように、御年寄の滝川に頼むよう、美湖達は千寿に頼んだ。


 千寿としては、それに異存はない。おそらく滝川も了承するだろう。


「ところで、少し時間がかかりましたね。もう少し早く帰ってくると思ってましたよ」


 美湖もせんもかなりの健脚である。まつの故郷と江戸の距離なら、二日もあれば話をつけて帰って来れるだろう。


「伊奈様にも一応話を通しておく必要があると思いましたので」


「なるほど、気付きませんでした。助かります」


 まつや平蔵の村は、関東郡代たる伊奈の支配地である。そしてまつが大奥に奉公に上がるに際し、伊奈の配下がその保証人となっている。勝手に話を進めては伊奈の顔を潰す事になるし、場合によっては後々不利益を被りかねない。


「それで、伊奈様はなんと?」


「事情は納得されて、我々の思う様に話を進めて構わないと」


「それは良かったですね。上様に絡む事ですから、厄介事になりかねないと渋られても仕方がなかったのですが」


 伊奈が実に素直な態度をとったのは、正直女奉行を恐れての事であろうと美湖もせんも思っていた。


 伊奈は江戸の周辺を支配地域とする関東郡代であるからして、近頃江戸で評判の女奉行の活躍と、その苛烈なまでの成敗ぶりを耳にしている。


 高位の旗本をまとめて成敗した事を皮切りに、江戸でも名の知れた豪商やヤクザ者を皆殺しにし、権現様のお墨付きで守られた名家すら焼き殺したという。


 極めつけは最近しでかしたばかりだという大名行列の襲撃だ。命を奪う事は流石にしなかったというのだが、なんと大名を顔の形が変わるまで殴り続けた挙句、隠居に追い込んでしまったのだとか。


 細部は違うのだが、伊奈の耳にはその様に情報が伝わっていた。深畠家の大名行列を襲撃したのは、周囲に旅人がいない場所だったのだが流石に関東郡代は地獄耳である。江戸の周辺で起きた事ならかなりの事が耳に入るのだ。だから公にはなっていないこの事件の事も、中途半端ながら知っていたのである。


 深畠吉親を激しく殴打したのは、六尺を超える怪力無双の女だと言う事もだ。


 そしてどう見てもその本人らしい、せんと名乗る女が伊奈の目の前にいた。


 恐らく女奉行所の意向にそぐわねば、良くても怪力女に殴打、悪ければ斬首される事は必定である。


 その様な考えで、伊奈は美湖達の話を承諾したのである。もちろん、この一件は女奉行所の管轄になったのであるから、その結果何が起きたとしても伊奈の責任ではないという打算もある。


 だが一番の理由は恐怖と、無事生き延びたいという根源的欲求であった。


 この様に風評による恐怖も活用して、交渉事を有利にしようという事は、真面目一辺倒の美湖ですら考えていた。女奉行所の軍師たる赤尾が当初からその様に提案しており、だからこそ瓦版まで活用して女奉行所の活躍を江戸中に知らしめたのである。そしてそのおかげで仕事をする際に話をつけやすくなっている。


 それなのに、千寿がその事に思い至っていなかったというのは一体どうした事だろうと、美湖もせんも不思議に思った。


 千寿は捉えどころのない柔和な態度を普段崩さないが、その実かなり計算した考えや行動をとることを彼女らは知っている。大奥勤め時代からの付き合いなのだ。千寿が魑魅魍魎が潜み愛憎欲得が渦巻く大奥で、巧みに立ち回って地位を築いて来たのは間近で見てきたのだ。


 その千寿ならば、当然女奉行所の使いを前にした伊奈がどの様な態度をとるのか、予想出来て当然のはずだ。

いや、そもそも、普段の千寿ならば美湖達が訪れるより先に伊奈に話を通すための使者を派遣してもおかしくはない。


 普段の千寿とは少し違う様だ。


 城で将軍に面会してから、何かおかしい様に美湖には思えた。


 公方様と面会した時、何かあったのだろうか。そういえば、公方様が紀伊徳川家を継ぐ前、部屋住みの三男坊に過ぎなかった時期の出来事を千寿様が話していた様な記憶があるが、もしや千寿様は……


 そんな事を思った美湖であったが、それを口にしたとてどうにもならない。千寿は聡明で心根の強い人物だ。しばらくすれば元に戻るだろう。そう考え、それまでの間自分が支えねばと心に決めた。


「赤尾陣内、町奉行との情報交換の内容を報告しに参りました」


「入りなさい」


 部屋の外から赤尾が入室の許可を乞い、千寿はすぐにそれを許した。


 美湖は少し妙だと感じた。いつもなら赤尾はこうした時答えも聞かずに入って来る。女達の控室や千寿の執務室はともかく、この会合のための部屋は基本的に出入りが自由という事になっているからだ。元も赤尾以外の者は気後れして入る前に許可を取るのが殆どなのであるが。


 しかし、今日の赤尾は一体どうした事なのか。


「これが、町奉行所から得た情報です。どうぞご覧ください」


 赤尾は丁寧な文字で書かれた紙を千寿に差し出した。


 しばらくそれに目を通していた千寿は小さく唸った。


「これは……一体どうした事でしょう。内田頼母、堀田孫太郎、青木新五兵衛、皆名のある旗本ばかりではありませんか。その娘達が皆失踪ですって? 竹田法印様の家など二人も同時に居なくなるとは何があったというのでしょう」


 赤尾の差し出した紙に書かれていたのは、旗本の娘達の大量失踪であった。その数なんと三十人ばかり。


 前代未聞の事件と言えよう。


「まさかそんな事が? 少し見せて下さい。何と……これだけの者達が失踪するとは……なんと、稲生様の娘までとは」


 驚くべきことに、失踪者の中には北町奉行たる稲生の娘まで入っていた。江戸の治安を預かる町奉行の娘が姿をくらますなど、不祥事と言っても良いだろう。


「赤尾、あなたの顔色が悪い理由がこれですか?」


 千寿は神妙な顔つきをした赤尾に対して、書付の一か所を指さして尋ねた。


 そこには、北条新蔵の娘で千絵という女の名が記されていた。


 赤尾の許嫁となるはずの女性であった。

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