第三話「吉宗の側室」
女奉行所に戻った千寿は、すぐに腹心とも言える城之内美湖を呼び寄せた。大奥での頼まれ事について指示をするためである。
「先ほど滝川様とあって来たのですが……赤尾、あなたの事呼びましたっけ?」
いつも千寿が会合で使用する部屋には、千寿と美湖以外に女奉行所における唯一の男性幹部である赤尾陣内の姿があった。
「いえ、私は最初からこの部屋に居たのですが?」
「それは気付かなかった。これからする千寿様との話は、大奥に関する件だ。なるべく外部の者に話さぬ方が良いように思える。必要ならば伝えるのだが、今は席を外してくれ」
「はあ、そうですか。ならば私も元々外出する用事がありましたので、これで下がらせてもらいます」
女奉行所は大奥を雇い放ちになった五十人の美女が主体となって設置されている。そのため、男は少数派でありどうしても路傍の石ころの様に扱われてしまう。世間における女人の扱いと同じと言えよう。
もっとも、千寿としては特に男を排除する気はないのであるが、武に優れた女ばかり揃った女奉行所では、平凡な男はどうしても目立たなくなってしまうのだ。
今では廃止された中町奉行所で名を馳せた与力であり、北条流軍学の一門でも秀才と評価される赤尾は別格で存在感を放っているが、それでも美湖やせんに比べると主流ではない。まあ、男達以外は元々大奥勤めという仲間意識があるのだからそれも仕方ない。
赤尾は礼儀正しく頭を下げると、部屋から立ち去った。
「そう言えば、赤尾の用事とはなんでしょうね?」
「確か、北条一門の大きな講義があり、赤尾殿もそこで少し話す事になっているのだとか」
「そうですか。北条様には赤尾を勧誘する時に会いましたが、赤尾は北条流でも有数の逸材だそうです。何でも北条様の娘を娶せる事を考えているとか」
「それは凄い。天下の北条家の一員になるとは、そこまで期待された人材でしたか」
赤尾は武芸こそ人に劣っているが、町奉行勤めで身につけた数々の法度や御裁きの判例に関する知識は並外れている。実際中町奉行所が廃止になる際、北町と南町で取り合いになったくらいだ。それを父親の縁故や将軍の権威を嵩に奪い取ったのが千寿なのだ。この点、町奉行の大岡や稲生に恨まれてもおかしくはない。
「まあ赤尾の事はともかく、大奥にいたまつの事を覚えていますか?」
「まつ? ああ、そういえばいましたね。どこかの百姓の出だとかで、せんと仲良くしていたと思いますが」
千寿に問われた美湖は、少し考えるとすぐにまつという娘の事を思い出した。
まつは関東郡代伊奈半左衛門支配の百姓の娘で、郡代の属吏である小河某を仮親として出仕している。
将来大奥の幹部となる様な者として採用されている千寿や美湖と違い、彼女の様な者は下働きの年季奉公だ。大奥で働いていたという事で箔もつくため、嫁入り前の修業として奉公に上がる者も多くいる。まつはその類いだ。まつはとても良く気が付き働き者なので、同僚からの評判も良く、滝川の様な御年寄からの評価も高かった。
「そのまつがどうしました?」
「上様が、まつの名前を滝川様に聞かれたそうです」
「……! それはつまり、そういう事ですか」
「そういう事です」
将軍が大奥を訪れた際、目に止めた腰元の名を聞くのは、ただ名前を聞いているという事ではない。
側室にしたいという意向を伝えているのだ。
吉宗は特に色好みという訳ではない。女の美醜にはあまり興味が無く、それは大奥の美女五十人を優先的に雇い止めにしようとした事からも伺える。
だが、決して性的な欲求の無い木石という訳でもなく、何人かの側室は持っている。
まつは取り立てて容姿に優れていると言う訳ではないが、働き者である事から分かる通り丈夫な体をしており、元気な子を産むことが期待できる。それに気立ても良いため、既にいる吉宗の子どもや他の側室とも上手く付き合うであろう。
実に吉宗好みの女性と言える。
「しかし、まつには確か」
「そう、奉公明けに夫婦になる事を約束した者がいます」
この事は、大奥勤めの際にまつと話した者は皆知っている事だ。美湖も千寿も知っているし、まつを可愛がっていた御年寄の滝川も知っている。
だから滝川も困っているのだ。
普通であれば、将軍に見初められ側室に成れるというのは喜ばしい事だ。大奥においても生まれの家格というものは重視されており、御年寄など高い地位に就くためには、それなりに高い家格の武家の生まれでなければならない。百姓や町人の生まれの娘には、そこまでの栄達は望む事は出来ないのだ。
だが、将軍の側室ともなれば話は別だ。
それまで大奥の長屋で集団生活をしていた者も、側室にと望まれて中臈になれば、個別の部屋が与えられ世話役が何人もつけられる。
そして子を成せばその地位は更に確固たるものになるし、もしも産んだ子が次の将軍にでもなれば、将軍の生母として絶大な権勢を振るう事が出来る。
この時代、百姓や町人に生まれた女で登りつめるためには、この方法が一番である。
だから、大奥に奉公に上がった娘達の中には、将軍に見初められる事を目的とする者も多くいる。これは当然の帰結である。
それ故、将軍に望まれたなら、例え奉公の年季が明けた後に約束していた相手がいようと、そんな事お構いなしに側室になる者が主流であろう。これまでもそうであった。
それに、主が望んでいるのだ。ならば婚約と言うより私的な事よりも、将軍の意思を尊重するのが忠義というものである。
これが一般的な価値観であろう。
だがまつは、そう考えなかったのだろう。だから滝川も困っているのだ。
「上様に、その事を正直に話してみれば良いのでは?」
「それは滝川様も考えているようですが、中々決心がつかないようです」
この時期の大奥と将軍吉宗の関係は、中々に複雑なものがある。
吉宗の将軍就任の際、大奥の賛成が大きな役割を果たした経緯があるので吉宗としては借りがあるのだが、その大奥も一枚岩ではない。当時大奥で大きな力を持っていたのは六代将軍の正室天英院と、側室であり七代将軍生母である月光院である。そして月光院は反吉宗派であったとも言われており、その様な事も含めて大奥と吉宗の関係は微妙である。
吉宗の改革により質素倹約が推奨され、その波は大奥にも及んでいるが、大奥としてはなるべく口出しされたくないという事情もある。
下手に吉宗に対して借りを作りたくないのだ。
「あの時期は、色々事件が頻発しましたな。絵島様の失脚とか……」
「そうですね。月光院様を毒殺しようという動きすらありました」
「っ! 申し訳ありません!」
「気になさらず」
月光院に仕える御年寄の絵島が役者と醜聞を起こし、絵島は失脚し月光院もその権力を大きく落とす事件があった。所謂絵島生島事件である。これにより親吉宗派の天英院派が優勢になった事が、吉宗の将軍の大きな助けになった可能性もあり、事件は謀略だったのではないかという噂は今でもある。
また、絵島生島事件の様に表沙汰になっていないものの、重大な事件が大奥で起きていた。
月光院毒殺未遂事件である。
何者かが月光院の朝食に毒を入れたのだ。しかもその日、月光院の食事の毒味をする予定であった中年寄が何故か出仕してこないという状況下での出来事であった。
中年寄は御年寄の指図を受けて働く将来の御年寄候補であるが、毒味という役割もある。
いつまでたっても月光院の食事の毒味をするはずの中年寄が現れないので、時間を惜しんでそのまま月光院にお出ししようと誰かが言い出し、そうなる所であった。
その途中、天英院の食事の毒味を終えた千寿が月光院の朝食を運ぶ者達とすれ違い、不審に思って尋ねたところ事情を把握したのである。
そして、誰も毒見をしないのは問題であるから、当時中年寄であった千寿が毒味をしてやろうと提案したのである。
結果、すぐに千寿は血を吐いて倒れた。気が遠くなりながら千寿は月光院に食べさせてはならぬと叫び、すぐに意識を失った。
意識が回復したのは数日経ってからである。
目が覚めた時にはかなりやつれており、体を起こすことすら出来なくなっていた。
その後体がある程度復調した後、鍛錬をして元の通り動けるようにまで回復する事が出来た。また、これまでも天英院に重用されていた千寿であったが、この事件で月光院に深く感謝されるようになり、それまで反目しあっていた天英院と月光院が千寿を通じて親密な関係になったのだ。
大奥全体としては一丸となったので、良い結果になった。実のところ、この時月光院は天英院に協力するようになったので、吉宗の将軍就任に関しては天英院も反対する事は無くなっていたのだ。そのため、吉宗も月光院を丁重に扱っている。
だが、取り返しのつかない事もあった。
本来毒味をするはずであった中年寄は、結局姿をくらましたまま今に至る。また、毒味をする事なく月光院に食事を出す事を提案した者は、今のところ誰だったのかはっきりしていない。全ては闇の中だ。
そして、千寿も完全に元に戻る事は出来なくなった。
子を産めぬ体になったのである。
月のものが来ることは無くなった。これは今でも変わらず、女奉行所に勤める元大奥の女達は皆位知っている事だ。
結局どの様な毒が入れられていたのかはっきりとせず、千寿が復活したのも、何もしないよりはと飲まされた薬のおかげなのか、本人の生命力のおかげかははっきりしていない。
もしかしたら、毒に対応する薬を早期に服用していれば、完全に元に戻れたかもしれない。
全てはもう遅いのであるが。
「ひとまず滝川様に頼まれたのは、まつの相手の男の意思です。まつが将軍の側室になるというのなら、自分から身を引く可能性もあります。そうなれば、ある程度の褒美が取らされるでしょう」
「あまり面白い話ではありませんが、十分あり得るでしょうね」
拒否したところでそれが通るか分からないのだ。ならば事を荒立てずに自ら身を引く事で、有利な条件を引き出してもおかしくはない。また、まつの相手はおそらく百姓であろうから、まつの幸せの事を考えて身を引く事だってあり得るのだ。
「分かりました。それでは今からまつの故郷に行ってみます。ところで、供にせんも同行させてよろしいですか?」
せんはこの前独断で大名行列を襲撃事により、女奉行所の一室で謹慎させられている。
事件自体は無かったことになっているのだが、本来これは死罪を免れない大事である。流石に千寿としても看過できず、謹慎を命じたのだ。女奉行所で下働きをしているおけいという娘が食事を運んだりしてやっているが、美湖としてはなるべく早くせんを解放してやりたいのだ。
「その事なら問題ありません。上様に許可を願ったところ、好きにするようにと言われました。戻って来た時にせんを出してやるように申し渡してあります。今頃身支度をして、控えの間にでもいる事でしょう。
「そうですか。それはありがたい。せんはまつと仲が良かったですからね。是非とも協力してもらいたかったのです」
「連れて行くのは構いませんが、せんを良く指導するようにね。またせんが暴走してまつの婚約相手や、場合によっては上様に挑むことが無いように」
「分かりました。それではすぐに支度して向かいます」
美湖が立ち去り一人になった部屋で、千寿はこの件はどの様にしたら穏便に、誰もが幸せに収まるかを思案したのだった。
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