第二話「大奥からの呼び出し」
御用之間で吉宗への秘密の報告を終えた千寿は、待機場所である芙蓉之間に下っていた。
芙蓉之間では千寿の父、御留守居伊吹近江守が待ち構えており、報告の内容と吉宗の反応について詳しく聞いて来た。
深畠家の事件には井伊家が大きく関わっている。伊吹家は近江国伊吹山の一帯を本貫地としているため、近江国の大名である井伊家とは繋がりが強い。そのためこの事件が穏便に解決するか否かは伊吹近江守の重大な関心事項であったのだ。
今日は伊吹近江守の登城日では無いのにも関わらず芙蓉之間に詰めているのもそのためである……と言う訳でもない。伊吹近江守は勤労意欲が強すぎるのか、他の御留守居の担当日であろうと平気で芙蓉之間に詰めている。
この様な事は越権行為になりかねないため普通はあまり推奨されはしない。だが、御留守居は格こそ五千石という高位の旗本が就くとても高いものであるが、実態としては要職を歴任した者の隠居前の名誉職だ。あまり真面目に勤務する者はいないし、そうでなくとも千代田の御城は問題なく運営される。
居ても居なくてもあまり変わらない役職だからこそ、伊吹近江守が毎日詰めていても誰も問題視しなかったのである。
もっとも、伊吹近江守は自らの勤務形態を常態化する事と名目だけであった権限を最大限活用する事により、現在の城中で絶大な権限を持つに至っているのであった。
ただ、彼はこの権限を私利私欲のために使うのではなく、あくまで将軍の改革のために発揮している。そして公明正大な人物であることは誰もが知っているため、今まで問題視されてこなかったのであった。
伊吹近江守は公明正大で、表裏のない人物である。そのためか隠し事などしたりはしない。芙蓉之間に戻って来た娘の千寿との会話も、同じく芙蓉之間に詰めている他の奉行達に聞こえるような声量でしている。
なお、その内容は表向きは病気により隠居した深畠吉親であるが、その実正妻に対する一方的な嫉妬心により精神を病み、遊郭で豪遊するばかりか自ら蔭間茶屋で客を取る様な乱行に至ったという事である。
その挙句正妻は切腹してしまったのだ。
その他、正室の実家である大大名の井伊家では深畠家に対する戦支度が進んでいたとか、女奉行所の同心が吉親の大名行列を襲撃して殴打したとか、恐ろしくきな臭い内容が話されている。
はっきり言って、聞いている方が心臓に悪い。伊吹親娘の話す事は外に漏れたら一大事になる事は必定である。こんな話、知りたくなかった。
少し悪知恵の回る者ならこの事実を利用して、何らかの利益を得ようとするかもしれない。だが、この場に居る両町奉行の大岡や稲生をはじめとする者達は、その様な悪辣な精神は持ち合わせていない。あくまで誠実な幕府の役人だ。
それに、もしもこの件を利用して上手く立ち回ろうとしても、結局最終的には自分の不利益になる事は必定である。一時的な利益に目が眩む様な愚者でもないのである。
だから、大岡達は伊吹親娘が話している間、素知らぬふりをしている。ある者は世間話をしたり、碁を打ったり、はたまた虚空をぼんやり見つめている。
この様に情報を大っぴらにする事も、伊吹近江守の処世術なのかもしれない。隠し事としなければ弱みではない。そしてもしも誰かがこれに付け込もうと策を弄した場合、元々この情報を聞かされていた者達は味方と成り得るのである。
まあ何にしても、芙蓉之間に詰める他の奉行達にとって迷惑である。彼らは早く終われと心の中で毒づいていた。
「とまあ、この様な訳でして、上様もその様にと」
「うむ、それならば大事になるまい。井伊家も収まるだろうし、深畠家もこれから立ち直るに違いない。手間をかけさせたな」
ようやく話が終わったようで、周りで聞いていた者達は声には出さないが、一様に安どした。
「話は変わるが、局の滝川様がお前を呼んで欲しいと今朝言っていた。すぐにでも大奥に行って欲しい」
「滝川様がですか? 何の件でしょう?」
また何やら新しい話が始まり、大岡達はぎくりとした。
大奥は単なる将軍が女と好き勝手に遊興に耽る場ではない。将軍家のを運営する重要な役割があり、他の大名家等との女性同士の外交でも貢献している。大奥が無ければ将軍家は成り立たないか、今とは全く別の姿になるだろう。
その大奥で権力を握るのは、将軍の正妻たる御台所や側室の中臈達の様に思われる向きもあるが、その実そうではない。
御台所は権威ある実家から輿入れしているが、逆に幕政への介入を恐れられ、口出しを制限されがちである。そもそも当代の将軍である吉宗に正室はいない。空席のままだ。先々代の将軍の御台所達が大きな権威を持っており、吉宗が将軍に選ばれるにあたり重要な役割を果たしているが既に過去の人である。
また、中臈達も発言権は低い。将軍との閨にまで監視の目はあるため、私的に何かを頼み事をする事は難しい。そもそも三十歳を超えると将軍と床を共にする事は自粛するのが慣例である。
となると大奥で実権を握るのは、お局などと呼ばれる御年寄である。彼女らは実質的な大奥の運営の指導者であり、幕府の支出において結構な割合を占める大奥の財政を司るのだ。
そのお局である滝川がわざわざ千寿を呼び出したのだ。何か火種があるのかもしれない。
「何を相談したいのかは、儂は聞いておらん。直接聞いてくれ」
これを聞いた大岡達は、少し安心した。どんな問題が起きていようと、知らなければ心の平穏を保っていられる。知らぬが仏というやつである。様々な問題を解決すべき奉行達であるので、本来は何か問題があれば関わり合いに成りたくなかろうと情報を収集すべきである。だが、大奥の問題は彼らにとって何の関りもない。何が起きているのか知ってしまえば、政治的に良からぬ事になりかねないが、知らなければどうと言う事も無いのである。
恐らく千寿が何とかするであろう。
女奉行にはそれだけの権限が与えられているし、千寿は元々大奥勤めだ。何かと強烈な解決方法を取りがちな千寿であるが、これは古巣が関わる事件だ。何とか穏便に解決する方策を巡らすであろう。
芙蓉之間を退出し、千寿が姿を消したところでやっと部屋に平穏が訪れたのであった。
この時は、これが江戸を揺るがす大事件に関わる事になろうとは、奉行達も、千寿も、誰も気づいていなかったのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます