第四章「千の寿」

第一話「御用之間の密会」

 女奉行伊吹千寿は、江戸城のとある部屋で、一人の男と向き合って座っていた。


 相手の男は、堂々たる体躯の偉丈夫であり、もう三十歳はとうに超えているはずであるが、その身に纏う気は清冽そのもの、若武者と言っても通じるであろう。


 誰であろう、八代将軍徳川吉宗その人である。


 千寿と吉宗が二人きりで向き合っているのは、内装こそ豪奢であるが広さは四畳半に過ぎない。天下を統べる将軍の所在する部屋にしては実に狭い。


 この部屋の名を「御用之間」といい、江戸城における将軍の生活空間である「中奥」に設置された、将軍が一人でくつろぐための部屋である。中奥には他に「御休息之間」なる休憩室の様な名を冠した部屋もあるのだが、その名に反して政務を執る部屋である。故障も常に付ききりであるため、一人になれるのは今いる御用之間位のものである。


 そして、将軍一人になれる部屋であると言う事は、色々と秘め事も出来ると言う事だ。他人には見せない目安箱の投書や、内密の手紙を読んだり逆に認める事もある。


 もちろん、密談も出来る。


 千寿も今こうして吉宗と密談をするために呼ばれたのである。


 三奉行と名目上同格の女奉行である千寿は、城内の公的空間である「表」で謁見する事も可能だ。だが、今回吉宗に報告している内容は、公に出来ぬ事件の真相を語るものだ。それを吉宗も承知しているため、この御用之間に呼ばれたのである。


 将軍が男女二人きりで密談など、通常あり得ない。何せ側室と寝る時でさえ何か良からぬことを吹き込まれぬよう監視が付いているのだ。千寿が女奉行という公的な役目に就き、特に内密な報告をせねばならぬという事情があったため、本来発生し得ない事象が起きている。とはいえ、話の内容に艶めいた事は何もないのだが。


「以上が、深畠吉親の件に関する全てです。上様には寛容な御採決をしていただきまことにありがとうございます」


 千寿は、しばらく前に大名たる深畠家の揉め事の解決に関与していた。


 正室の能力に対する嫉妬の余り、数々の放蕩を繰り返した大名のせいで、他家にその事を愚弄された家臣が自決し、正室も夫への諫言のために腹を切って果てた。


 それでも大名の反省が見られなかったため、正室と縁があり怒りに燃えた女奉行所の同心が国元に帰る大名行列を襲撃する事態にまで発展した。また、正室の実家である大大名の井伊家が深畠家に対する戦支度をするほどまでに事態は深刻であった。


 結局ここまで事態が大きくなるまで有効な手立てを打てなかった江戸家老が主君の前で切腹し、それを見た大名は妻の遺言を読んだ事もあり一応の改悛は見せた。そして千寿の発案により大名は病気のために隠居、その幼い遺児が後を継ぐと言う事で事を収めたのである。


 この際、千寿は吉宗に事態の説明と、何とか深畠家の改易をせずに済む様な取り計らいを頼んだ。それは受け入れられ、今日は最終的な報告と礼をしに来たのである。


 表向きはあくまで病気と言う事になっているので、内密な話が出来るこの御用之間で話しているのだ。


「しかし、惜しい事になったものだ。吉親の正妻――葦姫と言ったな、そこまで有能だとは知らなかった。生きていたら、これからも力を発揮しただろうに」


「その通りでございますね」


 この享保の世にあって、女は政治の表舞台で能力を発揮する事はまずない。大奥の様に裏側で絶大な権力を握ったり、夫を支える内助の功というものはあるのだが、それはあくまで裏方である。その様な常識が、妻が主導的に深畠家を差配する事に対して深畠吉親が思い悩む要因になった事は想像に難くない。


 実に下らぬ事であるが、これが今の世の常識である事も千寿は認識している。故に、吉親がしたことは愚劣極まりないが、そうなった心情も察する事が出来るのだ。状況が同じなら、他の者でも同じ様に下らぬ嫉妬心を抱くのが大半だろう。


 だが、吉宗の口ぶりからすると、女人が能力を発揮する事に対して特に拒否感は抱いていない様だ。だからこそ、女ばかりで構成された女奉行所などという前代未聞の存在を認めたのだろう。もしかしたら、将軍は帝を除けばこの国において絶対的な地位にある。だからこそ、男女の差などと言う些末な事を気にしないのかもしれない。


 吉宗の心の内は分からないが、自らが信じた主の先進的な英邁さに千寿は尊敬の念を抱いた。


「余は、能力のある者なら然るべき役割を与え、十全にその力を発揮するのが天下万民のためだと思っている。それなのに、能力に劣る者が嫉妬などし、あたら有能な者を失ってしまうなど、悲しい事だ」


 吉宗は本心から葦姫の死を悼む言葉を口にし、しばらくの間黙祷した。


 吉宗の言っている事は実に正しい。正しいのだが、千寿はどこかその言葉に引っかかりを覚えた。


「上様は、能力に劣る者は、家格により与えられていたそれまでの地位を奪うべきだとお考えで?」


「いや、そうではない。例え実務能力に劣っていようと、その生まれた血筋によって然るべき地位に就けることで世の中は安定している。そういう意味では家格も能力と言えよう」


 千寿が言いたいのはその様な事ではなかった。吉宗の言っている事を聞いていると、世の中のためになる有能な者を重視するあまり、そうでないものを蔑ろにしている様に感じてしまう。


「しかし上様、この世に生きる者の中に、真に有能な者は何人おりましょう。その様な者ばかりで世界は動いておりませぬ」


「ははは、心配するでない。余は将軍である。常に民草の事は考えている。だからこそ、有能な士を重用しているのだ。お前を奉行に取り立てたのもそういう事だ」


 吉宗は天下万民を統べる将軍として、間違った事は言っていない。だが、それでも小さな違和感が千寿の中に残り続ける。それが何なのかは上手く言い表す事は出来ないのだが。


「それではもうそろそろ下がらせていただきます。……そうそう、墨田川の堤に桜を植えさせているそうですね。町民が花見を楽しみにしていると噂を聞きました」


 暇乞いに付け加え、千寿は何気ない世間話を持ち掛けた。


 吉宗が将軍になった頃、江戸の花見と言えば寛永寺の境内が定番であった。だが、将軍家の菩提寺で飲めや歌えの宴会が繰り広げられる事は風紀上よろしくない。その様な事情もあり、吉宗は墨田川沿いに桜を植樹する事を命じたのである。そしてそれは大成功であった。


「そうか、それは良かった」


「……失礼します」


 吉宗の返事は素っ気なかった。千寿の期待した反応では無かった様だが、将軍に文句を言う事は出来ない。千寿は御用之間を後にした。

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