第十一話「空虚な勝利」
これまで数々の相手を鎧袖一触に薙ぎ倒して来たせんの猛攻は、吉親の卓越した剣技により受け流され続けていた。
ただ受け流されるだけではない。攻撃の合間を狙い、義親は反撃を試みて来るのだ。
吉親の振るった刀により、せんは体のあちこちに手傷を負う。致命傷こそ食らう事は無いのだが、小袖のあちこちが切られ血を流し、布地が赤く斑に染まる。
だがここで攻撃を緩める事はない。せんは構う事なく攻撃を加える。
「殿! そこです! 勝てますぞ!」
「相手の息は上がってます!」
自分達には勝ち目のない怪物を主君が圧倒している。それを見た吉親の家臣たちは調子よく声援を送った。
これを戦いながら耳にしたせんは、内心怒りに震えていた。深畠吉親にも、その家臣にもだ。
これは尋常な果し合いではない。今は一対一で切り合っているが、元はと言えばせんは大名の命を狙う曲者なのだ。大勢で囲んで膾切りにしても、何の問題もない。しかも、今せんと切り結んでいるのは彼らの主君だ。例えこれが正々堂々の勝負だったとしても、主君を守るためなら介入しても咎める者はおるまい。もしいたとしても、せんを仕留めた後に腹を切って詫びれば済む話だ。
もしもこの状況で吉親に加勢したのなら、何人かはせんに打ち殺されるだろうが、それが何だというのだろう。
要は主君が敵を倒してくれるので、せっかく安全に危難を切り抜けられるのに危険を冒したくないのだ。
主君のために命を捨てるのが武士であるはずなのに子の態度なのだ、反吐が出そうになる。
それに、吉親はせんを圧倒する剣技を披露しているが、だから何だというのか。
確かに多くの武士を束ねる者そして、武芸に優れている事は褒められる事だ。だが、将であるならばもっと重視すべきことはいくらでもある。
もちろん、人には生まれ持った特性と言うものもあり、吉親がいくら努力しても武芸ほど政治や学問に習熟する事は出来なかったかもしれない。だが、例え自分にその才が無かったとしても配下を使いこなせばよいのである。
そして、吉親には欠けた政治や学問の才を発揮し、深畠家中や領地を繁栄させたのが、吉親の正室である葦姫なのだ。
その葦姫に嫉妬し、当てつけの様に放蕩を繰り返し、それによって家名を損なうとは大名のするべき事ではない。
それを憂いた妻の諌死すら無視するとは言語道断である。
吉親に何の才も無いのなら、まだしも諦めがつく。自らの能力の低さで、この世の全てに嫉妬するのだ。その場合大名に生まれたのが悪かったとしか言えない。
だが吉親は衆に優れた武の才を持っている。そしてそれを開花させるために多大な苦労をしただろう。だというのに、何故妻に嫉妬などしたのか。別の才がある者同士、互いを補い助け合えば良かったではないか。
女に負けたのがそんなに悔しかったのか。
怒りを燃やしたせんは、攻撃の手を更に強めていった。
せんの攻撃が鋭くなるのを感じ、吉親は驚愕した。せんの得物は長さ四尺の鉄棒である。その重さは吉親の持つ定寸の刀とは比べ物にならず、どちらが先に疲労するかは明らかであったはずだ。
だというのに、せんは全く疲れなど見せず、反対に吉親の方が息が上がって来る。日頃の酒色にふける放蕩三昧の日々が吉親の体を蝕んでいたのかもしれない。
こうなると、まだ動けるうちに勝負を決めねばならないのだが、それも上手く行きそうにない。
今のせんのように怒りに心が支配されると、普通は攻撃が荒くなり、付け込む隙が出来るはずである。怒りによって火事場の馬鹿力の様に強くなるなど、実際には先ずあり得ない。
怒りは心を曇らせ、冷静さを失わせてしまうので、戦いにおいてこれは致命的である。心理的な制約が無くなり、攻撃の威力だけは強くなりそうなものだがそれも無い。武芸の素人ならまだしも、武芸者と言うものは精密な術理によってその力を発揮している。冷静さを失った瞬間に身につけた理合いを発揮する事もまた出来なくなるため、振るった剣の力さえ低下しているのである。
だが今のせんは違う。その怒りは心を冷徹に研ぎ澄ませ、その攻撃は荒くなるどころか精妙さを増している。
攻撃が精妙になると言う事は、単に正確な場所に打ち込んだり、速度が増すだけではない。その一撃はより武の理合いに則ったものとなるため、威力も増加するのである。
吉親はせんの攻撃を捌ききれなくなっている事に気付き、焦った。そして焦りは失敗を呼ぶ。
せんの鉄棒を真正面から受け止めてしまい、手にしていた刀が中ほどから粉砕されてしまう。
これを好機とみたせんは、一気に止めを刺さんとこれまでより踏み込んで鉄棒を振るう。
だが吉親もさる者だ。自分から間合いを詰め、八寸ばかり残った刀身でせんに切りつける。これはせんの予想外だった様で、せんの左手の甲を大きく切り裂き、せんは思わず鉄棒を取り落とした。
しかしこれで終わるせんではない。すかさず無傷の右手で拳を作り、吉親の頬桁を殴り飛ばした。吉親は刀を取り落とし、地面に受け身もとれず倒れ伏す。
そこに馬乗りのなったせんは、吉親の頭を何度も殴りつける。吉親は何とか腕で拳を防ごうとしているが、態勢が悪すぎるせいで受け止める事は出来ない。せんの拳を食らい続けた腕は真っ赤に腫れ上がり、上げるのも困難になってしまった。
あと何発かせんが拳を叩き込めば、吉親は絶命するだろう。そう確信したせんは、拳を高く振り上げた。
その腕を掴む者がいた。
吉親の家臣が止めに入ったのかとせんは振り向くと、そこには自分の上司たる千寿の姿があった。
「せん、これ以上は無用です」
「でも、こいつは葦姫様の……」
「葦姫様は、吉親様の死を望んでいません。これを見なさい」
千寿は、せんに懐から取り出した手紙を見せ、その場で読み上げた。そこには、葦姫が切腹して果てる前に吉親にしたためた遺言が書かれていた。
自分が良かれと思い、政治に口を出してしまった事。
大大名である井伊家の生まれであるため、自分が差し出がましい事をしても、吉親がそれに対して強く言えない事に思い至らなかった事。
吉親が名君と評価される事に自分は嬉しく思っていたが、現状との乖離がどれだけ吉親を苦しめていたのかを気に留めもしていなかった事。
結果、家臣も苦しめてしまい、ついには死人まで出してしまった事などを詫びており、吉親への恨み言など一言たりとも書かれていなかった。
葦姫の遺言を読み終わったせんは、周囲に大勢の者達が駆けつけている事に気付いた。美湖や赤尾の様な女奉行所の者達もいるし、深畠家や井伊家の家臣もいる。
「殿、千寿殿が今読み上げた通りでございます。殿が江戸を旅立たれる前にお渡しする事が出来ませんでした」
駆けつけた深畠家の江戸家老が進み出て、千寿から葦姫の遺言を受け取ると吉親に渡した。
そしてその場に座ると、一挙に脇差を引き抜いて自らの腹を掻っ捌いた。
あっという間の事だったので、せんは止める事が出来なかったし、千寿は江戸家老の意図を察していたが止めはしなかった。
「申し訳……ありません。もっと、もっと早く拙者……が、お諫めすべきで……」
そこまで言うと、江戸家老は事切れて物言わぬ骸と化した。
せんは、自分が跨ったままの吉親がすすり泣いている事に気が付いた。
事の発端は吉親の下らぬ嫉妬心である。例え、弁えぬ正室であったり、何も忠言する事なく漫然と過ごしていた家臣に原因の一端があったとしても、大名である限り全ての責任は吉親が負わねばならない。
それなのに、葦姫も江戸家老も恨み言一つ言わず、吉親に詫び、目覚めさせるために死んでいったのだ。
それに比べて、余りの自らの情けなさを痛感したのであろう。
「吉親様は、病気により嫡男に家督を譲ると言う事になってます。深畠家一同もそれで納得してますし、井伊家もそれで矛を収めると約束しています。吉宗様にもそれで話をつけてきました。なのでもうこの件は終わったのです。御病気の吉親様が国元に帰る訳もなく、この場で何か事件が起きるはずもありません。全ては何も無かったのです。だからせん、吉親様から離れるのです。吉親様もそれでよろしいですね?」
吉親は、倒れたまま頷き、そして手にした葦姫の遺書を見ると号泣した。
せんはそんな吉親の姿を見ると、力なく立ち上がって離れた。
格上の相手を打ち破ったという高揚感も、大変な事をしでかしてしまったという絶望も、敬愛する葦姫の仇をとったという喜びも無かった。
ただ虚しいだけである。
もっと早く深畠家の家臣が諫言していれば。
吉親がもっと自分の気持ちをはっきりと口に出す性格であったなら。
いや、女人が政治などで大手を振って参画できる世の中であったなら、この様なすれ違いは起きなかったのかもしれない。
だが、全ては遅く、何人もの尊い命が失われてしまった。救いといえば、深畠家と井伊家の衝突は回避でき、より多くの人命が損なわれなかった事くらいだ。
この場にいる誰もが虚脱感に包まれ、その場を動く者は誰もいなかったのであった。
この後、千寿が約束した通り、吉親の嫡男は無事深畠家二万石を継承し、将軍御目見得を済ます事が出来た。
葦姫が育成した深畠家の家臣団は、これまで以上に団結を固くして幼君を支えていったという。
そして葦姫の眠る深畠家の菩提寺には、毎日欠かさずに吉親が訪れていたと深畠家の家譜には記されている。
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