第十話「深畠吉親の剣技」
深畠家の行列は、突然現れた襲撃者に困惑した。まさか大名行列を襲撃する者がいるなど、予想の範囲外だ。いくら小大名の行列と言えど、この徳川の治世で大名に対する攻撃はその威信を傷つける事になるのだ。他の大名家でさえこの様な所業に及ぶことは無い。
しかも、襲い掛かってくるのは六尺は超える長身であるが、どう見ても女である。ますます意味が分からない。
しかもその手に握られているのは短刀などではなく、黒く光る鉄の棒だ。この様な得物は普通なら振るう事すら困難だ。それをこの女は片手で頭上に高く掲げ、行列に向かって突進してくるのだ。
冗談か、悪夢の様な光景である。
現実離れした状況が、護衛の者達の対応を一瞬遅らせた。
襲撃者の女――江沢せんは行列の最後尾にいた侍を鉄棒で打ち払う。それは子供が木の枝を振り回すかのように軽々としたものだったのだが、威力は雲泥の差だ。小突かれた様にしか見えない供回りの侍は、周りの同僚を巻き込んで吹き飛んだ。
「抜け! 殿を守るのだ!」
行列の責任者らしい年配の武士は部下の有様を見ていち早く正気に戻ったらしく、すぐ様主君の守備を命じた。
供回りの者達は上司の言葉にはっとなり、刀を抜いて応戦しようとした。
旅の途中であるため柄袋をしていたのだが、彼らはかなりの腕前の様だ。一瞬で柄袋を外し、一斉に抜刀した。
「覚悟!」
数人が深畠吉親の乗る駕籠を守り、残りがせんに向けて白刃をかざして襲い来る。
彼らはせん程の体躯も膂力も無いのだが、流石に文武両道を奨励している事で名高い深畠家中の侍だ。当世蔓延る文弱の者達とは明らかに違う太刀筋と気迫である。圧倒的な力で朋輩をまとめて薙ぎ倒した化け物に対しても何ら臆する事なく斬り込んで行く。
並みの者なら一瞬で膾切りにされただろう。
だが、せんは並の者ではない。生来の恵まれた体格と幼少から学んだ武芸により、武芸者としては達人に迫る力量を備えている。彼女がまだまだ勝てぬと感じる相手は、武芸の師と上司である千寿くらいのものだ。
そのせんに対して、深畠家の家臣団の武力は残念ながら不足していた。せんに迫る彼らの刃は鉄棒によって阻まれてしまい、その内の何本かはへし折られた。
それでも何とかせんを阻もうと健気にも組み付いてくるのだが、せんは柔術も併せて学んでいる。接触するその瞬間に肘や膝の当身を合わされて地に倒れ伏し、運よく組み付いた者も足を払われて倒れた瞬間に鳩尾を踏みつけられ泡を吹いて気絶した。
これを見た駕籠を守る家臣たちは蒼ざめる。彼らが束になっても敵わない事は火を見るよりも明らかだ。だが、ここで逃げてしまっては家名を汚してしまい、子々孫々に至るまで浪人暮らしになるに違いない。
最早ここで死んだとしても、勇敢に戦ったという実績を残すしか彼らには道が無いのである。
彼らは悲壮な覚悟で、脂汗で取り落としそうになる刀を握りしめた。
「待て、ここは俺が行くとしよう」
そんな彼らに救い主が現れた。
駕籠から出て来た、彼らの主君たる深畠吉親その人である。
「貴様らでは死ぬだけだ。黙って俺に任せれば良い。おい、女。大名たるこの俺を襲ったのだ。ただで帰れると思うなよ」
「黙れ! 葦姫様の仇だ!」
「葦姫? ふん、俺への当て付けの様に勝手に死んだ女の事など、知った事ではない」
「おのれ!」
吉親の言い様に激昂したせんは、一瞬で間合いを詰めて鉄棒を吉親の頭部目掛けて振り下ろした。
せんの得物である四尺の鉄棒は、重さ三貫はある削り出しの製法で作成された鉄の塊である。これを刀で受け止めれば先程の侍たちの様に刀で砕かれてしまうため、防御するのは極めて困難である。
そしてせんの一撃は単なる力任せではなく、よく鍛錬された技法によるものである。鉄棒の描く軌道もその速度も一流の武芸者のものである。そもそもまともに反応すること自体が並みの侍には出来ない。
しかもその威力はかつて熊の頭蓋骨を粉砕した事すらある。人間如きの頭など、原形をとどめる事はあるまい。
迫りくる死の使いに対して、吉親冷静そのものだった。日頃の酒色が祟っているのか顔色こそ悪いが、全く動じる様子は見られない。
供回りの者から刀を奪い、己の頭蓋に迫る金属塊を打ち払ったのだ。
「な!」
せんは驚愕した。絶対の自信をもって放った必殺の一撃が、吉親の握る刀によって受け流されてしまったのだ。
吉親は真正面からせんの鉄棒を受け止める事無く、その軌道を柔らかく変えてしまったのである。
かつてせんの鉄棒による一撃を打ち破った者は二人しかいない。
武芸の師匠はせんの攻撃の癖を見切っているので、躱して反撃する事が可能だ。
千寿はせんが鉄棒を打ち下ろすよりも早く切り込む事が出来る。
試した事は無いのだが、美湖はその卓越した弓の腕前で接近する前にせんを仕留める事が出来るだろう。
だが、吉親が今してのけた様に、せんの攻撃を受け流した者はいなかったのだ。
奥山流の奥義を会得していると言われていたのだが、まさかここまでの達人だとは予想していなかった。
大名の身でありながらここまでの剣技を習得しているのは、柳生宗矩の様な特殊な事情がある者を除いて極めて珍しいだろう。
だが、だからと言って挫ける訳にはいかない。この様な所業に出たのだ。せんは事が済んだ後の死を覚悟している。だからこそ一命を賭してでも吉親に一矢報いねば、葦姫に申し訳が立たないのだ。
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