第三話「伊吹家の家風」

 江戸城本丸の芙蓉之間は、三奉行等の高位の役人が詰める部屋であり、襖に芙蓉の花が描かれている事をその名の由来としている。


 三奉行の他にも、御留守居の様に既に奉行職を勤めた高官も詰めており、この日は、従来の役職者に加えて新たな者が詰めている。


 女奉行、伊吹千寿である。


 八代将軍吉宗によって新設されたこの役職は、従来の三奉行に匹敵する強大な権限を有している。権限があると言う事は、それだけの格があると言う事でもある。そのため、幕府の役人でも高位の者達が詰める部屋を使用する権限が与えられたのだ。


 これ以上格が高い部屋は、大名達か将軍その人の部屋しかあるまい。


 この日、評定を終えた三奉行と千寿は、その足で芙蓉之間に来たのである。忙しい奉行達も、特段の事情がなければ午前は千代田の城に出仕して、昼から奉行所でまた仕事をするのである。


 この点、恒常的な業務の無い女奉行は自由なものである。吉宗肝入りでの設置でなければ、この様な事は許されなかっただろう。もっとも、最近の女奉行所の活躍は目を見張るものがあり、江戸の町民達の支持も絶大だ。今の立ち位置は実力で勝ち取ったものでもある。


 その千寿は、御留守居の伊吹近江守と向かい合っていた。


「ご挨拶が遅れました事をお詫びします。御留守居様」


 芙蓉之間に詰める者の内、三奉行は既に評定を通じて顔馴染みだが、千寿が芙蓉の間に来るのは初めての事である。


「何を他人行儀な事を言う。我らは父と娘ではないか」


 そう、御留守居の中でも筆頭格と目される伊吹近江守は千寿の実の父親なのだ。女奉行所を設置したいという千寿の願いが吉宗に聞き届けられたのも、父の力あってのものだと噂されている。


 御留守居は老齢の高位旗本の名誉職とされているが、伊吹近江守はその恐るべき手腕により、城中でも大きな存在感を発揮している。吉宗の質素倹約を掲げた改革も、彼の協力無しには不可能だと言われている。


「いえ、公私混同は良くありませんので」


「そうか。ところで、相当派手にやってるそうだな。小納戸頭取をはじめとして、大店やらその手先の破落戸どもをことごとく成敗したと聞いているぞ。ついこの前は、権現様のお墨付きを持つ名主を焼き殺したそうではないか」


「その通りです。やり過ぎたでしょうか?」


「いや、良くぞやってのけた。父として嬉しいぞ」


 一般的な常識では、女奉行所のやり方はやり過ぎと言える。しかも、相手は皆徳川の世にあって高い地位や実力を持った者ばかりだ。


 だが、伊吹近江守はそんな事は意に介していない様だ。


「我が伊吹家の由来は知っておるな?」


「それはもう、子守歌代わりに聞かされてましたので」


「伊吹家は、先祖代々近江国は伊吹山一帯を治めていた。それは、人と神との境目が曖昧だった頃からの話である」


「あ、全部話すんですか」


 伊吹近江守は自分の世界に入り込む性質の様だ。千寿の声が聞こえていないかの様に語り続ける。


「神話で伝えられるヤマトタケルの最期の戦いは、我らが伊吹山の神を討伐せんとのものであった。この時ヤマトタケルは、山中で出会った猪が伊吹山の神である事に気付かず無礼な態度をとり、神の怒りを買って雹にその身を打たれ、遂には衰弱死に至ったのだ」


 これは景行天皇の皇子であり、日本神話における代表的な英雄であるヤマトタケルの物語として、古事記にもそう書かれている。日本書紀では出会った神は大蛇であったのだが、話の大筋は概ね同じである。


「我らが伊吹家の祖先は、筋が通らぬと思えば皇族にすら弓を引いたのだ。その心意気を忘れてはならん。例え相手が何者であろうと、怯んではいかん」


「分かりました、再度肝に銘じます」


 千寿が女奉行所の配下を率い、どの様な相手にでも果敢に立ち向かったのは、この様な家訓によるものだったのだ。父に発破をかけられたのである。これからも方針は変わらないに違いない。


 そしてこの会話を聞いている者達がいた。


 南町奉行大岡越前守をはじめとする、奉行職にある者達だ。


 さっきから千寿と伊吹近江守は他に誰もいないかの如く話しているが、この芙蓉の間は三奉行も詰める部屋である。当然大岡達も詰めている。


 この様な会話を間近で聞かされた大岡達は、内心渋面であった。


 これは、大岡達の事が眼中に無いのか、それともわざと聞かせているのだろうか。わざとだとしたら、場合によっては三奉行達も成敗の対象になるとの脅しであろう。


 全くもって、恐ろしい限りだ。


「他に用事がありますので、私はこれでお暇させていただきます」


「お? 何かあるのか?」


「はい、今度浄円院様が深畠様のご正室に挨拶に行きますので、お駕籠を借りるために大奥まで頼みに行くのです」


 千寿は元々大奥勤めだ。大奥の老女達にも可愛がられていたので、頼みやすいのだろう。そして深畠は二万石ながら由緒正しい大名だ。その大名の奥方との交流に使用するのなら、大奥も嫌とは言うまい。大奥はこの様な女同士の外交も担っているのである。


「そうか、まあ上手く付き合うがいい。その内あちらから何か頼み事もされるかもしれんし、関係を保つ事は重要だ」


 御留守居は、大奥に関してもその職務の一環だ。伊吹近江守が城内で実力を発揮しているのも、大奥との関係が良好だったからである。


「それではこれにて失礼します」


 千寿が立ち去った芙蓉の間は、その後は静寂に包まれたのであった。

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