第二話「銭湯の二階で」

 朝風呂を終えた町方同心の忠右衛門は、女奉行所与力の赤尾と共に二階に上がった。せっかくだからゆっくりして行こうという事になったのである。


「この前の策は、見事に上手くいきましたね。城之内様を通じて頼まれた時はどうなる事かと思いましたが、国友屋敷の連中は完全に騙されていましたよ」


 赤尾と碁盤を挟みながら、忠右衛門は以前の事件の事を話題にした。


 あの時、忠右衛門は町奉行所の動きを仄めかしただけで、確たる事は何も言っていなかったのだが、相手は勝手に深読みし、最終的に女奉行所に踏み込まれる隙を作ってしまったのだ。


「心を攻めるを上策と孫子も言ってましてな。拙者は北条流の軍学を修めているが、当然その程度の事も理解しているのですよ。特にああいった欲の皮が突っ張った輩は至極読み易い。まあ、拙者にかかれば、我が師北条先生を除いて子供を相手にする様なものですよ」


 赤尾は中町奉行所が廃止になる前は、中町奉行所きっての切れ者与力として北町、南町奉行所にも知られていた。


 現場での指揮には向いていないのだが、軍師として活用するのなら、これ以上の人材はそうそう居ない。


「でも赤尾の旦那、お奉行様はどうっすか? あのお方、底知れねえものがありますぜ」


 共に銭湯の二階に上がっていた女奉行所中間の次郎吉が、話に入って来た。


 武家奉公人の身分の者が、士分同士の会話に加わるのは、身分に煩いものなら良い顔をしないだろう。だが、赤尾も忠右衛門もそういう事には無頓着な性質だ。他に誰もいなければ注意もしない。


「ほう? 何かあったのか?」


 忠右衛門が美湖に聞いたところによると、件の事件では警戒厳重な屋敷に次郎吉は入り込み、屋敷の家宝を持ち出すという荒業を披露して見せた。事前に内部構造を知っていたとはいえ、常人には不可能な行いだ。彼の方こそ底知れないという表現に相応しい。


「それがですね。女奉行所が出来てすぐのことなんすけど……」


 次郎吉の語るところによると、次の様な事があった。




 女奉行所が設置される事になり、口入れ屋を通じて中間が集められる事になった。


 そのほとんどが大奥で働いていた女により構成されているのが女奉行所である。問題があってはならぬという事で、集められた中間達はかなり出来の良い者達であった。


 時として破落戸とほとんど変わらない中間を仲介するのが口入れ屋であるが、流石にその位のことを配慮するだけの良心が存在していた。


 とはいえ、如何に出来が良くても中間は中間である。暴力沙汰や女達へのちょっかいこそしでかさないものの、奉行所敷地内の中間部屋で、酒盛りをして馬鹿騒ぎしたり、博奕をして酷い有り様だった。


 中間の中でもまとめ役と目されていた次郎吉は、これは拙いと思っていた。大名や旗本屋敷なら、この程度の乱痴騒ぎが許されるかも知れないが、ここは曲がりなりにも奉行所である。口入れ屋に苦情など行った場合、色んな方面の顔に泥を塗りかねない。


「随分と楽しんでいる様ですね。私も少し混ぜてもらいましょうか」


 忠右衛門が仲間に少しは控えろと言おうかどうか迷っていたそんな時、奉行たる伊吹千寿その人が、中間部屋を訪れたのであった。


 しかも、供も連れずにだ。不用意な事この上ない。


 だが、荒くれ者揃いの中間達であるが、この人に手出しは出来ない事は肌感覚で分かっている。大身旗本の息女であり、何か手を出した場合生命が危ないという常識的な理由もあるのだが、暴力でも絶対に勝てない事は喧嘩慣れしているからこそ分かるのである。


 しかしそれは武力に限ってだ。今千寿は博奕に参加すると言っているのだが、それは中間達の得意とする分野である。大奥で働いていた高貴な女が、興味本意で入り込むにはあまりにもかけ離れた世界だ。


 中間達は、これを機に生意気な女奉行に痛い目を見せてやろうと、嗜虐的な事を考えたのだった。そしてそれを感じ取った次郎吉は、適当な所で止めてやらないと拙い事になると思ったのであった。


 その一刻後の事である。


「チクショウ! もう一回だ。もう一勝負やるぞ!」


「兄貴……もう止めましょうよ」


「うるせえ、黙ってろ! つーかお前も何か賭けろ!」


 そこには、千寿に負けてすってんてんになった中間達の姿があった。


 手持ちの銭が無くなったため衣服を賭け、文字通り身包みをはがれた者も多い。一応女性の前ということもあり、ふんどしは着用したままであるのが救いだが、美女が一人ふんどし姿のむくつけき男どもに密室で囲まれているという光景は、地獄絵図と言わずして何であろう。


 中間達は、どの博奕をしても千寿に勝つ事は出来なかった。


 丁半博奕でも、うんすん骨牌かるたでも、双六でも、全く勝つ事は出来なかった。


 次郎吉は博奕の腕前にはかなり自信があった。


 イカサマさえ絡まなければ運任せのサイコロ博奕と違い、うんすん骨牌や双六は実力がもろに反映される知的遊戯である。これらの博奕で相当の実力者である次郎吉が、赤子の手を捻るように千寿に負け続けたのであった。


 いつの間にか次郎吉が一番熱くなり、一番負けが込んでいたのであった。


(しまった。止めるどころか取り返しがつかないくらい負けてしまった)


 冷静になった時はもう遅い。元々裕福では無い中間達は、明日の飯に事欠く位負け続けたのであった。


「あの、お奉行様……」


「楽しかったですね。これから、お勤めをよろしくお願いしますね。私は参加出来ませんが、これで宴でもして英気を養って下さい」


 恐る恐る給金前借りを申し出ようとした次郎吉の言葉を遮って、千寿はこれまでの勝った金(と衣服)を差し出したのだ。しかも、懐から出した十両を追加してである。


「ははあ!」


 博奕の腕前と寛容な振る舞いに、中間達は千寿にこの瞬間心から平伏した。元々給金が良いのでそれなりに頑張るつもりではあったのだが、自分達の大将の底知れなさを感じ、心服したのである。




「とまあこんな事がありまして」


「なるほど、そいつは凄いな」


 次郎吉の語る千寿の話を聞いて忠右衛門は瞠目した。彼の上司たる北町奉行の稲生とて、町奉行に抜擢されるだけの人材である。その能力には感服するところが多い。だが、今聞いた話は全く異質なものである。


 底知れないという評価は、まさに適切だろう。


「おっと、もうそろそろ会合に間に合わなくなりそうなのでな。これで失礼させてもらいましょう」


 赤尾はそう言うと、手にしていた碁石を盤上に打つと、次郎吉を従えて去って行った。


 自分ももうそろそろ家に帰って寝ようと思った忠右衛門は、赤尾が最後に石を打った盤上を見て、この一手で自分が負けていた事に気付いた。

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