第七話「潜入、国友屋敷」
国友屋敷で美湖が門前払い食らった日の夜の事である。
美湖は暗闇に紛れ、国友屋敷の近くに潜んでいた。屋敷の中からは、男達の馬鹿騒ぎをする声が聞こえて来る。それが今の美湖にとっては非常に癪に障るのだった。
美湖が何をしにここに居るのかと言うと、これから隙を見て国友屋敷に潜入しようとしているのだ。
この事は上司である千寿には報告していない。相手は権現様のお墨付きで守られた連中だ。もしも発見されてしまったら、大問題に成りかねない。その様な事に、女奉行所の仲間たちを巻き込むわけにはいかないのだ。
女奉行所はまだ出来たばかりだが、江戸の女達を守るためには必要な存在だ。それを、この様な所で存続の危機に陥らせては、せっかく設置のために骨を折った千寿に申し訳が立たない。
屋敷の中には、死んだおそのの妹であるおおけいがいるはずだ。これを見つけて奪還せねば、おそのに申し訳が立たぬ。
かつて岡場所で働く遊女たちに偏見を持っていた自分の、せめてもの罪滅ぼしと思っている。
これまで屋敷を観察していたが、何人もの男達が門を潜って行く。町人風の男もいれば、武家風の男もいる。また、破落戸風の男もおり、中ではろくでも無い事が行われている事はこれで察せられる。
どうやって潜入しようか。
そんな事を考えながら屋敷の周囲を観察していた美湖は、また新たに屋敷を訪れる者がいるのに気付き、身を隠そうとした。
が、その者達の顔を見て別の行動に出る。
「おい、貴様、何のつもりだ。返答次第でこの場で切り捨てるぞ」
「おっと、やはりここに居ましたね。事情を説明しますので、刀を納めてくれませんかね?」
「待っていた? 一体どういう事だ」
屋敷にやって来たのは、女奉行所の同僚である赤尾であった。供に、中間の次郎吉も連れている。
美湖は赤尾が女奉行所の与力という立場にありながら、国友屋敷の乱行に参加しようとしてると考え、怒りに任せて刀を突きつけたのだが、それは早合点だったかもしれない。
「美湖、赤尾の言う通りです。私達はあなたを手伝うつもりでやって来たのです。刀を放しなさい」
美湖のすぐ後ろから声をかける者が居た。
女奉行伊吹千寿その人である。
背後からの接近の気配は全くなく、完全に不意を突かれた美湖は戦慄した。夜の闇は感覚を鋭敏にし、音を昼間よりも大きく響かせる。それにも関わらず完全に気配を消したて見せた千寿の技量の程が分かろうというものだ。
美湖は千寿達に連れられて、近くの林の中に歩みを進める。
「事情は、町奉行所の忠右衛門殿に聞きましたよ。それなのにあなたが何も言ってこないので、どうせこんな事だろうと思って来たのです。私達は仲間でしょう? 協力しますよ」
「恐れ入りました」
千寿には美湖の考えなど全てお見通しだったのだ。
「お奉行の命令で、次郎吉と一緒に内情を探って来るように言われていたのですよ。敷地内の配置が分からねば、助ける事も出来ないですからね。その、おけいという子でしたっけ? そんな事情が無ければあの様な悪所に行く訳が無いでしょう」
「え? あ、ああそうだな」
どうやら美湖は特に事情が無くても、赤尾は国友屋敷の様な所に行く人物だと思っていたらしい。それを察した赤尾は微妙な顔つきになる。
「ま、まあよろしいでしょう。敵を欺くにはまず味方からといいますからな」
「赤尾、動揺してますね。意味が通ってませんよ」
「それはともかく!」
千寿に動揺を見透かされた赤尾は、誤魔化す様に声を張り上げた。
「赤尾、静かに。気取られます」
「……私がこれから国友屋敷の賭場に行き、博奕をしながらおけいという娘の情報や、内部の事情について聞き出します。その間、お奉行や美湖殿は外で待機してください」
「美湖、そういう言う事です。私達は屋敷の外で、赤尾の報告を待ちますよ。赤尾は、あくまで情報収集と言う事を忘れず、熱くなり過ぎぬ様にね」
「ご安心ください。私はこれでも北条流軍学の赤尾陣内ですぞ。軍師たるもの、何時如何なる時にも冷静なものでございます」
赤尾は自信満々にそう述べると、提灯を持った次郎吉を連れて国友屋敷に意気揚々と向かって行った。
「千寿様、流石赤尾殿は北条流軍学の直系たる北条新蔵様の直弟子ですね。見事な自身です」
「そうですね。父上が北条新蔵様とは旧知の仲でして、その噂は以前から聞いていました。その才覚は北条様も娘婿に迎えようとしているとか。なので、女奉行所を作る時に与力として迎えようと思ったのですよ」
千寿や美湖は卓越した武芸の腕前を持っているが、軍学を修めた事は無い。武芸よりも軍学の方が良い師を見つける事は難しく、特に女の身では入門する事すら困難だ。
赤尾は軍学者としての才を発揮し、敵を打ち破るための策を考案するだけでなく、女奉行所の名声を高めるための宣伝までしてのけたのだ。
千寿も知恵と言う点では衆に優れているが、赤尾の様に上手くやってのける事は出来ないだろう。
赤尾の様な才覚を持つ仲間の存在に、千寿も美湖も頼もしさを感じていた。少し待てば、おけいを救出するための情報を入手して帰還する事だろう。
その半刻後の事である。
「すみません。赤尾様が、あと十両貸してくれって」
赤尾の供をしていた次郎吉が一人で戻って来て、金子を無心する伝言を伝えてきた。
「千寿様……」
「何も言わないで」
駄目かもしれない。
美湖の中に、不安さがあふれて来るのだった。
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