第六話「小名木川の水死体」
美湖が、おそのが新しい場所で働くと聞いてから、二週間ほど後の事である。
最近の美湖は、女奉行所の仕事に駆けずり回っていた。仕事と言っても以前女奉行所が全力で死闘を繰り広げた東慶寺までの旅路とは違う。
離縁問題で揉めている者の仲裁に行ったり、芸者に対して過剰なみかじめ料を要求する無頼の輩を退治したりしたくらいだ。変わり種としては、以前千寿が南町奉行所の白州で扇屋利兵衛を斬首したために砂利敷が血で汚れたので、その清掃をしたくらいだ。
武闘派をもって知られる松傘一家を根絶やしにした武名が功を奏したのだろう。美湖達女奉行所の者達が現れると、大して抵抗することなく離縁を承諾したり、これまでふんだくった金を返して謝ってくるのだった。
抵抗した者は斬られると知れ渡っているのだ。
女奉行所の軍師を気取る赤尾によると、最初の二件で徹底的な武力に訴えたのも、この様な効果を狙っての事だと自らの考えが正しかったのだと吹聴したものだ。
美湖は様々な任務に手勢を率いて出動し、見事解決せしめたのであった。
その日は久しぶりに何も任務の無い日だったので、深川のおけいの長屋を尋ねる事にしたのであった。
美湖が新大橋を渡り町を歩いていると、小名木川の傍に人だかりが出来ている事に気付いた。
「そこにいるのは、忠右衛門殿ではないか。何かあったのか?」
町人たちが遠巻きにして見守る中、何か調べ事をしているのは町奉行所の同心忠右衛門であった。美湖とは面識がある。
「これは城之内様ではございませぬか。……ご覧ください。見れば分かります」
「何を……これは!」
美湖に気付いた忠右衛門は、すぐに手で自分が調べていたものを示した。
そこには、美湖も良く知った顔の人物が倒れていた。それは、少し前に美湖と忠右衛門が助けたおそのであった。
おそのはつい先ほど川から引き揚げられたばかりらしく、全身ずぶ濡れであった。息はしていない。
「溺れ死んでしまったのか?」
おそのの外見を見た所、外傷は見当たらない。となると、状況から見て溺死と考えるのが順当だ。以前おそのを発見した時は、道端で倒れていた。それを鑑みると今回も歩いている途中不意に体調を崩し、川に転落した可能性がある。
「調べてみないと、そうとは言い切れませんな」
忠右衛門はそう言うと、菰に横たわるおそのの胸を両の手で強く押した。
「おい、遺体に何をするのだ」
「黙って下さい。ほら、見て下さい。水を吐き出しません。溺死したなら肺腑に水が溜まっているものです。ですが、ご覧の通りです」
「すると、死んでから川に落ちたというのか? となると、誰かに殺されたと」
「理解が早くて助かります。もちろん急な発作で即死して、川に転落した可能性もありますが、これはよく調べてみないとなりませぬ」
そう言った忠右衛門は、おそのの頭の辺りを調べ始めた。
「分かりました。この、頭の後ろ、髪の中を触ってみて下さい。固い物があるでしょう。これは焼いた釘を打ち込んだようです。こうすると血が出ないので、ちょっと見では殺しと分からんのです」
手際よくおそのが殺された原因を見つけ出した忠右衛門の手際は中々のものだ。町方の取り調べは自白を迫る手荒なものと思われがちだが、実際はそうではない。間違いがあってはお上の威光に傷をつけてしまうので、証拠固めは念入りに行われるし、拷問も相当の理由が無ければ許可がされない。
そのため、町奉行所の同心達には捜査の心得が伝えられているのだ。
「なんてことだ。おそのが殺されてしまうとは……、そうだ、おけいにこの事を知らせねば」
「その事はすでに手を打ってます。手下を知らせにやっている所です」
そんな事を話していると、忠右衛門の使っている岡っ引きが走って近づいてくるのが見えた。だが、彼は一人でありおけいを連れている様には見えない。
美湖と忠右衛門は嫌な予感がした。
「旦那大変だ! 長屋におけいはいねえ!」
何か良からぬ事態が起きている事を、美湖は感じ取っていた。
美湖と忠右衛門は亀戸の国友屋敷の前に来ていた。おそのが働くと言っていた亀戸のとは、この国友屋敷の事だと予想しての事だ。おそのとおけいが暮らしていた長屋の近隣の住民は、最近おそのの働き先の者が来て、おけいを連れて行ったと証言している。
亀戸の
だが、この屋敷の主である国友泰治は武士ではなく、この辺り一帯の名主である。そして、ここは単なる屋敷なのではなく、塀の中の敷地内には料理屋などが開かれているのだという。
いや、料理屋のみではない。町奉行所は、この中には賭場が開帳されていたり、私娼窟となっているとの情報を得ている。
豪農とはいえ百姓でありながら将軍のお膝元でこの様な身分を弁えぬ屋敷を構えたり、あまつさえ賭場や私娼窟を設けているなど、出鱈目もここに極まれりである。
だが、この様なものが許される理由があるのである。
「おい、主の国友泰治を呼んでもらおうか。女奉行所と町奉行所が話を聞きたいと言っているとな」
「主人は御多忙でしてな。お引き取り願いましょう」
屋敷の前には門番らしき者が二人控えており、美湖は主を出す様に言ったがそれはあっさりと断られた。
門番の二人は見るからに荒くれ者であるが、その返答の口調は一応まともである。だが、その目には威圧的なものが大いに含まれており、常人なら何も言い返せず、尻に帆をかけて退散する事だろう。
むろん、美湖はその様な玉ではない。
「ほう、我等奉行所に楯突く気か? この前女奉行所に松傘一家が壊滅された事を知らぬと見える」
「そちらこそ、ここが何処かを知らんようだな。ここは、畏れ多くも権現様より不入の権を保証された、国友様の屋敷だぞ。不浄役人どもにとやかく言われる筋合いがあると思うのか!」
門番がふんぞり返りながら、居丈高に言った。
これこそが、国友屋敷で賭場が開かれ様が、何が行われようが、手出しを出来ない理由なのだ。
かつて東照大権現徳川家康が、豊臣秀吉の命により江戸に拠点を移した時、亀戸の土豪である国友家はいち早く協力を申し出た。
徳川家が来る前、北条家の治世が行き届いていたため、新たな統治者となる家康は苦労するものと思われていた。下手をすれば、旧主をしのんだ百姓たちの一揆が続いたとしてもおかしくは無い。
もしもそうなったら、徳川家はその後天下を獲る様な力を蓄える事が出来なかっただろうし、場合によっては秀吉によって改易されていたかもしれない。
そのため、徳川家の関東の速やかな掌握を助ける事になった国友家に、家康は大いに感謝する事になった。
国友家の子々孫々に至るまで、土地の不入の権を認めたのはその様な事情があるからだ。
「くっ……」
事前に忠右衛門から事情を聞いていた美湖だったが、ここまで強硬に反発して来るとは思っていなかった。
いくら国友家にお墨付きがあろうと、それは百年も前の話だ。今の将軍より権限を与えられた町奉行所や女奉行所にこれほどまでに喧嘩を売るなど、幕府の権力内で生きていた美湖の想像を超えている。
「さあさあ、お引き取り願いましょう。そちらの同心殿はよっく分かってる様子。ちゃんとそちらの世間知らずに、この世界の仕組みを教えておいてくれないとこまりますなあ」
「はっはっは!」
東照大権現のお墨付きを盾にされては、美湖達は引き下がるより他に無い。門番達の馬鹿笑いを背中で聞きながら、退散するしかなかったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます