第五話「長屋の姉妹」

「せん、美湖を見かけませんでしたか?」


 ある日千寿は、女奉行所内で最近美湖の姿を見ない事に気付き、近くを歩いていたせんに尋ねた。


「聞いたところによりますと、この前町で助けた者と会っているとか! 確か次郎吉さんが場所を知っているはずなので、呼んで来てもらいますか!」


「ああ、深川の。いや、結構です。好きにさせましょう」


 美湖が深川の夜鷹と交流を深めているのなら、それは千寿の心にもかなう事である。


 美湖は育ちが良いせいか、庶民の心情に疎い所があった。偶然ではあるが、市井に生きる者と知り合えたのは幸運であった。美湖は千寿の右腕として、女奉行所の運営に力を発揮してもらわねばならない。そのためには、一面的な物の見方では困るのである。


 真っ当とは言えない生き方をしている女達からも、信頼されてこそ千寿の理想とする女奉行所なのだ。


「その内、土産話でも聞かせてもらいましょう」





 せんの話の通り、美湖は深川の長屋を尋ねていた。


「よしよし。おけいちゃん、上手いものだ。もうすっかりいろはは覚えた様だな」


 美湖は長屋の中で、小さな娘に文字の書き取りをさせていた。娘の名はおけいと言い、先日美湖が助けた夜鷹の妹である。姉のおそのは夜は夜鷹をしているのだが、昼は料理屋で給仕をしている。その間おけいは一人きりで長屋に取り残されるのが常である。


 そこで最近は美湖が面倒を見ているのである。


 もちろんこの様な事が長く続くなどと甘い事は、いくら世間知らずの美湖であっても理解している。だが、せめておそのの体調が戻るまでは、この姉妹に付き合ってやろうと思うのだ。


 おけいはこれまで寺子屋に通った事はないらしく、全く読み書きが出来なかった。だが、元々物覚えは良い方らしく、美湖が少し教えただけですぐに文字を覚えてしまった。


 おそのも読み書きを習った事はないらしく、理解しているのは自分の名前と数字くらいであるそうな。


 学問に全く触れて来なかったおそのであるが、美湖のしている事を無駄だとは思っていない様で、出会った時に感謝の言葉を述べてくれる。妹に自分の様な生き方をさせたくないらしく、学問を学ぶことでその突破口になるのではと期待しているのだ。


「あのね、明日からおねえちゃん、新しい場所で働くんだって」


「ほう、そうなのか」


 現在おそのは、昼は料理屋、夜は夜鷹として働いており、体を休める暇も無い。それに、大した儲けにもならないだろう。そして、どれだけ身を粉にして働いても、状況は好転しない。


 だが、そうだとしてもおそのは、妹を養うために命を削り続けて行くはずだ。


 それが新しい働き口を見つけたというのだ。おそらくもっと実入りの良い職のはずで、美湖は少し安心した。


 美湖はこれまで真面目に働き、無駄遣いをせずに質素倹約に努めれば皆が安定して暮らしていけると思っていた。金に困る者もいる事は知っていたが、それは贅沢をしたり博奕に奔ったりしたせいだと考えていた。現に女奉行所に勤めている次郎吉をはじめとする中間達は、奉行所内の中間部屋で博奕をしたり酒盛りをしたりとバカ騒ぎをしていた。


 この中間達はある日千寿に懲らしめられ、今では改心しているのだが、美湖は生活に困るのはこの様な輩の類だと思い込んでいたのだ。


 だが、おけいやおそのはその様な輩ではない。身の上話を聞けば、彼女らの父母は上総の百姓だったのだが、その日生きるのにも事欠いたため、江戸に出てきたのだそうだ。だが、悪い口入屋に騙され父はなけなしの財産を失ったうえ早々に亡くなり、母も心労が重なって後を追った。そしてそれから、おそのはおけいを女手一つで育てて来たのだ。


 まだ幼いおけいは、姉のおそのが昼夜に渡って働きづめであるため、一人で留守をするのは不安でたまらないはずだ。だが、これまで美湖がおけいと話した時にそれを口にする様な事は無く、常に姉を気遣う発言しかしない。


 そして、おそのは美湖がおけいの面倒を見てくれることに大変感謝しており、それに甘えているが単に甘えている訳ではない。美湖が長屋を訪れた時、おけいのために昼食を作ってやるのだが、最低限の食費は置いていっている。一方的に助けられるのを良しとしていないのは、貧民なりの矜持なのだろう。


 その食費をするために何をしているのか、当然美湖にも分かっているが、もう汚らわしいとか思う事は無かった。


 もちろん、かつて小松修理亮の様に貧乏御家人の娘達を食い物にした輩を成敗した事は、今でも正しい事だと思っている。要は、体を売るという行為自体が汚れなのではなく、そこに関わった者に悪意や過剰な搾取をしていないかと言う事なのだと美湖は思う。


 美湖は自分がおけいと同じくらいの頃、果たしておけいの様に自分の事より家族の身を案じる人間だったかというと、その様な自信は無い。恵まれた環境で幼い頃から武芸や学問に励んだことにより、大奥でも将来を嘱望される地位になれたし、今ではこうして女奉行所の与力として江戸の町に生きる女達のために力を尽くしている。だが、生きるために必死なおそのやおけい達と自分とで、上下があるとはもう思えない。


「ところで、おそのは何処で働くのかきいているか?」


 流石に世間知らずの美湖も、世の中には悪党が蔓延っている事は理解している。おけい達の父が悪人に騙された様に、おけいも騙されないか心配になったのだ。


「えっと、亀戸のさんのところだって言ってた」


「そうか」


 亀戸のなる人物だが店だかは知らないが、あの辺りは田畑が広がる地域である。目立った施設は亀戸天神くらいのものであり、あまり妙な商売はしていないはずだ。安心しても良いだろう。


 美湖はそれから暫くおけいの手習いをみてやって、昼食を一緒に食べると長屋を後にしたのだった。

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