第四話「とある夜鷹との出会い」

 千寿が稲生と共に吉原に赴いた次の日の事である。


 女奉行所与力格城之内美湖は、供回りをつけて深川を歩いていた。幕府公認の色街たる吉原は女奉行自らが調査したので、私娼は配下が調査する事になったのである。だから岡場所を歩き回っている。


「ここ深川は岡場所が多い地域だ。ただの芸者も多いが、遊女も多い。他の岡場所と違う特色としては、呼び出しという制度ですな。客は先ず料理屋に行き、そこに遊女屋から遊女を呼び寄せるのだ。……です」


 美湖と同行していた北町奉行所同心、林忠右衛門は、深川について語った後、少し慌てて語尾を丁寧にした。


 女が男に従うのが今の世の常とはいえ、忠右衛門は単なる町奉行の同心、対して美湖は女奉行所の与力格である。建前上は美湖の方が上なのだ。しかも、美湖の父は先手弓頭だ。


 吹けば飛ぶような町方同心とは違うのである。ある意味立場が逆転していると言えよう。


「それで、その様な事が罷り通るのは、町奉行所は認めているのか?」


「いえいえ、そんな事はございません」


「では、何故この様な場所が存在するのを見逃しているのだ? まさか、賂でも貰っているのではありますまいな?」


「……」


 美湖の詰問するような口調に、忠右衛門は面倒くさい人にあたったと内心思った。別に忠右衛門は私娼を経営する者から金子を貰っている訳ではない。


 町奉行所は治安のみならず、江戸の様々な機能を司る役所だ。本来は、非公認の岡場所など一掃してしまうのが正しいのだろう。だが、庶民と直に接する事が多いからこそ、建前だけでは世の中が回らない事も承知しているのだ。


「城之内様は、岡場所は無くすべきと考えてらっしゃるんで?」


 美湖の付き人として挟み箱を持っていた、中間の次郎吉が尋ねた。主人の会話に中間が参加するなど、普通ではあり得ない。女奉行所では許されているらしい。


「別に消滅させよとは思わぬが、本来存在しないはずの私娼窟が大手を振って営業するなど、おかしいのではないかということだ」


 良家の武家の娘であるため、かなり固い考えをしている様だ。忠右衛門は言葉を選んで説明せねばと思った。


「よろしいですかな? そうせねば生活できぬ者も大勢いるのです。今の上様は下々の者にも気を配っていますが、それにも限界があります。なればこそ多少の目溢しはしますし、余りに酷い店を優先して摘発するのです。そうすれば、体を売らねば生きていけぬ者も少しは救われるでしょう。そこを勘違いしてはいけません」


「だが、非公認は非公認、それを公儀の者が黙認するのはいかがなものだろう。それに、強いられた訳でもないのに体を売る者に配慮する必要はあるのだろうか?」


「何を言われます?」


 忠右衛門は驚いた。女奉行所は女人の保護のための組織だと聞いている。その組織でも上位の役柄にある者が、守るべき対象に区別をつけているなど思いもよらなかった。


「女奉行所の初仕事は、小普請金を支払えぬ零細御家人の子女を食い物にした小松修理亮達を、成敗したのではありませぬか?」


「それとこれとでは話が違うと思うが。武家の最低限の体面を保ち、法で決められた資金を用立てねばならなかったのだ。致し方無かったのだし、そこに付け込んだ小松修理亮達は許しがたいと言える。だが、町人たちはそうではあるまい。生活の質を落とすとか、他の手段もあるだろうに。千寿様はこの様な場所にいる女も守るようにおっしゃったが、果たしてその必要があるのか」


「それはどうでしょうね」


 忠右衛門は美湖の視野の狭さを感じ取った。


 恐らく彼女は何不自由の無い大身旗本の家に生まれ育ち、大奥という極めて特殊な世界で生きてきたのだ。


 それではこうも成ろう。


 奉行自身は柔軟な思想をしている様だが、その腹心がこれでは先が思いやられる。早めに考えを改めて貰わねば、この先町奉行の仕事もやりにくくなるだろう。


「さあ、着きましたよ。ここが目的地の料理屋、『桝屋』です。色々とお考えはあるでしょうが、面倒事は困りますよ」


 そうこうしている内に、美湖と忠右衛門達は目的地の料理屋に到着した。料理屋といっても、もちろん売春宿である。まだ昼間なので客はあまりいないはずだが、夕暮れ以降は欲にまみれた客達でごった返す。


「頼もう! 女奉行所の城之内美湖である。ここの商売の内容について話しを聞かせて貰おうか!」


 まるで捕り物の様な美湖の態度に、忠右衛門は頭が痛くなるのであった。

 




 桝屋での聞き取りは、芳しくないものとなり、忠右衛門は頭を抱えていた。


 最初から喧嘩腰の美湖である。これでは上手く聞き取れるわけが無い。


 それでも対応した桝谷の主は、岡場所の実情や、遊女の事情について理解してもらおうと落ち着いて説明をした。

主は先日吉原を訪れた女奉行は、吉原の事情をよく理解してくれたと聞いていたのだろう。対照的な態度の美湖が乗り込んで来たので面食らっていた様だった。


 しかし粘り強く対話を続けた成果であろう、美湖は心から納得したのではない様だが、一応は岡場所の事情を理解したようだ。


 これで女奉行所が岡場所の清掃に押しかける事は、取り敢えずは無いだろう。忠右衛門は一先ず安心したのだった。


「はて? あれはなんでございましょう?」


 美湖の荷物を持っていた中間の次郎吉が、前方を指した。そこには、何か黒い物体が道の真ん中に転がっている。


「あれは、まさか人か? おい、大丈夫か?」


 美湖はすぐに走り出し、倒れていた者を助け起こした。倒れていたのは、歳の頃は二十を過ぎた辺りの女で、目を固く閉じたまま呻いている。


「しっかりしろ。どうしたんだ」


「城之内様、どうやら彼女は夜鷹の様ですな。あまり健康状態が良くないのに無理に仕事をしていたから倒れたのでしょう」


 倒れていた女の近くには、筵が転がっている。そして彼女は整った顔立ちをしているが、血色は良くない。


「何故この様な事に?」


「恐らく家族を養うために体を売っているのでしょう。生活に余裕が無いので、休む暇も無いのかと」


「そんなに追い詰められているのか。身を売る女達というのは……」


 美湖は衝撃を受けたようである。今の今まで彼女は、貧窮というものを甘く見ていたのだ。


「お前、俺の声は聞こえるか? 家に連れて行ってやるから、しばし気を張って案内しろ」


 それから美湖と忠右衛門は、夜鷹の女を家まで連れて行き、夜通しで看護する事になった。


 女の家である長屋まで行くと、そこに忠右衛門の予想通り十にもならない娘が帰りを待っていた。ぐったりした女にすがりつき泣き叫ぶ娘をなだめ、床に寝かしつける。


 忠右衛門の予想では病気ではなく、滋養のあるものを食べれば復調するだろうとの事だったので、美湖は何か料理を作ろうとしたのだが、生憎と部屋の中をどれだけ探しても食べられそうな物が見当たらない。そのため中間の次郎吉が女奉行所までひとっ走りし、食材を持って来ることになった。


 看病のおかげか、美湖が作った料理のおかげか、女は鶏が鳴く頃には何とか回復した。


 安心した美湖達は、女の住む長屋を後にしたのだった。

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