第三話「亡八達の宴」
その日の夜、千寿は北町奉行所の前で待ち合わせ、業務の終わった稲生と共に吉原に向かった。もっとも、業務が終わったと言っても単に時間がきただけで、全く終わってなどいないのだ。江戸の治安維持や運営を司る町奉行の職務は半端なものではないのである。
その点、女奉行所はその職務内容は極めて広いのだが、具体的ではないために恒常業務は皆無と言ってよい。
これまでは組織作りそのものが課題であったが、二度の事件解決で名を上げた以上、今後は何をしていくかが問われていくだろう。
稲生が千寿を案内したのは、吉原でも一、二を争う大見世である「杉野屋」である。町奉行やそれと同格である女奉行が見聞するのであるから、それなりの格が必要であるとの理屈があり、吉原の店主たちが申し出てきたのだ。切見世などに大身旗本達を連れて行くなど、吉原の誇りが許さないとの事である。
もちろんそんなものは建前だ。
町奉行所から女奉行が調査に来るとの警告を受けた吉原の店主たちは、巷で噂の伊吹千寿が来ることを非常に恐れた。
女奉行が女の保護のために、旗本屋敷に斬り込んだり、ヤクザ者と抗争しながら東慶寺まで大店の女房を送り届けた事は彼らも聞いている。
故に吉原でも一番
大見世に上がった千寿達は、二階に上がって杉野屋の楼主の対応を受けた。
吉原の中は、愛と欲望が渦巻く、地獄と極楽が入り混じった別天地である。特に大見世の内装などは豪華絢爛だ。大身旗本である稲生も、大奥で勤めていた千寿も、この様な華美なものは初めて見る。
「吉原は珍しゅうございますか?」
物珍し気な千寿達に、杉野屋の主である紀衛門が声をかけた。
「うむ。町奉行に就任したおりは巡察で一度来たが、入り口の四郎兵衛会所までであった。まさか、この様な場所であったとは」
「もちろん私も初めてですよ」
「そうですかそうですか。では一献どうぞ」
この場には、杉野屋以外の主だった遊郭の楼主も同席している。女奉行所の調査に協力するためと言う事になっている。
もちろんここで接待攻勢を仕掛け、お目こぼしを願うのが目的だ。まだ千寿の性格が掴めていないため、先ずは社交辞令や酒を勧めるところからだ。噂で聞こえて来る女奉行の性格は、峻厳苛烈である。下手に金品を差し出しては即座に斬首されかねない。
刀は店の入り口で預けているのだが、そんなもので安心など出来はしない。
「いえ、結構です。私達は吉原の調査に来たのです。遊びに来たのではありませんので」
「そ、そうですか。まあせっかくうまい酒も用意してますので、お調べが終わりましたら是非お楽しみを」
「それも結構です。こういう場所で女人の私が楽しむのも難しいでしょうからね。殿方は違うかもしれませんが」
要はさっさと調査など終わりにして欲しいというのが本音なのだが、それを見透かす様に千寿はやんわりと断った。最後に少しだけ話を差し向けられた稲生は、心外そうな顔をしている。稲生は勘定奉行という金銭絡みの役職も経験したが、いたって身綺麗な体だ。その辺が吉宗に気に入られている所でもある。
藪蛇だったかと酒を勧めた楼主は気まずい顔をした。他の楼主達もこれは作戦を失敗したかと青い顔だ。隣の部屋にはお土産が山と積まれているのだが、これは絶対に見せない事を心に決めたのだった。
「奉行様がたがお知りになりたいのは、遊女の暮らしでしょう? それについては私がお答えします」
黙り込んだ他の楼主を尻目に、杉野屋の主である紀衛門が落ち着いた様子で話し始めた。
紀衛門は、杉野屋における遊女の扱いについて詳しく語った。
吉原の遊女達は、家の借財などの様々な事情により吉原に来ることになったのだが、原則十年の年季奉公で二十七歳までとなっている。つまりこれを過ぎれば吉原を抜け出すことが出来るのだ。
だが、年季が明けたと言ってもそれまでに借財を返し終えねばならず、奉公が終わっても吉原に残って仕事をする女も多い。それに十年以上も吉原という別世界で暮らしていたのだ。普通の生活に戻る事が出来ず、岡場所などに身を落とす者も多い。
高位の武家や豪商に身請けされる者もいるが、それはごく少数だ。
「それは知りませんでした。てっきり遊女は奴隷の様に一生こき使われるかと思ってました」
「そうですよ。世間では身売りなどと言ったりしますが、人身売買は御法度です。あくまで奉公の契約なのですよ」
意外な様であるが、これは本当の事だ。人身売買をした者は死罪なのが定法だ。実態として人身売買と変わりのない事も多いのだが、建前であっても大きな違いである。
そしてこの人身売買を禁ずる法は、平安時代の末期から存在している。この禁令の対象は、誘拐してきた者を売買する事であり、借財や年貢を支払うために妻子を売り払う事までは禁止していないものの、遥か昔より人身売買は好ましくないとの認識があったのも事実である。
そののち徳川幕府の成立後、元和の頃には禁止の範囲が拡大され、それまで容認されていた子供の売買も禁ずるようになった。もちろん、下人などの存在は否定はしていないので、徳川幕府が全ての民を平等に扱っているなどと言う事は無いのだが。
「しかし、奉公の期限が来る前に、借財を返済するというのは中々難しいのでは? 説明によると遊女は寝具などにも使用料を見世に支払わねばならず、最低限以上の食事をとるには別に金が必要。それに体調が悪い場合休むには迷惑料を払わねばならないようですが?」
吉原の遊女の生活は決して楽ではない。華麗に見える高位の花魁であっても、様々な費用を理由をつけて毟り取られてしまうため、安定した生活などとは無縁である。特に女性というものは、毎月定期的に体調が悪くなるのだ。この度に罰金をとられていてはたまらないだろう。
「見世によっては、客が金を払わずに逃げたらその分を遊女の負担にしたり、稼ぎの悪い者に食事を与えなかったり竹棒で打擲するなどの折檻もするらしいですな」
「ほう、それは酷いですね」
紀衛門の言葉に他の楼主達の顔色があからさまに悪くなる。杉野屋ではそこまでの非道な行いをしていないからこそ、しれっとその様な悪行を言う事が出来るのだろう。
「伊達に亡八とは呼ばれていないという事ですな」
亡八とは、仁義礼智孝貞忠信の八徳を失っているという事だ。この様な非人情なものでなければ、遊郭を経営する事は出来ないと言う事なのかもしれない。
紀衛門は他の楼主ほどの非道な事はしていないのだろうが、それでも自らの行いは理解しているので、こうして正直に実態を述べたのだ。
他の楼主達も、己の所業の非道さを改めて言葉に出されたため恥じ入ったのか、自然と土下座をせんばかりに頭を下げた。
「おや? どうしました。そんなに頭を下げて。丁度首を落とすのに良さそうな姿勢なので、思わず切ってしまいたくなるじゃないですか」
千寿の落ち着いているが冷徹な言葉に、楼主達の体が縮こまる。
「例え、あなた方をここで切っても、吉原の女達を救う事は出来ないし、他のもっと悪い場所に流れていく事は私も分かっています。それに、吉原は幕府の公認ですからね。遊郭経営を理由に処断する事は出来ません」
楼主達の緊張が少しほぐれた。
「ですが、あまり非道な事をするようでしたら、こちらにも考えがありますので、よく覚えておくように」
「ははあ!」
紀衛門も含めた楼主達は、千寿の言葉を心に深く刻みつけるのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます