第六話「お白州での斬首刑」
扇屋の主である利兵衛は、手下からもたらされた報告にいらだっていた。
利兵衛は女房のお秀を追跡するのに、松傘一家を使っていた。お秀の実家は江戸から少し離れた六浦であり、少し離れている。だから、女の足で逃げ切れる訳が無かったのだ。しかも、松傘一家は江戸でもその名を知られた武闘派である。例えお秀の実家が迎えを寄こしたところで抵抗する事など不可能なはずだったのだ。
だが、驚いた事にお秀は女奉行所なる最近設置された役所に逃げ込んだのだ。
何やら旗本屋敷に斬り込んで女を助けたなどと市中で噂になっているらしいが、そんなもの大したことがないと高を括っていた。太平の世にあって軟弱な旗本どもと違い、松傘一家は喧嘩三昧の実戦派だ。あっという間にお秀を奪還できるはずだった。
現実は違った。
女奉行所を包囲したは良いものの追い返されてしまい、そうこうしている内に町奉行にも目をつけられてしまった。それで町奉行の目が届かない街道筋でお秀を捕獲しようとしたのだが、戻って来た松傘一家の手下は敗北を伝えてきたのだ。
百人からの無頼者の一味が、たった半分程度しかいない女どもに負けてしまったのだ。勘定奉行が多少加勢したとは聞くが、この様な事は信じられなかった。
だが、まだ再起の目はある。
町奉行所に訴え出れば、お秀は扇屋に戻って来るしか他に無い。いままでの商いの経緯からあまり町奉行所とは関りを持ちたくなかったのだが、こうなればなりふり構う事は出来ない。
将軍生母を襲撃してしまった松傘一家との関係は、しらばっくれれば何の問題もない。もちろん接触していたとの証言は誰かがするかもしれないが、その時はヤクザ者に金品をせびられていたとでもすれば、言い逃れは可能だ。
月番の町奉行である大岡は、能吏であり江戸の町をよく運営していると言える。だが、裁判を司る者としては基本的に前例主義である。扇屋の密事を調べ上げたり、離縁の件で何か新しい法解釈を示すことは無いだろう。
そういう訳で奉行所に訴えを起こしてから暫く経過したある日、奉行所から呼び出しがあった。おそらくお秀の件だろう。
こうなった以上早くお秀を取り戻して、六浦お秀の実家を乗っ取らねばならない。町奉行所がお秀を扇屋に戻す裁断を早期に下せば、東慶寺が利兵衛に離縁を要求する事が出来なくなるのだ。最近町名主が東慶寺に呼び出されたと聞いている。東慶寺が離縁の手続きを進める前に手を打たねばならないのだ。
「扇屋でございます。お呼びに従いまかりこしました。あ、同心様。いつもご苦労様です。これは感謝のしる……何を⁉」
町奉行所についた利兵衛は顔馴染みの同心に挨拶がてら賄賂を渡そうとしたのだが、どういうことか到着するなり捕り方に取り囲まれ、あっという間に白州に引き出されてしまった。
「これはどういうことですか⁉ こんな事が許される訳が無い!」
利兵衛は叫んで抗議するが、それに答える者は誰もいない。
町奉行所の取り調べでこの様な真似は普通許されない。拷問は相当の理由が無い限り許されないし、もし間違えた判決を下した場合幕府の威信を傷つけるため、白州に引き出される前に相当の吟味がされる。
奉行所に到着して白州に直行などありえないのだ。
「南町奉行、大岡越前守様、並びに女奉行伊吹千寿様、御出座」
呼び出しがかかり、利兵衛は平伏した。状況はよく分からないが、こうなった以上何とか奉行を言いくるめるしかない。口八丁手八丁で利兵衛はのし上がって来たのだ。それを大岡に対して発揮するより他に無い。
(だが、女奉行が来るとは一体?)
「扇屋利兵衛、面をあげよ」
疑問に感じた利兵衛であったが、声を掛けられ顔を上げる。その目には以前町で巡察する姿を見かけた大岡の姿があった。そして、その隣には裃を身につけた女が座っている。この女が女奉行の伊吹千寿とやらだろう。
「お奉行様、おそれながら申し上げたい事が……」
「利兵衛、白州では聞かれた事だけ答えよ」
「ははっ」
出鼻を挫かれてしまい、自分が焦り過ぎてしくじった事を利兵衛は悟った。
「扇屋利兵衛、お主、自らの妻に松傘一家を差し向けて、その身を亡き者にしようとした事、これは真か?」
「とんでもございません。私は単にお秀を取り戻そうとしただけでして、亡き者にしようなどと滅相もございません。夫婦相和し、妻は夫に従い、夫の許しが無ければ離縁などせぬのが世の習いでしょう?」
利兵衛の言う事は一応筋は通っている。今の世を保っている秩序は、利兵衛が言う様な事だ。この男は虚偽を並べ立てており、よくもまあ恥ずかしげもなく夫婦相和すなどと言えたものであるが、それでも理は彼にある。
「おやおや、お秀の事を聞かれていると思っているのか」
「は?」
女奉行の独り言に利兵衛は聞き返したが、女奉行は何も答えなかった。
「では質問を変えよう。む? 何だ利兵衛。聞いておるのか。ここは白州であるぞ!」
「ははっ!」
女奉行の言葉が気になり、町奉行の問いかけを無視してしまったため厳しく叱責されてしまった。神妙に謝罪するが、それでも女奉行の言う事が気になる。まさか、あの事に気付いているのではないか。
「扇屋が荷抜けをしているとの情報がある。これは真か?」
「まさかその様な事、あるわけがございません。そもそも、一介の乾物問屋に何故その様な事が出来ましょう。元より術がございません」
「あら? 確か前妻の御実家は上総国の廻船問屋でしたね。江戸に来る船から荷抜けするにはもってこいですが」
「何をおおせられます⁉」
利兵衛は自らの悪事が露見している事を悟った。だが、まだ証拠は押さえられていない。何とかこの場は切り抜け、時間を稼がねばならない。この場で処断さえされなければ、金を使って牢抜けして蓄電する事も可能なのだ。
「お奉行様、只今扇屋の探索から戻りました。扇屋の不正の証拠がこの様に揃っております」
白州に町奉行の数人の与力、同心がの小物達を率いてやって来た。彼らは町奉行に何枚かの書付を示した。
「ほう? 富津の廻船問屋松乃屋を前妻の実家である事を口実に乗っ取ったのか。これだけ荷物を中抜きすれば、それは儲かるであろうな」
「ははあ! お奉行様のおっしゃる事いちいちごもっともで、この利兵衛恐れ入りました。つきましては荷抜けを仕掛けた者達に弁済いたしますので、なにとぞ寛大なる御裁きを」
明白な証拠を突きつけられて最早言い逃れは不可能と諦めた利兵衛は、何とか重罰だけは避けようと平身低頭謝る作戦に出た。荷抜けの罰は、場合によっては極門にされる事もあるが、利兵衛の場合重過料で済むはずだ。また、荷抜けをされた者達に弁償をし、それで相手が納得すればそれも軽くなるだろう。
江戸市中外に隠している財産はかなりのものであるため、江戸払になったとしても暮らしは安泰だ。
だが、その様な甘い目論見はすぐに打ち破られた。
「追加の証拠です。松傘一家の生き残りを捕縛しました。廻船問屋の乗っ取りや、利兵衛の前妻の殺しも白状しました」
「前妻殺しですか。女に対する暴力と言う事は、我々女奉行の出番の様ですね」
松傘一家の残党を連行してきたのは、美湖達女奉行の配下達だ。この報告を受けた女奉行伊吹千寿は一歩前に膝行して、白々しく言った。
最初からこの流れにするつもりだったのは明白である。
女奉行所が旗本屋敷を襲撃し、そのことごとくが斬殺されるか、切腹して果てたのは利兵衛も聞いている。
「扇屋利兵衛、荷抜けによる不正な蓄財のため、前妻の実家を乗っ取ったばかりか、それが済むや妻が邪魔になり殺害した事、真に許しがたい。更に、再婚したお秀に対しても同じ様な所業に及ぼうとした事、言語道断である。よって上様から与えられた女奉行の権限により、お前を処断する。覚悟!」
そう告げた千寿は、せんから手渡された刀を引き抜き一閃した。地に頭を擦り付けていた利兵衛は、その姿勢のまま絶命する。
一見首が付いたままの様であるが、美湖が利兵衛の頭部を手に取ると、するりと胴体と泣き別れる。あまりの千寿の剣の鋭さに、切断面がすぐには離れなかったのだ。
「この通りでございます」
「利兵衛の首、確認しました」
美湖は利兵衛の首を掲げ、千寿はそれを満足げに確認した。まるで首実検の様だ。
「あの、千寿様? 白州で首を切ってはいけませんよ。斬首する場所はちゃんと決められれています」
元町奉行所で勤めていた赤尾が千寿に気まずい顔で言った。
「あら、そうなのですか。てっきり罪人はお白州で御裁きがあった後、すぐに町奉行が切ってるのかと思ってました。大岡様、申し訳ありません」
様々な事に知恵が回る千寿であるが、町奉行所の仕組みには疎い所があった。失敗したという顔をして横にいる大岡に謝罪した。
まさか自分がその様な暴力的な裁きをしていると誤解されていたと知り、大岡は心外に思うのだが、たった今いともたやすく罪人を斬首した千寿に文句を言う気持ちにはなれなかった。曖昧な顔をして適当に返事をするしかなかった。
この南町奉行所内での女奉行の裁きは、すぐに江戸中に知れ渡った。
大悪党をお白州で見事成敗したのである。女達は元より、男達も不正な手段で蓄財にいそしむ悪徳商人の末路に快哉を上げた。
この後、妻が離縁を求めた場合、夫が素直に応じる例が多くなったと言われている。
利兵衛には別に罪があったために斬首されたのだが、それが正確に伝わらなかったため、不当に離縁を拒む夫は女奉行に処罰されると恐れられたのかもしれない。
そしてお秀は、東慶寺に数年奉公した後実家に戻り、商売の立て直しに尽力したと伝えられている。
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