第五話「松傘一家の最期」
千寿達が駒木根達と共に敵を撃退していたのと同時期、残りの者達は東慶寺に向かっていた。
一行を率いるのは美湖だ、彼女は浄円院の乗った駕籠のそばを歩き、行列の全体を見回している。
「もうすぐ、東慶寺に到着する。東慶寺の中に入れば、流石の松傘一家も襲ってこれないはず。さすればひとまず安心でしょう」
美湖は隣を歩くお秀に声をかけた。安心だとは言っているが、もちろんそんなものは気休めだ。おそらくお秀を東慶寺に入れまいと、松傘一家がそろそろ襲撃してくる頃だ。
「お奉行様は、大丈夫なのでしょうか。こちらよりも少ない人しか連れていませんが」
「それは問題ない。あのお方が破落戸ども負けるなどありえませんから」
「そうなのですか?」
美湖は自信ありげに言ったが、お秀はまだ心配そうだ。それはそうだ。お秀は千寿の武芸の腕前を知らない。
千寿は外見こそ裃の男装束で勇ましいが、その物腰は柔らかい。それに比べたら、態度も雰囲気も勇ましい美湖や、六尺を超える巨躯をもつせんの方が強そうに見える。
「まあ千寿様には策も授けてますし、問題ありますまい。例え策が不発に終わろうと、千寿様が生き残るのには支障ないでしょう」
近くで美湖達の話を聞いていた赤尾が、緊張感の無いへらへらした口調で言った。
「赤尾殿、そんな無責任な事では困る。赤尾殿の策を信じて、千寿様は少ない手勢で六浦方面に向かったのだぞ」
「十中八九、勘定奉行様が救援に来るでしょう。ただ、私は単なる軍師ですからね。最終的な決断をするのは千寿様と言う事ですよ」
「……まあいい。何が有ろうと、我らが命をかけて戦えば済む話だ」
美湖は呆れた目で赤尾を見た。
赤尾は世に名高い軍学者の北条新蔵門下の中でも、有数の俊才と評価されている。また、中奉行所勤めの時は切れ者として名高かったと美湖は聞いている。千寿が女奉行所を立ち上げた時に赤尾を勧誘したのもそのためだ。
それがこの様な適当な事を言い出すとは困ったものである。更に、赤尾の武芸の腕前は大したことがなく、荒事には頼りにならない。
まあ、この様な赤尾の性格を千寿は見抜いているからこそ、東慶寺に向かう一行の指揮を美湖に任せたのだろう。
「良かったのでしょうか。こんなに危険なのに皆さんに頼ってしまって」
美湖と赤尾の会話を聞いて、不安を感じてしまったのだろう。お秀が心配そうな顔で美湖に聞いた。
「気にする事はない。我々の任務である。命をかけるなど当たり前の事だ」
「これは勇ましい事ですなあ」
「黙られよ」
美湖は断固たる決意を述べたが、赤尾が混ぜっ返してしまう。これは、赤尾が軍学者として少し引いた立場で物事を観察するために、わざと斜に構えた物言いをしているのだが美湖には知る由も無い。
「はあ、ですが奉行所の皆さんには、これまであの松傘一家から守ってもらってばかりで、心苦しい限りです」
お秀が女奉行所に駆け込んできてから、大岡達の説得で引き上げるまでの間松傘一家は大勢で脅しをかけていた。江戸でも名の知れた荒くれ者である彼らと正面切って対峙するなど、一介の町人の女であるお秀には想像もつかない事なのだ。
「守ってもらうばかりとあなたは言うが、それは違う」
「え?」
「あの松傘一家に追われる覚悟で扇屋を逃げるのは、相当な勇気が無ければ叶う事ではない。剣を交えるばかりが戦いではない」
これは単なる慰めではない。このお秀の様に、悪に屈せぬ気概を持ちながら力では敵わぬ女達を守りたくて、美湖は千寿の女奉行所を作るという理念に賛同したのだ。
「城之内殿、お話し中ですが、ちょっとよろしいですかな?」
「何だ?」
「この辺りは峠になっており、道の両脇に草木が生い茂り、見通しも悪くなってます」
「そんな事は見れば分かる」
「ですので、あの一際大きな松の手前の茂みに、矢を一発放って下され」
「?」
「ささっ、深く考えずにどうぞ。それに、千寿様も私の助言は聞くようにとおっしゃってたでしょう?」
「まあいい。そこまで言うのなら、言うとおりにしよう」
そう言うが早いか、美湖は素早く腰につけた箙から矢を二本取り、素早く携えていた半弓につがえ、狙う様子も見せずに放った。
集中して狙ったようには見えないのだが、美湖の放った矢は見事赤尾が示した茂みに吸い込まれていく。
「ギャア!」
「千吉兄貴!」
茂みから男が悲鳴を上げて飛び出して来た。
千吉と呼ばれた男の肩には美湖の放った矢が突き立っている。どうやら、待ち伏せしていた扇屋の手下の様だ。
「松傘一家か!」
待ち伏せを受けた事を悟った美湖は、手にしていたもう一本の矢を即座に放った。
「やれ! やっちま、うげぇ!」
美湖達への攻撃を指示していた男は、美湖の放った矢を膝に受け、たまらず蹲った。
「いやいや、いつもながら城之内殿の弓の腕前は素晴らしいですね。まるで古の板額御前の様ですよ」
「赤尾殿、敵が潜んでいたのなら、はっきりと言ってくれねば困る」
「言っても構わないのですが、城之内殿は敵がいるのを知ったら、態度に出てしまうでしょう? そうなったら敵に感づかれて、奇襲にはならないのです」
そう言った赤尾は、口の中で千寿様なら違ったのですがと付け加えたのだが、それは誰にも聞かれる事は無かった。美湖は気性が真っすぐ過ぎるせいか、謀にはあまり向いていない。その点千寿は、得体の知れない所があると赤尾は感じている。
美湖達大奥からついてきた者達は千寿に心酔している所があるため、赤尾は決して彼女らに自分の考えを言う事はないのであるが。
「さあ、敵は多少我等より数は多いですが、所詮烏合の衆で、しかも待ち伏せを見抜かれて浮足立っています。今が打ち破る好機ですぞ」
「迎え撃て!」
美湖の命令の下、せんを始めとする女奉行所の精鋭たちがそれぞれの得物を構えた。
美湖が文字通り矢継ぎ早に矢を放ち、その援護の下にせん達は勇猛果敢に斬り込んで行く。真っ先に突き進むせんが手に持つのは、六尺の堅い樫の棒だ。太く長い六尺棒は、松傘一家のヤクザ者達が構える長ドスと比べても遜色のない凶器だ。質の悪い数打ちの長ドスは、六尺棒と打ち合った瞬間にたちまち折れてしまう。風車の如く長物を振りまわすせんを止められる者は誰もいなかった。
圧倒的な暴力を前に、これまで暴力を生業にして来た男達も型無しだ。
美湖の矢とせんの六尺棒で態勢の崩れた松傘一家に、せんに続く女奉行所の女達が押っ取り刀で襲い掛かる。
彼女らもまた、かなりの使い手だ。武家の生まれの者は刀、そうでない百姓町人の生まれ者は刃の付いてない兜割りを得物としており、決して松傘一家対して有利とは言えない。
だが、大奥時代から鍛え上げられた彼女らの武芸の腕は本物だ。松傘一家とて武闘派で鳴らした腕自慢揃いだが、それは単なる糞度胸や暴力に躊躇いが無い事によるところが大きい。統率のとれた、正式に訓練を積んだ一団を相手にした時、地金が見えてしまったのだろう。
「他愛のない事だ」
次々と打ち倒される松傘一家を見て、美湖が勝利を確信した。敵が多数と言う事で警戒していたのだが、赤尾の策が当たったためか、待ち伏せを見破ったためか、手応えなく排除できそうだ。
「おかしいですね。もっと多くてもおかしくないのですが」
「千寿様の方に多く向かったのだろう。何も不思議な事はあるまい。この程度の敵なら、千寿様なら心配もいらんだろう」
「大変! お駕籠が!」
美湖が配下の誰かが叫ぶ声で振り向くと、駕籠が十人ほどの男達に取り囲まれていた。
人相風体からして見るからに悪党であり、松傘一家なのは明白だ。
「貴様ら、駕籠から離れろ!」
「馬鹿を言うんじゃねえ! やられっぱなしじゃ面子が立たねえからな。この女だけでも旦那の所に連れ戻させてもらおうじゃねえか」
眼帯をした一際大きな体つきをした男が、やけくそ気味に叫んだ。様子からすると、この男が一味の首領格のようである。
「あの男、おそらくは松傘の矢次郎。まさかもう一段階兵を伏せていたとは気づけなかった。うかつ!」
赤尾が悔しそうな顔をする。最初に交戦した松傘一家を追い散らしたせん達が事態に気付いて戻って来るが、駕籠を一味に確保されているため手が出ない。
「本当にあの男が松傘の矢次郎なのか? 確かに、他の連中と比べて雰囲気が違うが」
「間違いありません。奴が首に大きな玉の様な物を綴って下げているでしょう。あれは焙烙玉で火を付けると炸裂するのです。その様が火の付いた
「では、手が出ないではないか」
赤尾の説明に、美湖は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。駕籠には浄円院が乗っている。もしも矢次郎に攻撃して焙烙玉が爆発したら、浄円院の怪我は免れない。勘定奉行を巻き込むために浄円院を連れてきたのであり、浄円院を戦いに巻き込んだのは赤尾の策であるが、流石に怪我をされては拙い。
「おい! その駕籠に乗っているのは!」
「せん、静かにっ」
矢次郎は、駕籠に乗っているのがお秀だと勘違いしている。お秀は笠を被ったままであり、顔を知っているはずの矢次郎も気づいていない。なので、護衛対象であるお秀は駕籠に乗っていると思い込んでいたのだ。
もしも駕籠に乗っているのがお秀ではなく、将軍生母である浄円院だったと知れてしまった場合、重要な人質とされる事がばれてしまったり、自暴自棄になって殺害を試みるかもしれない。
「では、一体どうするのです。このまま黙っていては、浄円院様を連れ去られてしまう」
「黙っていろとはいいません。いずれ機が訪れます。それを待つのです」
そう赤尾は言うのだが、美湖にはその機とやらがいつ訪れるのか分からない。じりじりと遠ざかろうとする矢次郎達を見ているとすぐにでも突撃したい焦燥に駆られる。
「来ましたぞ」
状況が変わったのは、暫く睨み合いが続いた時だった。
遠くから騎馬の集団が向かってくる。
先頭に立つのは千寿で、見事に馬を操って颯爽と駆けて来る。その後には、勘定奉行駒木根とその配下が続く。
「な、何だおめえらは?」
「貴様! 浄円院様の御駕籠に手を出すとは、何たる無礼だ! すぐ離れよ! 六浦に向かった貴様らの仲間は、皆やられたのだぞ!」
困惑する矢次郎に、駒木根が強い口調で命じた。慣れぬ遠駆けで疲労して、しかも戦いの場に臨みながらこれだけの気迫を見せる事が出来るのは、柔弱な武士が多いこの太平の世にあって、じつに立派な事である。
勘定奉行という文の世界ではあるが、流石に人の上に立つ人物と言えよう。
だが、状況が拙かった。
「浄円院さまぁ? どういうこった。まさか!」
駒木根の言葉で、矢次郎は感づいてしまった。駕籠を捲り、乗っていたのがお秀出ない事に気付いてしまった。
「どうやら、この婆は使えるらしいな。おい! よるんじゃねえぞ! さからったら……分かるな?」
この言葉を聞いて、駒木根は青くなった。すぐに自らの過ちに気付いたのである。これでもしも浄円院に何かあったら、切腹もあり得る。
「駒木根様、まだ終わってはいません。今は機を伺うべきです」
「ううむ」
千寿は落ち着いた様子で駒木根を励ます。戦いは負けだと思った方が負けなのだ。その点、手下の大半をやられ、多勢に取り囲まれていながら生き延びる道を模索する矢次郎の方が、駒木根よりも上だとも言える。流石海千山千の渡世人だ。
「アンタ、こんな婆さんを人質にして、恥ずかしくないのかい?」
自分の体を強くとらえている矢次郎に大して、浄円院は落ち着いた口調で言った。矢次郎は焙烙玉を手にしており、腰に仕込んだ火縄に導火線を近づければ矢次郎ともども木端微塵になるだろう。
それでも浄円院は全く動じていない。将軍生母といっても浄円院は、低い身分の生まれだと言われている。これまでどのようにして生きてきたのかは誰も知らないが、その肝の座り様は並の事ではない。戦う術が無くとも心では屈せぬ浄円院は、ある意味千寿を超えていると言えるかもしれない。
その姿態度は、例え生まれが低くとも好機であるとしか言いようがない。
「へっ、知るかよ。お前は俺達が逃げるまでの間、人質になってればいいんだよ」
だが、人の心が理解出来ぬ者がここにいる。もっとも、そうでないからこそ、ここまで身を落としたと言えるのだが。
この時、千寿は完全に矢次郎をこの場で切り捨てる事を決心したのだが、それは傍にいる駒木根にも、相対する矢次郎にも感じ取る事は出来なかった。ただ、千寿との付き合いが長い美湖だけが、これから血の雨が降る事を予感したのだった。
「ところで、あなたが連れ戻そうとしていたのは、浄円院様ではないのでしょう?」
「あ、それはそうだが……」
どうやら矢次郎は、戦いが予想外に不利に進んだため今の今までお秀の事を忘れていたようだ。
「私ならここにいます!」
美湖の近くに待機していたお秀が前に進み出た。突然目的の女が姿を現したため、矢次郎は、面食らっている。
「私が浄円院様の代わりになりますから、浄円院様を放してください」
「……ああ、良いだろう。こちらにこいや」
少し考えた矢次郎は、意外にもお秀の申し出を承諾した。
「おお、あの女、殊勝な心掛けだ。だが、あの男本当に約束を守るのか?」
お秀達のやり取りを聞いていた駒木根は、感心したり不安になったりと忙しい。
「静かに、時が来たらすぐに動きますよ」
「時?」
千寿の言葉に疑問を呈する駒木根だったが、それに返事は無かった。そして、そうしている間にお秀は矢次郎の近くに辿り着く。
「ははっ、この女馬鹿だぜ。おい、野郎ども、お秀を捕まえろ」
案の定と言うべきか、矢次郎は約束を守る事は無かった。浄円院を放す事無く、お秀を捕らえようと手下に指示をした。
だが、お秀はそれを予想していたかのように、矢次郎が言い終える前から行動を開始していた。一気に矢次郎の下まで走り寄り、矢次郎の腰に就いていた火縄を手で握る。
「馬鹿! 何しやがる」
思わず矢次郎は浄円院を手放し、お秀を突き飛ばした。お秀は倒れて強かに頭を打ち、動かなくなった。呼吸はしているので死んではいないが、しばらく動けないだろう。そして火縄を素手で握ったため掌には酷いやけどが出来ている。
だが、このお秀の決死の行動は無駄ではなかった。
浄円院を解放してしまい、火縄を失った矢次郎は、焙烙玉という切り札を使えなくなってしまった。その隙をついて取り囲んでいた千寿達が一気に行動を開始する。
いの一番に美湖の半弓が音を立て、浄円院を捕まえようとした矢次郎の配下が矢を首に受けて倒れた。
次にせんが片手で浄円院を抱え、もう片方の腕で六尺棒を振るい松傘一家を薙ぎ払う。
最後に千寿が駒木根達を率いて馬を駆って突入し、馬上から容赦なく切り伏せて行く。
「いたいいたいって、噛むんじゃねえこのクソ馬!」
最後に残ったのは矢次郎だ。千寿が騎乗する馬がその腕を噛み、矢次郎はその場から動けなくなり悲鳴を上げた。
馬術に習熟して人馬一体となれば、この様に馬に攻撃させる事も出来るのだ。
「さて、松傘の矢次郎ですが、駒木根様は勘定奉行兼ねて道中奉行としてどうされますか? 江戸に連れて帰れば大手柄ですが」
松傘一家は江戸でも知られた悪党である。これを一網打尽にし、その首領を捕縛したとあれば町奉行達を出し抜く功績だ。
「いや、この場で処断しよう。そして、何も無かったことにしたい」
駒木根は手柄よりも安定をとった。松傘一家退治を将軍に報告すると言う事は、凶賊が管轄地域で暴れ、あまつさえ将軍生母を襲うのを駒木根が防げなかったと白状するのと同じことだ。お役目不行き届きと言う事で手柄と相殺されるのか、それとも評価の天秤がどちらかに傾くのかは分からない。そのため、駒木根は保身にはしった。
「そうですか。それでは」
千寿は馬から降りると同時に抜刀し、狙いもつけずに矢次郎の首を切断した。馬に噛まれて動けなかったとはいえ、刑場で斬首しやすい姿勢を罪人にとらせるのとは訳が違う。恐るべき剣の妙技を間近で見せられた駒木根は、それがいつか自分に向けられるのではないかと戦慄した。
「さて、私はこのまま東慶寺に向かいます。駒木根様達は、お勤めご苦労様でした。死体の処分をお願いしても良いですか?」
「う、うむ。引き受けた。そちらはこれからの道中気をつけられよ」
駒木根の言葉に軽く頭を下げた千寿は、配下達の隊列を整えさせると速やかに東慶寺への旅路を再開させた。
それを黙って見送った駒木根は、自分が滝の様な汗を拭きだしている事に大分後になってから気付いた。
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