第四話「勘定奉行の出馬」
勘定奉行の駒木根は、吹き出す汗を拭う事も無く馬を必死で走らせていた。
駒木根は日頃あまり武芸に励んでいないため、馬術は大した腕前ではない。将軍に着任した吉宗の嗜好に合わせて最近多少稽古していたおかげで落馬するこそないのだが、手綱から手を放して汗を拭う余裕などないのである。
何故駒木根が馬を走らせているのか。
それは、町奉行の大岡が勘定所に駆け込んで来て、知らせた急報に端を発している。
大岡の知らせによると、女奉行所の連中が町人の女房の離縁を助けるため、東慶寺か六浦まで女を届けようとしている。そして、それを夫の差し向けたヤクザ者達が襲撃する恐れがあるとの事だ。
ここまでは良い。
問題なのは、その一行に将軍生母である浄円院が加わっていると言う事だ。もしも何か浄円院に危害が加えられたとしたら、責任問題になるだろう。
誰が責任を負うのか。
女奉行伊吹千寿の責任とするのが普通に思えるが、そうとばかりは言い切れない。建前上は浄円院の希望した行楽の供をしているだけなのだ。しかも、女奉行所などという前例の無い組織の設置を吉宗に許可されているのだ。吉宗は数々の改革を行っているが、掲げているのは神君家康の治世への回帰である。そのため前例主義的な所がある。にも関わらず前例とは無縁の組織を設置したのだ。伊吹千寿はかなり気に入られていると見て間違いが無い。
そうなると責めを受けるのは、襲撃の現場となった地域の責任者である。そして、江戸を離れた今は町奉行の管轄ではない。
勘定奉行は道中奉行も兼ねているため、駒木根の責任となるのである。要は、管轄した地域に凶賊を放置していた事の責めを負うのである。
そうなったら、良くてお役御免、悪ければ切腹もあり得るだろう。
それを避けるため、駒木根は配下を引き連れて行列に追いつこうと馬を走らせているのだ。配下を集めるのに時間がかかったため、保土ヶ谷を過ぎてもまだ一向に追いつけない。そこから行き先が分岐しているのだが、浄円院は金沢見物に行くと言っていたと聞いているので、金沢を目指している。
先頭を行く駒木根の耳に金属と金属が打ち合わされる音が聞こえて来る。そしてすぐに女ばかりの集団が、男達に取り囲まれ、戦っているのが見えた。
女達は約二十名、男達は四五十名はいる。倍以上の差がついており、明らかに不利である。
「も、も、者ども、かかれい! 浄円院様をお助けするのだ!」
駒木根は配下の十名の騎馬武者に檄を飛ばし、円陣を組んで駕籠を守る女達を襲うヤクザ者達の群れに突入した。
女達を攻撃する事に集中していたヤクザ者達は、闖入者に対して完全に虚を突かれた。
ある者は馬蹄にかけられ、ある者は刀の錆となっていく。例え駒木根達が加勢しようと、まだ人数差があるため、まともに防御すればまだまだヤクザ者達が優勢であっただろう。特に駒木根達はそれほど武芸に熟達しているのではなく、馬上から振るう刀も精妙さには欠けている。それに馬術の腕前も大した事がないので馬を制御しきれず突撃に勢いがない。だが、突撃する騎馬武者は、単なる一人の兵ではない。馬に迫られた側は恐怖を覚え、本来の力を発揮する事が出来なくなる。
率いる者の統率力によっては、騎馬武者の一群を相手にしても問題なく対処できるのだが、それをたかがヤクザ者に求めるのは酷だろう。一人一人は度胸千両の渡世人達も、こうなってしまっては烏合の衆に過ぎない。
「今です。反撃に移りなさい!」
下馬して配下の女達を率いていた千寿が、好機と見て反撃の狼煙を上げた。
先陣を切って進み出た千寿は、流水の様に止まることがない。すれ違いざまに白刃を振るい、次々と切り捨てられていく。その太刀筋を見切れた者は一人としておらず、一合すら切り結ぶ事が出来ず血飛沫を上げて倒れていく。
他の配下達の勢いも大したものだ。千寿程ではないが、その刀の威力は太平の世に慣れた軟弱な侍が霞んで見える。江戸でその名を知られた凶賊達があっという間に切り伏せられていく。
「逃げろ! この女ども、バケモンだ! 勝てるわけがねえ!」
形勢不利と見たヤクザ者達は、尻に帆をかけて逃走を開始した。彼らの価値観からすれば女達に負けるなど恥であろうが、最早その様な矜持も保っていられない。
「駒木根様、加勢に感謝します。おかげで助かりました」
血脂を懐紙で拭った千寿は刀を納め、丁寧に駒木根に頭を下げて礼を言った。
まだ戦の興奮が冷めず、馬を宥めるのにも苦労している駒木根からすれば、あっという間に何人も屠っておきながら平然とした千寿の立ち振る舞いは眩しい限りだ。これではどちらが旗本だか分かったものではない。
だが、ここまで違いを見せられては、嫉妬する気にもなれない。
「礼など良い。それよりも浄円院様はご無事か?」
「浄円院様ですか? それが、金沢に行くよりも先に東慶寺に挨拶に行きたいとおっしゃられまして、こちらにはいらっしゃいませんよ?」
「なに? しかし、ここに駕籠があるではないか。それとも、その中にいるのはお秀とかいう者か?」
「いいえ。なか、駕籠を開けて勘定奉行様に中をお見せしなさい」
なかと呼ばれた千寿の配下が駕籠を開けると、中には誰もいなかった。駒木根は驚愕した。女奉行一行は、駕籠を二つ連れていたと聞いている。となると、片方は浄円院が乗っており、もう片方は護衛対象のお秀が乗っているのが当たり前と駒木根は判断していた。
「この駕籠と浄円院が乗っている駕籠は、大奥の御年寄から借りてきたもので、残念ながら町人を乗せてやる事は出来ません。この駕籠は、私が休憩で乗るために持って来たものですよ」
「あ……」
駒木根は自分の考えの過ちに気付いた。この時代、武家でも町人でも様々な格というものがあり、それで髪型、服装等が規定される。
使用できる駕籠にも当然ながら格があり、大奥御年寄が使用する駕籠に、一介の町人の女が乗る事など許されない。
大奥勤務の際は中年寄だった千寿にすら乗る事は許されない物だ。今乗る事が出来るのは、女奉行という三奉行に匹敵する役職に任じられているからである。
「つまり、お秀という女は東慶寺に向かって歩いていると?」
「そうですね。笠を被っていたので大岡様には見分けがつかなかったかもしれませんが」
「それで、駕籠を二手に分ける事で松傘一家の手勢も分散させたと?」
「さあ? それはどうでしょうね」
空とぼけた返事をした千寿であったが、駒木根の予想は当たっていた。
女奉行所の勢力は、松傘一家に比べて少ない。戦いは数である。多勢に無勢というのはよろしくない。いくら千寿達が精鋭揃いだとしてもだ。
そこで千寿達が考えたのは、兵力差を補う事であった。
先ず、二手に分かれる事によって松傘一家も二手に分かれさせた。だが、これだけでは千寿達も戦力を分けているため状況は変わらない。
そこで、更にもう一つ策を弄した。浄円院を一向に巻き込む事で、強制的に増援を呼び寄せるのである。この策の要点は、勘定奉行に相談するのではなくあくまで自主的に出陣させる事だ。もしも相談したら反対されるであろうし、そうなったら反対したという言い訳が成り立つので、勘定奉行が配下を連れて出陣する可能性が低くなる。つまり、急に情報を与える事で駒木根達に考える余裕を失わせるのである。
策は当たり、敵の戦力を半減させながら、駒木根達増援を得る事が出来た。しかも、敵の意表を突く絶好の機会だった。おかげで被害を受ける事無く、松傘一家を撃退する事が出来た。
涼しい顔をしているが、駒木根も大岡も完全に千寿に手玉に取られている。恐るべき女だ。
「話は変わりますが、私は浄円院が気になるで東慶寺に向かおうと思います。……浄円院様が今の様な不逞の輩に襲われていなければ良いのですが。それでは御機嫌よう」
「なっ?」
千寿は言い終えると華麗に騎乗すると、馬に鞭を入れて東慶寺に向かって去って行った。
話は変わるなどとぬけぬけと言っているが、本題は全く変わっていない。要は、このままだと松傘一家の残りに浄円院が襲われる事になるが、もしも何かあったら駒木根の責任問題になるのではないかと脅しているのだ。
こうなっては如何ともし難い。結局、駒木根達も千寿の後を追う事になった。
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