第二章「お墨付き炎上」
第一話「評判所の会合」
江戸城和田倉門外竜の口伝奏屋敷の一部で、定例の評定が開かれていた。
評定所は、寺社、町、勘定の三奉行が集まり、相互にまたがる事件などを裁くのであるが、今回は違っていた。今回からいつもの三奉行だけではなく、女奉行も参加する事になったのだ。
これは何も、三奉行達が女奉行の価値を認めているとかの理由ではない。
大身旗本の処断や、ヤクザ者と組んだ大店の成敗など、その活躍ぶりは江戸の町人達の話題に上ってはいるが、その様な理由で古い価値観の男達が認めるなどまずあり得ない。
理由はいたって簡単で、女奉行所は何をしでかすか分からないので、それならば自分達の手元に引き入れた方が制御し易いとの判断である。
女奉行所は、女人の保護のためには途轍もない権限を有している。そのための予算や特別の手勢は与えられていないのだが、奉行の伊吹千寿を筆頭に剛の者が揃っている。その実力は江戸でも名を馳せた無頼の集団である松傘一家を壊滅させたほどだ。
そのうえ女奉行所は女人救済の際に成敗した者から、財産を没収する権限もある。そのために金銭的な事も自弁可能だ。
場合によっては言い掛かりをつけた相手を成敗したうえその財産を没収し、莫大な財産を築く事すら可能だ。それだけの権限と実力が彼女らにはある。
もっとも、今までその様な正義にもとる行いはしていないのであるが。
だが、それだけの力を持つ者を野放しにするのも危険だと三奉行達は考えている。
「女奉行の伊吹千寿です。御政道の役柄にはまだ不慣れですので、皆様にはご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
評定が始まり、千寿は丁寧に頭を下げて挨拶をした。強大な権限を鼻にかける事無く、実に弁えた態度に見える。
千寿の事を直接知らない寺社奉行達は、安心した様子で挨拶を返した。どの様な鬼女の類が現れるのかと警戒していたのである。女奉行がどれだけ恐ろしいのかは知らないが、彼女に比べたら大奥の御年寄の方が何百倍も恐ろしい。
それでも町奉行の大岡越前と稲生下野守や、勘定奉行の駒木根肥後守は渋い顔だ。
彼らは千寿の穏やかな態度の下に、どれだけ激しく大胆な性根を隠し持っているのかを知っている。女奉行所に難しい案件が持ち込まれているのを、腕前拝見としゃれ込んでいたら彼らは、どういう訳か巻き込まれてしまい、協力せねば自分達に累が及ぶ様にされてしまったのだ。あの時どれだけ肝を冷やしたか、今でも覚えている。
もっとも、大岡は上手く
「ははは、伊吹殿、分からない事は何でも聞いて下され
寺社奉行の土井伊代守は、まだ何も知らないため、気安い事を言った。知らぬが仏とはこの様な事を言うのであろう。
「では、遠慮なくお尋ねしますが、是非吉原を見聞して見たいのです」
「吉原ですと?」
女の口から吉原に行きたいなどと言われると奇妙に聞こえるが、女奉行の役目を考えれば当然の事である。女人保護を考えるのなら、遊郭の現状を調査するのは避けて通れぬことである。
これには両町奉行の顔が青くなる。
吉原は町奉行の管轄である。もしも女奉行所がいずれかの遊郭に不正があるとして成敗したら、それを見過ごしていた町奉行の面子は丸つぶれである。
「当然の事ですが、私は吉原に行ったことがありません。なのでよく知っている方々にご教授願えればと」
「ぬう」
大岡と稲生は困った。下手に連れて行った結果、千寿が何かの不正を発見してしまった場合何が起きるか分かったものではない。何しろ、千寿はその穏やかな振る舞いとは裏腹に、血を流す事を厭わないのだ。
「しかしですな、今月は我が北町奉行所が月番ですが、私はあまり吉原に詳しくありませんぞ。ここは大岡殿が」
「いやいや、何を仰せになる。拙者とて吉原の事はよく知らぬぞ」
吉原は幕府公認の色街ではあるが、風紀の乱れる原因として寛容な扱いを受けていた訳ではない。そのため、大名や旗本の出入り禁止のお達しが出される事も度々だ。もちろんその様なものは建前であり、店を借り切って豪遊する大名もいる事はいる。だが、律儀に女遊びをしない者もそれなりに入るのである。
大岡や稲生もその類いの堅物で、客という視点での吉原には詳しくない。町奉行として部下から報告を受けているのだが、それをもって詳しいとはいえぬ。
「まあ良いでしょう。せっかくの伊吹殿の頼みを断るわけにもいきません。ご案内しましょう」
稲生は結局千寿の頼みを受けることにした。例え断ったとしても、千寿以下の女奉行所の者達は調査に行くだろう。そうなった場合制御が効かない。
「ありがとうございます。では、早速今日にでもお願いします」
「きょ、今日ですと? まあ分かりました。しかし、夕刻まで仕事がありますので、案内はそれ以降にさせてもらう」
町奉行は、朝は登城して城内で職務に当たり、それが済んだ後も町奉行所で様々な案件を決済したり指導しなくてはならない。そのため、夕刻まで仕事をしているというのは本当の事だ。だが、その間に遊郭に警告して準備を整えさせようというのも本当の事である。
「やあ、話はまとまったようですな。それでは稲生殿、よろしく頼みましたぞ」
自分に関係が無いと思っている土井は、呑気な口調で言った。
「あと、明日以降ですが深川や根津も見たいと思いますので、出来ればよろしくお願いします」
この千寿の言葉に全員の顔色が変わる。
吉原は幕府公認であるため、町奉行所の指導がされている。そのため、最低限の規則は守られているはずだ。たとえ色街の本質に非道さが混じっているとしてもだ。
だが、その他の私娼窟、岡場所は違う。定期的に町奉行所が手入れをしているのだが、余りにも数が多すぎて追いつかないし、本当に根絶させてしまっては窮屈過ぎる世の中になってしまう。それに、それで生計を立てている者もいるのだ。
そしてその様な岡場所は、吉原に比べると当然女の扱いが悪い所が多い。
更には岡場所には寺社の近くに設けられる事も多く、町奉行所の目が行き届かない場所も存在する。その様な所には女郎を買いに来る女犯僧も良く見られる者だ。これ等がもしも女奉行所が摘発したとしたら、寺社奉行の失態となる。それに色を売る事を生業とする比丘尼も大勢いる。
町奉行所と寺社奉行所には、これらの様な女奉行所に成敗されそうな女郎屋が多く存在するが、勘定奉行の管轄にももちろん存在する。勘定奉行が兼ねている道中奉行の管轄地域には多くの旅籠屋が存在するが、そこには飯盛女などと呼ばれる遊女がいる。旅籠屋によっては儲けを優先して非道な扱いをしている事もあるだろう。
全ての奉行達が速やかに証拠を隠蔽せねばと決意した時、この日の評定は散開になった。
平静なのは千寿だけであった。
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