第一話「女奉行所の会合」

 江戸の治安を守る町奉行が、南北に分かれているという事はよく知られている。そして、この南北町奉行が江戸の町を南北に分けて管轄しているのではなく、月ごとに交代していると言う事もだ。


 そして、一時期南町奉行と北町奉行に加え、中町奉行があった事も知られている。この中町奉行は、南北の町奉行を補佐するために元禄の頃に設置されたのだが、結局吉宗が将軍に就任してから暫くして廃止されてしまった。


 やはり、屋上屋を架す様な存在であり、必要性に疑問を持たれたからだろう。


 そして、その廃止された中町奉行の跡地に、新たな奉行所が設置されていた。


 これを、女奉行所という。


 この女奉行所は、これまでその存在を周囲に知られていなかった。江戸の町人衆はともかく、城中で働く武士達にもだ。


 一応職務内容が重なると思われる町奉行所に勤める与力たちは、その存在を懸念していた。火付盗賊改方がかつて新設された時の様に、自分達の邪魔になる可能性を危惧したのだ。だが、実際に設置された女奉行所の実情を見て、特に警戒する必要は無いと判断していた。


 女奉行所とはいってもそこで働く者を女ばかりで構成する必要はあるまいに、大奥を解雇された女ばかりが与力や同心の代わりとして勤務していたのだ。中町奉行所の廃止にともなって無役となっていた男の与力や同心も一部加わっていたのだが、比率からするとごくわずかである。


 これを警戒する者は先ずいないだろう。


 これは、寺社奉行や目付も同様であった。


 だが、小納戸頭取小松修理亮の悪行を成敗した事により、その名はうなぎ登りである。


 小松修理亮の屋敷での捕り物は昨晩の事だというのに、どこで聞きつけたのか既に瓦版でその活躍が広まっている。


 その噂の渦中である女奉行所のある一室には、数人の男女が集まっていた。


 数人の男女とは言っても、男は一人だけであるのだが。


 上座に座るのは、この女奉行所の主である伊吹千寿いぶきちずその人である。


 男物の継裃を着用し、威儀を正して座るその姿は、女人ながらにして高位の旗本のようである。そして、武人としての視点で見れば全く隙が見当たらない。もしも不用意に彼女に襲い掛かる不逞の輩がいたとしても、たちどころに返り討ちに会うだろう。


「昨夜の働き、まことにご苦労。改めて感謝します」

千寿の発した涼やかな言葉に、一同が頭を下げる。


「ははっ。初の出陣でありましたが、これまでの調練通り上手く事が運びました。これも、お奉行様のご指導の賜物でございます」


 千寿の言葉を受けて返答したのは、千寿の配下の中でも最前列に並んでいる男装束の女だった。


 彼女の名は城之内美湖じょうのうちびこと言い、女奉行所に所属する与力格、同心格の者達を束ねている。彼女もまた千寿と同様にその佇まいに隙が無いのだが、優雅さも兼ね備える千寿と比べると研ぎ澄まされた槍の穂先か鏃の先端の様な印象を与えている。


 彼女は千寿の実家である伊吹家と関係の深い旗本の生まれであり、幼い頃から千寿とともに武芸の修業を積んだ仲である。


「せんの働きは特に見事でした。あなたの活躍が無ければ、一味を取り逃がしたかもしれません」


「はい! お役に立てて光栄です!」


 千寿に名指しで褒められたのは、江沢せんという六尺を超える長身の女だ。彼女は百姓の出でありながら幼い頃から武芸の道場に通い、その長身に秘めた剛力は里に現れた熊を仕留めた程である。


 昨晩、小松修理亮の屋敷に突入した時は、せんの類い稀なる力で大槌を振るい、屋敷の門を一撃のもとに粉砕したのである。おかげで迅速に踏み込むことに成功し、結果的に逃亡を防ぐ事が出来たのである。


 元の身分が低いため、女奉行所では同心格となっているが、その腕前は有数のものであり、昨晩の功績を称えるためにこの場に参加しているのだ。


「そして赤尾よ、お前もよくぞ小松の悪行を掴んでくれました。お前の情報が無ければ小松達を成敗する事は敵いませんでした。その功績は見事なものです」


 最後に声をかけられたのは、この部屋にいる者の中では一点の赤尾陣内あかおじんないである。


 彼は、北条流の軍学を修めており、その智謀は女奉行所でも随一である。また、彼は以前町奉行所で与力として勤めており、各種法度や事件の調査要領に詳しい。彼の力が無ければ、小松修理亮の悪行を掴む事は不可能だっただろう。


 なお、彼は五尺足らずの体躯であり、一同の中では一番弱そうである。


「昨晩の事件は江戸中に知れ渡っており、町民は皆、お奉行の功績を称えております。この様に瓦版まで、耳の早い事ですなあ」


 一枚の瓦版を差し出しながら赤尾が言った。そこには、千寿が小松達を成敗する姿が描かれている。不思議な事に、そこに描かれた千寿の姿は、その存在を知られていなかったにも関わらず特徴をよく捉えたものであった。


 とは言っても、実は不思議でも何でもない。すっとぼけているが、実は赤尾がこれを描かせたのである。


 女奉行所はその存在が実に不安定だ。権限こそ絶大であるが、予算も乏しく、将軍の気まぐれで即廃止にすらなりかねない。そのため、その名を高める事が必要だったのだ。


 こうした世論の影響を考える事もまた、軍学である。軍学とは何も兵を動かす事に限らないのだ。特に、現将軍の吉宗は目安箱を設置して民の声を直接聞いている。そのため、民からの評判が上がる事は女奉行所の立場を安定させるのだ。


「それで、没収した金品の配分はどうなってますか?」


「それについてはご指示通り、我らの当座の活動資金の他は被害に遭った者達の家に届けています。今、ちょうどその作業をしている最中です」


 女奉行所は、その任務において裁きの対象となった不逞の輩の財産を没収する権限を有している。これは本来出鱈目ともいうべき恐るべき権限だ。幕府としては女奉行所などという胡乱な組織に予算を割きたくなかったため、自分達で食い扶持は稼げという意味と、どうせ女ばかりの組織には財産を募集する強制力など有り得ないだろうと高を括った事により、この様な権限が与えられたのだ。


 これを活用すれば、役得として莫大な財産を築くことが出来るだろう。強制力さえあれば、些細な瑕疵を口実に財産を没収できるからだ。そして、奉行である伊吹千寿をはじめとして男に劣らぬ武芸者が揃っている。


 金持ちを狙って何回か財産を没収してやれば相当数の銭が山となって積みあがるだろうし、その内標的にされる事を恐れた者達が目溢しを期待して賄賂を贈って来るようになるだろう。


 だが、それは千寿の望むところではない。そんな事をしていてはいずれ組織ごと取り潰されるだろうし、元よりその様な欲得で女奉行所の設置を願ったのではないのだ。


「我らの名が高りますれば、訴え出てくる者も増えて来るでしょうな」


 女奉行所が設置されてから幾分か経つが、昨晩の小松修理亮達を成敗したのが初の任務だ。これは、女を保護するべき事件が無かったからではない。女奉行所の存在が知られておらず、また、知っていたとて頼りにならないと思われていたのだ。


 だが、その評価は昨晩の事件で変わったはずだ。これからは女奉行所を頼って来る者が増えるだろう。


 小松修理亮の悪行は、女奉行所に訴えられた事で明るみになったのではない。女奉行所には武士、町人、百姓等の様々な階層出身の者が所属している。各々が伝手を辿って事件を突き止めたのだ。特にこの調査で活躍したのは、元々町奉行所で勤務して経験豊富な赤尾であったのだ。


「これから忙しくなるでしょう。……はて、表が騒がしいようですが」


「私、様子を見てきます!」


 せんが立ち上がると奉行所の門の方へと駆けて行った。元気なのは良いが、いつも大声で騒がしいのが玉に瑕だ。これはせんの生来の性格であり、大奥での奉公を経ても変わる事がなかった。


「大変です。外にヤクザ者が押しかけています! それにこの人が……」


 すぐに戻って来たせんが連れてきたのは、若い町人の女であった。


 早速事件の到来である。


 千寿達は即座に、祝勝気分から一気に心を戦場気分へと切り替えた。

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