女奉行 伊吹千寿

大澤伝兵衛

第一章「東慶寺決死行」

プロローグ

 煌々と江戸の町を照らしていた月が雲に隠れ、俄かに辺りが闇に包まれた。だが、ある武家屋敷の中は行燈あんどんが多数供えられ、部屋は昼間の如く明るい。


 時の将軍、徳川吉宗の倹約令に真っ向から唾を吐きかけるような行為だ。本来ならきついお咎めを受けてもおかしくはない。


 だが、この屋敷の主たる中年の武士は、そんな事を恐れる様子も無く酒宴を繰り広げている。


 彼と席を同じくするのは、皆身なりの良い武士ばかりだ。質素倹約が奨励されている当世の武士達であるが、その実贅沢など元より出来ない者が殆どである。この席にいる者の地位が伺えるというものだ。


「小松殿、もうそろそろ頃合いなのでは?」


「おや? 黒木殿、まだ夜は始まったばかりですぞ? もう待ちきれませぬか?」


「いやいや、黒木殿の言う事もごもっともな事。その様に申される望月殿だって本心では同じなのでござろう? この助平め」


「これは一本取られましたな。ふははっ」


 この屋敷の主らしい小松と呼ばれた武士の言葉に、一同はどっと笑った。そして小松が手を叩くと襖が開き若い娘達が入って来る。髪型からすると彼女らは武家の娘ばかりで、皆見目麗しい容貌をしている。


 だが、彼女らの様な武家の若い娘が、この様な時間に家を出て他の屋敷に赴くなど、普通は有り得る事ではない。いや、町人の娘だってそうだ。


「さあさあ皆の衆、お好きな娘を選んでくだされ。こ奴らが訴え出る事など有り得ぬ事ですからな。ご存分にお楽しみくだされ」


 小松が何やら両手の指で下品な仕草をしながら言った。それを言われた武士達の顔には、好色そうな笑みが浮かんでいる。武士としてあるまじき態度である。


 将軍吉宗はご時世にあって、武芸を奨励するというある意味時代錯誤な政策をすすめている。だが、連中の態度を見れば、少しは心身を鍛えさせたくなる気持ちも分かるというものだ。


「しかし小松殿、本当にこの件が露見する事は有り得ぬのですかな?」


「ああ、黒木殿は今夜が初めてでしたな。何の問題も無い。こ奴らの親は揃いもそろって貧乏御家人ばかり。小普請金こぶしんきんを肩代わりしてやってるのだ」


 太平の世にあって、俗に「旗本八万騎」と呼ばれる兵力は過剰な軍事力と言えよう。武官としてではなく文官として幕府のお役に就く者も多いが、無役の者も大勢いる。そして、その無役の者達は小普請という組織に属する事になり、特に役目を負わない代わりに禄高に応じた金を納めるのが規則だ。


 だが、微禄の御家人達はかつかつの生活だ。小普請金を自分の禄から捻出するのは厳しい。そのため傘張りなどの内職で何とか補っているが、それだって雀の涙の様なものだ。また、無役と言う事はとりたてて見るべき能力がないという事でもある。彼らにとって小普請金は非常に重荷となってのしかかった。


 小松はそれに目をつけた。小普請金を肩代わりする代わりに、娘を差し出せというのだ。


 しかも、その娘達を他の羽振りが良い武士達に貸し与える事により、肩代わりした小普請金以上の金品を得ている。


 旗本を取り締まるべき目付に対してもすでに不幸な娘を抱かせているため、この様な鬼畜の所業をしていたとしてもそれを裁く者など誰もいないのである。町奉行は管轄が違うので心配する必要は無い。


 この様な悪魔の知恵により、小松は財産と地位を築いてきたのである。


「金を用意できぬ無能な親のもとに生まれた事がだったと恨むのだな。いや、嫁入り前に男に身を任せるのは親かな?」


「いやいや、逆に親孝行でござろう? はっはっは」


 下らぬ冗談を飛ばす仲間を見て、この先もこの副業が上手く行く事を小松は確信した。


「それではどうぞお楽しみを……なんだ!」


 突如門の方から響いて来た轟音に、小松をはじめとする武士達は驚きの表情を浮かべた。


 慌てて縁側に出ると、庭には黒い影が十ばかり並んでいた。恐らく彼らが先程の音の主に違いない。


「賊どもめが! この屋敷を誰の屋敷と心得ている! 小納戸頭取こなんどとうどり小松修理亮こまつしゅりのすけの屋敷であるぞ! この狼藉者どもめ!」


 武士としてあるまじき振る舞いをする者と言えど、流石は上に立つことに慣れた男だ。襲撃者相手にも堂々と怒鳴りつける。


「黙れ! 上様の傍に仕える身でありながら、何の罪もない娘を汚し、金品をせしめるその行為、断じて許せぬ!」


「な? 女だと?」


 驚くべきことに、小松の屋敷を襲撃した一党の首領は女であった。てっきり門を破棄して押し入ったのは盗賊団辺りだと目星をつけていた小松は混乱に陥る。


 しかも、闇に眼が慣れてきてよく見て見れば、そのほとんどが女だ。男は二人しかいない。一体何者であろうか。


「き、貴様ら、何奴じゃ?」


「女奉行所奉行、伊吹千寿いぶきちずである。その方らの乱行を聞いて召し獲りに参った。まだ良心が残っているのなら、神妙に縛につけ」


「女奉行だと? そんなもの、聞いた事もないわ!」


「いや待て、そう言えば……」


 聞きなれない役職に武士達は騒然となるが、将軍の近くに仕える小松には聞き覚えがあった。


「確か、女に関して保護する役職だとか。その時は何の冗談なのかと思ったが」


「その通り、貴様らの行いを聞きつけ、こうして参ったのだ」


「ふん、馬鹿馬鹿しい。だからといって我が屋敷内に踏み込む権限が何処にある。せいぜい町中夜鷹でも取り締まっているがいい」


 江戸の中において取り締まりには管轄がある。犯罪の取り締まりに関しては町奉行が有名だが、彼らは例え江戸の範囲内においても、寺社領内や武家を取り締まる事は出来ない。それらは寺社奉行や目付の管轄だからだ。そして、幕府が出来てから既に百年以上が経過しており、女奉行などと言うものが入り込む余地は本来無いのだ。


「それがそうでもないのですよ。どうぞ、女奉行に関するお触れの写しです」


 伊吹の配下の男が近づいてきて、一枚の紙を小松に差し出した。


「? な、何だこの内容は」


 そこには次の様に書かれていた。


一つ 女奉行所を設置し広く女を保護するものとする


一つ 女奉行所は女の保護に関して一切の権限を持つものとする


一つ この権限は他のあらゆる役目に優越するものとする


一つ 保護において妨害する者の生殺与奪および財産没収の権限をもつものとする


「なんだこの条文は? これまで気にもしていなかったが、こんな事がかかれていたのか。 出鱈目だ。こんな事が許されるものか!」


 悪党の小松の感想なのであるが一理ある。権限だけなら将軍以外のあらゆる役職を超越していると言えよう。


 こんな無茶な法令が通ったのには事情がある。


 将軍吉宗は幕府の改革を進めているのだが、それは大奥にも及んだ。大奥は多大な出費を抑えるため、人員の削減に及んだのだ。


 伝えられるそのやり方が面白い。


 吉宗は大奥の中でも美女を五十人集めよと申し付けた。周囲の者はこれを側室を選ぼうとしていると考えたのだが、集められた美女に対して吉宗が告げたのは、意外にも解雇であった。


 その理由は、美女ならば大奥を去ってもすぐに嫁ぎ先などを見つけられるので、困らないだろうとの事である。


 そしてこの時、ある約定が裏で結ばれた。


 大奥を去る者の中には伊吹千寿もいたのだが、この政策に対して大奥に協力させる代わりに女奉行所の設置を願ったのである。そして自らがその奉行所で奉行を務めようというのだ。


 この前例が無い願いが実現したのは、ひとえに吉宗の意向があったためであるが、他の幕閣達は例え権限があろうと人や金が無ければ制度上どれだけ権限があろうと意味が無いと考えていたためである。


 当然の話だ。例えば町奉行所が江戸中の治安を守る事が出来るのも、単に権限が与えられているからではなく、必要な予算が与えられ、数々の与力や同心といった人員がいるからだ。


 要は金も人も与えなければ置物と変わらないのである。


 だが、驚くべき事に伊吹は共に解雇された大奥の女の中から同志をつどり、町奉行勤務経験者も配下として集めてしまったのである。恐るべき政治力であった。


 かくして結成された女奉行所が最初の事件として選んだのが、小松修理亮の屋敷で行われているという狼藉なのであった。


「なにが女奉行所だ! 斬れ! 斬って捨てい!」


 小松は刀を抜き、仲間たちにもそれを促した。例え権限があろうと始末してしまえば何ほどのものではない。それに、女ばかりに何が出来よう。伊吹が連れている配下の中に、刀を差した男は一人しかいない。権謀術数渦巻く大奥で磨いたため多少なりとも策謀に自信があるのかもしれないが、最終的に物を言うのは暴力なのだ。だが、


「……! 馬鹿な……」


 白刃を振り上げた小松は、それを振り下ろそうとしても出来ない事に気付いた。振り下ろすべき腕が伊吹に切り飛ばされていたのである。


 更に仲間たちも、女奉行所の女たちが持つ刺又や袖絡で捕縛されてしまう。女とは思えぬ恐るべき技量であった。逆に、男は直接の捕り物に参加していない。伊吹に対して流石新当流ですなどと褒め称えているだけだ。これではただの太鼓持ちである。


 気が遠くなるのを感じながら、小松は相手の実力を完全に見誤ったことを悔やんだ。


 悔やんだところでもう遅いのだが。




 こうして、女奉行所初の捕り物は幕を閉じた。


 小松とその仲間たちは皆切腹に追い込まれ、家禄も大規模に減らされる事になる。


 そして、単なる名目上のものと思われていた女奉行所は不良旗本を一網打尽にする事で、大きく名を上げることになった。


 だが、この事件は単なる始まりでしかなかったのである。

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