信念と年明け
年が明け、僕たち『家族』は今年初めての挨拶を言い合うために食堂に降りた。
「おはよう、みんな」
僕が言うと、エミリアは頷いて挨拶する。
「明けましておめでとう」
二人の声が混ざり合って食堂に響いた。エミリアとミアが顔を見合わせ、五人の心からの笑い声が食堂を満たした。
「今年も良い年でありますように」
フィンとアルベルトは祈るように両手を組んでそう言った。一通り挨拶が済むと、日もまだ昇らぬ食堂でアルベルトは机に置いてあった新聞を手に取り、一面記事を読み上げたのだった。
「煙晴れ、覗く青空……だって。あとで見に行こうぜ」
「へえ……空、晴れてるんだ」
フィンがそう意外そうに言うと、ミアが「去年の年始以来かぁ」と懐かしげに言った。皆が窓際に立って空を眺めると、雲間に星空が見えた。
「去年の年始はまだフィンがいなかったんだっけ」
アルベルトがそう言うと、フィンが頷いて言った。
「俺は去年の三月にこの街に来たからな」
「私たち四人は五年前から一緒だけど、フィンもその頃からいたみたいに馴染んできたね」
エミリアが言うと、ミアが笑いながら言う。
「それを私たちに染まったって言うのよ」
「そういえば晴れてるって言ってもまだ残ってるな」
フィンがそう言って目をこらす。アルベルトが新聞に目線を落とし、「なるほど」と言って講釈を垂れた。
「今は雲が残ってるけど、日が昇る頃には綺麗に晴れるんだってさ」
「今日の日の出っていつだっけ?」
アルベルトが新聞をたたもうとしたときにエミリアが尋ね、アルベルトはもう一度新聞を見た。
「えーっと……八時十七分だってさ」
僕は時計を見た。針は六時五十二分を指している。
「じゃああと一時間二十五分だね」
そう言ったあと、僕は代わり映えのしない配給コンテナを開けて新しくソーセージの缶詰が加わった配給食を皆に配り始めた。エミリアはパンの入った紙袋の封紙を剥がしてパンを取り出してトースターに入れると、トースターの下にある燃料入れに炭を入れてからマッチを擦る。トースターの機械仕掛けはかちかちと音を立てながらパンを熱する。僕は配給コンテナに入っていたインスタントコーヒーを皆のカップに取り分け、薬缶に水を入れて湯を沸かした。湯が沸いてパンが焼ける。そしてコーヒーを淹れパンにバターを塗ると部屋の中には香ばしい匂いがあふれる。ソーセージがこんがり焼けたとき、僕たちのお腹がぐうと鳴った。
「みんな新年の目標とかあるの?」
エミリアが聞くと、アルベルトが指を二本揃えて手を挙げた。
「僕は毎朝の新聞を一日も欠かさず読むことかな」
「あ、去年は欠かしてたんだ?」
フィンがそう揚げ足を取ると、アルベルトは首を振った。
「違う違う、去年も欠かしてはないよ」
「なあんだ」
フィンが残念そうに言う。
「なんだってなんだよ」
アルベルトがそう言うと、皆が爆笑した。
「あーはい!じゃあ、あたしはそれよりも前に新聞を取り込むよ」
ミアがそう言ってニコリと笑う。
「じゃあ任せたよ」
アルベルトはそう言ってミアと握手した。
「俺は今年中にレオンに追いつけるような工員見習いになる」
フィンがそう言ってから「なってやるよ」と言って笑った。「見習いも見習い、新人だもんね」とエミリアが言うと、フィンは「まあ頑張るさ」と胸を張った。
「じゃあ僕は追いつかれないように今年中に正規工員になるよ。……『なれるかどうか』じゃなくて『なる』んだ」
僕が宣言すると、エミリアは「じゃあ私も正規工員になれるように頑張る」と言った。
「一緒に頑張ろうね」
僕が言うと、エミリアは「うん」と応じてうなずいた。それからしばらくすると、会話はとりとめもないものになった。皆と楽しく話し合っているうちに朝食の時間は終わり、気づけば時計の針はもう七時半を過ぎている。空が白み始めてきたのを見て、僕たちは玄関の扉を開けて東へ向かう通りの歩道に立つ。そして僕たちは寒さに震えながら、新しい朝日が
「どうなっても、僕たちは一緒だ」
そう感じたのは、まさにその時だ。そして僕たちは何も言わないまま固く手を取り合った。
数日すると、またいつものように空は煤煙に覆われ僕たちは仕事場に戻った。最近なんとなく疲れやすいような気がする。そしてある日、僕の目の前に突然暗闇が広がった。
「レオン、大丈夫か! ……レオン!」
どこか遠くでダニエルさんの呼ぶ声が聞こえる。僕は目を開けようとまぶたに力を入れた。目が開いたような感覚はあったが、目の前はまだ暗いままだ。鼻の奥が詰まったような感じがする。声を上げようにも感覚はひどく不鮮明で、今自分が出している声が僕の頭でだけ聞こえているのか、それとも口から発せられているのかすらわからない。
「レオン、レオン、しっかりして!」
さっきよりさらに遠くで、エミリアの声が聞こえる。身体が揺さぶられているようだが、よく分からない。
「レオンがやばい、医務室へ運べるか!?」
「ちょっと待て、何があったんだ?」
ダニエルさんと運搬車の運転手が話しているのが聞こえる。僕がなんとか目をこじ開けると、視界にエミリアの顔が現れた。そして視界は少し薄暗い。
「皆さん、お騒がせしてすみません」
謝りながら僕は立ち上がり、揺らぐ地面を踏みしめて一歩を踏み出した。ひどく身体が重いが、なんとか歩ける。
「僕は大丈夫です」
そう言った直後、僕はふたたび強い目眩に襲われた。立っていられないようなその混濁とともに視界がかき混ぜるように
「すぐに担架を持ってくる。誰か一緒に来てくれ」
ダニエルさんはそう言って足音とともに走り去っていく。僕はただただ状況が理解できず息を吸おうとしたが何かを吸い込み、咳き込んだ。
「ヴォウッ」
そんな声にもならぬ声を吐きながら、僕の身体は震えはじめた。寒い。何かがおかしい。もしかして僕が吐いたのは血か?なぜ?伝染病か?他の街でも出ていないのに?何があった?
「上げるぞ、ちゃんと持ったな?」
身体が持ち上がる感覚があって、僕は少し不安定な何かの上に乗った。身体が激しく振られる感覚がある。恐怖が身体を支配し、震えは強くなった。
「医務室はそこの角を左だ。取り急ぎ貧血らしいことは伝えてある」
ダニエルさんはそう言ってから僕に呼びかけた。
「レオン、俺はお前を信じてる。無理はしなくていいから、ゆっくり休んでくれ」
「せーの」
身体が回転する感覚があって、暫くしてから動いている感覚が消えた。
「なっ……貧血って聞いたんですけど……」
「血液検査、それからレントゲンの準備!」
看護師らしき声がそう言い、それに女医の声が続く。
「血液検査……はい」
袖を捲られる感じがした。
「動かないでくださいね、採血します」
看護師がそう言うと、肘の内側にチクリと何かが刺さる感覚があった。そして針が抜き取られる感覚。その辺りで僕の意識は闇の中に落ちた。
先に帰宅したフィンとアルベルトがお見舞いの品を探して街を駆けずり回り、ミアがレオンの着替えを用意している間、エミリアはいても立ってもいられず一人で医務室のレオンのもとを尋ねた。レオンのベッドの周りにはカーテンが引かれている。医務室に使用中のベッドはその一台しかない。エミリアにはレオンのベッドだと一目で分かった。
「レオンは大丈夫ですか?」
女医に尋ねる。部屋の入り口にある机に向かっていた彼女は椅子を回してエミリアの方へと向き直った。
「どちら様ですか?」
「……レオンの家族です。エミリアといいます」
エミリアがそう言うと、女医は納得した表情を浮かべ、エミリアに机のそばにある椅子を勧めた。エミリアは会釈してそこに座る。看護師達は示し合わせたように席を外した。女医はレオンの眠るベッドの方にチラリと目をやり、カルテを手元でめくった。
「この子、寝言でずっとあなたを呼んでいたわ」
そうですか、と言おうとして口を突いて出たのは、問い詰めるような言葉だった。
「レオンは病気なんですか?」
女医は目を伏せて頷いた。
「急性白血病ね。この街では時々なる子がいるとは聞いてたけど……」
「治るんですか?」
エミリアは膝に手を突き、身を乗り出して尋ねる。女医は頭を抱えて考え込んだ。カルテを見て、机の上にあった「癌治療大全」と書かれた専門書を手に取り、パラパラとめくる。そして本を閉じて机に置き、ため息をついてから首を横に振った。
「この街、いやショーベル中の医者を当たっても、少なくともまっとうな医者なら……治る、或いは治療でなんとかなるなんて無責任なことは言わないし言えない。そんなことを言うのは医者じゃなくて詐欺師ね」
「そんな……嘘よね、どうして……?」
あまりの衝撃に手を握りしめ、震える声で尋ねる。
「レントゲン写真を撮ったけど、すでに肝臓や肺、腎臓にまで病変が広がってる。世界がこんなじゃなかったらまだ打つ手はあったかもしれないけど、今使える医学技術ではどうしようもない。どこか強い放射線が発せられている場所にでも行った……とすれば説明はつくけど。何か心当たりはある?」
エミリアは上を向いて少し考えを巡らせたが、何も思い当たるものはなかった。
「ありませんね……」
「そもそも放射線が強い場所って言ってもこの街じゃあ……立ち入り禁止区域くらいしかありそうな場所がないのよね」
重苦しい沈黙が流れた。レオンの穏やかな寝息がそっと鼓膜を揺らす。こうして穏やかな寝息を立てている間にも彼は死と戦っているのだと考えると、何もできない自分がますます無力に感じられた。先ほどまでは普通に立って、普通に会話できていたのに。
……レオンは本当に今までなんともなかったのだろうか?
そんなことを考えた。彼は無理をして何事もないように振る舞っていただけかもしれない。こんなことになるなんて分からないまま、一人で耐えていたのかもしれない。彼はどんなに孤独だったろうか。そう考えると後悔が胸を突き刺すようだった。
しばらくして、女医が思い出したように言った。
「あ、そうそう」
その言葉で絡み合った思考は途切れ、はっと現実に立ち返る。
「治療の手立てが全くないのは変わらないけど、痛み止め程度なら出すことはできる。まあ起きて飲めるかどうかは別問題だけどね……」
女医はカルテをめくりながら言った。
「なんで……どういうことですか」
その無責任にも聞こえる言葉と態度にエミリアは少し腹を立てて女医を問い詰めた。カルテを机にそっと置いた女医は、エミリアの方へ向き直る。そして、エミリアのやり場のない怒りは次の言葉でかき消された。
「奇跡が起きない限りは、数日中に死ぬ可能性が高い。だから覚悟はしておきなさい……ということね。本当にごめんなさい、何もできないの。だからせめて奇跡を願ってあげて」
三人になんと言えばいいのかを考えても、悲しみは紛れなかった。女医の言葉が終わらないうちに、エミリアは両手で顔を覆った。悲しみが、そして絶望が、エミリアの頬を伝った。
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