(2)

 不思議な体験をした翌日、あたしは白狼の後ろ姿を観察しながら彼のことを分析した。


 どのクラスにもいる静かで独特の世界観を持った男子。誰とも群れず、休み時間はいつも何かを本を読んでいるような静かな生徒。クラス替えをしてもうすぐ半年経つが、彼と話したのは初めてだ。


 というか、昨日まで彼のことなんて意識すらしていなかった。あたしが陽で彼が陰。うん。その例えがしっくりくる。


 現に白狼は、今朝からあたしのことをあからさまに避けている。朝が来たのに、毛布にくるまってカーテンの隙間からこぼれる光を防御するように、とても迷惑で嫌そうに。そうはさせないんだから。


 授業中、あたしはずっと白狼の所作を観察し続けた。彼がどこかであのシャトルと呼ばれた猫を取り出さないかチェックしていたのだ。だが彼は、板書してある内容をもくもくとノートに書き写すのに夢中で、あたしの視線にさえ気づいていない。


 もしかして、あたしに問い詰められることを予見して今日は持ってきていないのか。そう思った時だった。


 斜め前に見える白狼の机のペンケースが、もぞもぞと動き出した。白狼もそのことに気づいたのか、彼はその現象がなんでもないようにそっと中に手を差し込んだ。そして取り出されたのは。


 ――シャトル!


 やっぱり持ってきていた。白狼はシャトルをペンケースの横に立たせると、再びペンを持った。まるで消しゴム出すような自然な仕草だったので、当然誰もそのことに気づいていない。というより、あの猫のフィギュア自体がキーホルダーのような存在なので、そもそも誰も気にならない。


 シャトルはじっと前を見たまま動かなかった。昨日はフィギュアとは思えないくらいのなめらかな動きで伸びをしたのに、石膏で固めたように動かない。


「じゃあ、今日は五日だから……五番。大崎、国連が千九百四十八年に採択した、」


「世界人権宣言です」


「早押しクイズじゃないんだから、最後まで聞けよ」


 クラスでどっと笑いが起きた。教室内は和やかな雰囲気だが、白狼は相変わらず気怠そうに無表情なのが後ろ姿で分かった。そのくらい、あたしだって。


 その時、白狼の席から視線を感じた。見ると今まで前を向いていたシャトルがこちらに顔を向けている。樹脂でできたような素材でできているくせに、本当に生きているような瞳だ。たまたま白狼が動かしたのか。それとも――。


「白狼。あの女が、さっきから君に色目を使っているよ」


 シャトルは長いひげの伸びた鼻先を白狼の方に向けてしゃべった。


「なんですって!」


 勢いよく立ち上がった瞬間、今まで和やかだった教室内が静寂に満ちた。皆があたしのことを驚いた様子で見ている。


「どうした小宮。お前が答えたかったか?」


 先生がぴりついた空気を元に戻そうとするように言った。途端にあたしは顔が真っ赤になり、「いえ」と言って着席した。


「遠慮するな。なら国連がらみでもう一問。国連が千九百六十六に採択した条約はなんだ?」


 静まり返った教室内の視線があたしに集まる。千九百六十六年? えっと、なんだったっけ……。


「国際人権規約だよー」


 この妙に大人っぽいアニメ声。あたしは白狼の席を見た。案の定シャトルが、あたしの方を見て馬鹿にするように小首をかしげている。


「こ、国際人権規約です」


「正解だ。どっちも国連と人権に関することだから、皆忘れないように」


 クラスメイトが揃って「はーい」と返事をし、授業は再開された。


 それにしても、なんでみんな平気な顔をしているのだ。猫の人形がしゃべったんだぞ。明らかにみんなにも聞こえる声量で。


 あたしは混乱した頭で、ノートの端を破りメモを書いた。


 【今日の放課後、安富商店に集合。バックレたらゆるさない】


 あたしは脅し文句が書かれたメモを、クラスメイトを経由して白狼に回してもらった。白狼はメモを確認した後、窓の外に視線を向けて見せつけるようにため息を吐いた。


「白狼、行きたくないってよ」


「あんたに言ってないのよ!」


 再び静寂に包まれた教室内。さすがの先生も怪訝な表情をしている。


「本当にどうした? 保健室いくか?」


「……いえ。大丈夫です。ごめんなさい」


 あたしは再び赤っ恥をかきながら顔を伏せた。もう白狼の席を見ることができなかった。何故ならシャトルがあたしを見て笑っている声がずっと聞こえていたからだ。

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