旧版 「終ワル世界ノ前日譚」

※旧版のプロローグ。SF要素の荷重積載版とも。



 私は都心にあるクリニックビルの中に入った。

 スマートフォンからは不穏な世界情勢のニュースが絶えず入り込んでくるが、電源を切ることでいったん忘れて、今日やるべきことに意識を切り替える。


 白で統一されたビルのロビーにはいくつものサイネージがあり、そのどれにも美辞麗句で飾られたプロパガンダめいた文言が流されている。


『誰もが労働から解放された自由な世界、U.N.D.E.A.D.はそれを実現します!』


『たった数時間の施術で、世界のどこかで働くあなたが生まれます。嫌な上司と付き合う必要も、理不尽な顧客の相手をする必要もありません!』


『たとえあなたが死んだ後でも、権利は家族に残ります。貴方はアンデッドとなって家族を支え幸せな家庭を守ることができます!』


 『U.N.D.E.A.D.』……何かの略語だったが、もう忘れた。


 まあ要するに、有史以来、人類は資本家の夢というものを実現したわけだ。


 ――アンデッド。給料の要らない従業員。

 人と変わらず動き、人と変わらす考える、しかし人ではない。

 彼らは、求めず、休まず、そして死んだとしてもまた動かされる。

 そのサイクルをネクロマンシーと呼び、管理者はネクロマンサーと呼ばれた。


 ことの始まりは量子コンピューターが生まれたことからだ。

 世界ではより「自我」に対する研究開発が進み、量子コンピューターから更に発展した、非常に人間的な構造を持つ、神経コンピューターが生まれた。

 それまで、20世紀の技術と思考の誤謬によって、人は人間の脳と自我の関係をコンピューターとそのソフトウェアの関係と同じものと考えていた。

 この誤謬はデカルトがその『方法序説』の中に遺した哲学の第一原理「考える故に我あり」からはじまる。

 その論旨の中でデカルトは物体と精神を切り離した。「考える私」は精神そのものであり、思惟そのものである。つまり「考える私」は他の何物にも依存することのない独立した実体であるという事だ。

 ここで言う実体はスコラ哲学における実体であり、我々の直感とはかなり異なる解釈をされている。

 「存在するために他の如何なるものを必要とせず、それ自体で存続するモノ」という、いうなれば無限の実在性を持つ神と同列に並ぶものとしたのだ。

 しかし、デカルトのこの「物心二元論」に対して直感的な批判を行った者がいる。

 フリードリヒ5世の長女、エリザベートだ。

 彼女は若干24歳にして、このデカルトの心と体を分かつという事に異を唱えた。


「では、私たちはどうやって歩いてるのです?」


 私がデカルトの代わりに答えよう。

 人間の脳がしていると錯覚していた自我や心、記憶というものはどこにもない。

 偏在する意識、自我のおおもとは、体が動くという行為それ自体で、生きるという連続した選択行為が残す、神経と筋肉による物理的記録そのものにあったのだ。

 脳がコンピューターであるなら、情報を保存するという事はビット、つまり入力状態を保存するという事だ。

 それはニューロン、あるいはホルモンによる電気的、化学的交換を伴い、熱が発生する。

 そうなれば、パソコンのマザーボードでベーコンが焼けるように、自我が左足と右足を出す順番を考え続けることで人間の脳は沸騰するはずなのだ。

 だが、実際はそうならない。


 我々の肉体と自我の関係は、街を流れる道路と車に似ている。

 道路は年末ごとに大工事で作り替えられたり新しい建物の為にどかされたりするだろう。しかし、道路を通る車にとって、道路の必要性はそこに残り続ける。


 記憶とは脳や体にできた道路であり、そこで何かが行われているわけではない。世界に対する機械的反応が車として通り抜けるだけだ。我々は生きるという反復作業において、いちいち脳の中で火を焚いたりはしない。


 自我とは必要性に迫られて行われた個の選択の結果で出来たものだ。

 それが物理的構造物をのこすなら、自我は再現性のあるものとなる。

 当の本人がすでに存在しないとしても。


 自我とは個の選択の結果であり、選択が自我というソフトウェアを遺す。

 それは肉体というハードウェアと分かちがたく結びついている。

 肉体と自我の間で起こる好悪判断という単純な関係性が生み出す選択の連続。

 その中で、選択の中から生まれた結果のうち、金銭と引き換えにできるモノ。

 資本主義社会において意味あるモノ、生産性のあるモノを「技能」と呼ぶ。

 しかしそれも先の道路と同じだ。構造であれば模倣もできるし再現もできる。

 自我は肉体に紐づけられた実物ではなくなり、情報になった。

 情報なら無限に複製できる。これによって労働の価値は無に等しくなった。


 シェイクスピアは義務を基盤とした封建制度の時代に生まれ、知識と強欲が力となる産業資本主義の狭間を生きた。

 そして彼は『ヘンリー八世』で金銭欲によって転落する者たちを通して、真実や厳格さ、勇気に人の価値を見出した。

 そして資本主義の末期に生まれ、その次の多幸主義とでもいうべき時代に生きる私たちは今、人の価値を問われている。


 人の自我を弄ぶ「ネクロマンサー」になった私は、それまでは小説、『赤い星』の火星人の様なものだった。社会のあるべきビジョンを持ってはいるが、そこに至る方法が無いといった類のものだ。

 しかしU.N.D.E.A.D.という技術が、私にそれを与えた。


 ――人間の行いの原動力となる、人間の意志力には限界がある。

 なら、人間ではないが人間と同じことができる者はどうだ?


 U.N.D.E.A.D.には元となる自我と入れ物となる神経コンピューターがあればいい。

 神経コンピュータの元になる素材はデザインされた合成蛋白質からなる、シンセティックな人造人間だ。内臓こそないがだ。


 方法を与えられた人間は私だけではない。

ネクロマンシーはAI技術と同じで誰でも扱える「技術」だ。

 第3世界で払われた犠牲は少なくない。

21世紀までの人口増の半分はサハラ以南のアフリカのたった6か国で起こった。

1年を12ドルで生活しなければならない貧困にあえぐ人たち、

 そして、彼らが――消えた。

 ユーラシア旧世界とアメリカ新世界においても同様の事が起きた。

国家は巨大な経済主体である。公的債務は600兆ドルを超えた。

 2020年代中頃に起きた世界的なインフレへの嫌悪と拒絶によって、

非金融投資、オフショアに資金が流れることを食い止めることが出来なかった。

 金融抑制によって債務を消すことはできなかったのだ。

そして今年、世界の債務の60%が紙屑になった。

 そして、先進国から生活困窮者、年金生活者が――消えた。


 世界の持続可能性は、その先を奪われた死者たちによって賄われた。

 誰が最初に気づいてしまったのだろう。


 モノがヒトと同じことができるなら。

 ヒトがモノと同じことができてもおかしくはなかったのだ。


 私の頭上にあるサイネージの画面が切り替わり、いつものプロパガンダの代わりに、ニュース速報が流れる。

 

『素晴らしい歓声です!ついに人類は原罪をあがなったのです!』


『もはや戦争で、貴方や家族の血が流されることはありません!』


『『U.N.D.E.A.D.が、誰も死ぬことがない戦争を可能にしたのです!』』



 ――私たちは今、人の価値を問われている。



    ――U.N.D.E.A.D.「死人たちのアガルタ」――

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