第4話 懺悔室よりも救われない場所


ジェシカ・フロイド 彼女はトラオムの首都モルグの外の外に位置する典型的な掃き溜めの町ハイエントに生まれた。


 協会を代々受け継ぐ家系のジェシカだったが、神を信じていたのは母が病死するまで……。


 寝食忘れる程に神を信じ、祈り、願い、何度も、何度も、祈れど、母が病から救われる事はなかった。


こんな暗い世界にも神はいて、助けてくれると思ってた。祈りと献身の果てにエルサレムが降りてくると、私の先祖の教えは正しいはずと、思っていた。


 もう神など、下らない。そう思ったのは父が跡を追う様に病死した時だった。


 ──私は妹を養うために妹をハイエントに置いて、稼ぎにいった。いや、逃げるための言い訳だ。


 あそこで死にたくない。


──いつからだろう協会いえに帰らなくなったのは……。

──いつからだろう頭の中の雑音が聞こえなくなったのは……。


 両親が死んで、生きてる妹さえも、見えなくなってしまったのは……。


 ──いつからだろう。頭の中に奇妙な人が現れたのは……。


その人は腕が6つあって、その全ての手が顔を覆い、まるで縋る様に謝り、泣き伏せていた。


 私はその人に寄り添った。背中を擦り、大丈夫、大丈夫と声をかけた。


 それからの私は時折、おかしな現象に襲われた。


 脳が動いているような違和感と頭痛。

 成長痛みたいな全身の弱い痛み。

 

でも、半年もすればなくなった。むしろ体が軽くなった。まるで別の体みたいだった。


 それに昔みたいな鬱な気分がない!全てが晴々だ!憧れのヨハナさんとも仲良くなれた。


 ──今なら妹に……、妹に……なんだろ?


 私は……誰だったのだろう?あの人は何故、私に謝るのだろ?妹は……、妹は……、妹は……、生きて居るだろうか?




 

  

  ──それは獰猛な風、それは嫉妬に駆られた叫び、優艶な獣がもう一人、駆けつける。

 

「浮気はいけませーーーん!!」声に反応しヴァニタスは瞬時に防御体制を取るが紙の様に飛ばされていった。


 マッテオの視界にはタナトスピルツまみれの天井だけしか映らないがヨハナが来たということだけは分かった。


「起きて、マッテオ」その一声だけでマッテオは先程までの見えない拘束が嘘だったかの様に立ち上がれた。そして真っ先にズボンを履き終える。


 ──僕の中のタナトスピルツに命令したのか。マッテオは改めて状況を確認する。……なぜ全裸だ?なんだこの空間、女性の間では裸が最新のファッションなのか?


「誰ですか?」眼の前の人物にヴァニタス動揺する。施設内の人間は全て記録しているが該当しない。


「不安だったからちょっと前に向こうの角から見てた。そしたら私の夫に胸を押し付けてたり、がに股で下品に腰降って誘惑して……」段々と声が震えていく。ヨハナの目にはまさに浮気とかしか見えなかっただろう。


 ヨハナに殴られる覚悟を……いや、もっとキツイ事になるかも知れない。


「その動き参考になったわ!それはそれとしてマッテオ!私は独占欲が強いの、浮気されたら両成敗するんだから!」


 ──成敗……内容は気になるが今は眼の前の事に集中しなければ……いや、無理だ。ヴァニタスの裸はともかく、ヨハナの裸が気になって集中出来ない。


 「あ、後危なくなったら戻って来てって約束を破った分もあるからね」

 

 ──この後の事がどんどん重たくなっていく。


「分かった……けどなぜ全裸なんだ?」

「負けたくないからよ、私の方がドスケベボディよ!」


 ──何故だろう、頭が痛い。やたらそのドスケベに拘るが意味は理解してるのか?


「夫?まさかヨハナ・ギュルケ!?……未確認の細胞を検知、ヨハナ・ギュルケの生体データに酷似する部分多数……匿っていた女性がアナタだったのですね」


 目が青く光った。言葉から鑑みるに生体スキャンか?だとすればジェシカ・フロイドの頭の殆どは生物工学バイオニクスで改造済みだろうな。


 ──しかし参ったな、状況は最悪だ。


「って!よく見たらフロイドさんじゃない!」


「なぜ裸?モンスタードールになって羞恥心が無くなったのですか」


 アンタがそれを言うか……。


「ヨハナ、彼女はジェシカ・フロイドじゃない。サルバドールのヴァニタスだ」


 ヨハナは目を丸くし何度も僕とヴァニタスを見つめた。理解しがたいのだろうか?それとも良心が彼女を裏切り者と認めないのだろうか?


 「えっと……、どういう事?サルバドールってあの古の画家の?」


「いや、ダリじゃない。彼女は僕たちをずっと騙し続けていたスパイだ」


僕の知る限りでは5年前からコイツはここにいる、つまりはその期間の情報は全部知られてしまった訳だ。


「それは少し違いますよマッテオ・ギュルケ。私はジェシカを殺した訳じゃない、しっかりと生きている。私は今まで映画を観るように彼女の意識の奥底で視聴していただけ、彼女はずっとアナタたち二人を信頼し続けていましたよ」


 尚更たちが悪いな。


「じゃあ、アナタを頭の中から追い出してやればいいのね!フロイドさんとは友達なのよ返してもらうわ」


無理だ、ヴァニタスは別人格を形成すると言っていた。もう彼女はいないはずだ。


「私はこの体に寄生して随分経ちました。故に、この体は本体の権能の一部を行使できるのです」


 ヴァニタスは黒く、赤く、銀色に光る。得体の知れない、液体と金属を混ぜたような物質をバラバラの死体に撒いた。


 それはまるで時間の逆行であり、お伽の話でしか聞かない、祝福、あるいは呪いである。死体は形を成し、その混色の虚ろな影にヨハナは臆し、マッテオは未知の感情を抱いた。


「ネクロマンス!3対2の状況でこの体を傷付けずに勝てるのですか?」


ヨハナは激昂する。こんな事が許されるの?余りにも……生命に対する冒涜よ!人の尊厳を踏みにじる行為よ!


「ヴァニタス……貴方は2つ……いや、3つ?……えぇい!いっぱい、過ちを犯してるわ!一つは私の夫を誘惑したこと!一つは私の友達を弄んでいること、もう一つは私達の力を侮っていることよ!それから……」


 何かヨハナが言っている途中だが死人に口無し、容赦なく撃たせてもらう。


 頭は狙うな心臓だ、的のデカい方を狙う。


 マッテオの持つ7発装填式のリボルバーから2発の弾丸が放たれる。そのメタルな見た目とは裏腹に簡単に吹き飛んだ。泥で出来た木偶の棒の様な死人は僕の足元までに来る事もなく、崩れた。


 ヨハナは僕が発砲した事に戸惑っているようだが……、僕は間違ってない。立ち止まらない。 


「……3対2?あの軍人の様に言うのなら、役不足だな、1にも満たない」


レオン大佐はこんな悍ましい事を何年も何回も繰り返しているんだな。今度来た時には労いの品でも渡そう。きっと、面白おかしい動きをとるだろうな。


 ──ヨハナには悪いがジェシカ・フロイドをここで撃ち殺す。さっきは心臓に撃ち込んだが、今度は頭に撃ち込む。全弾射撃で吹き飛ばす。


「マッテオ!やめて!」


 その一声でまた、体が止まった。今度はヴァニタスじゃなくて、ヨハナに止められた。


「……彼女は人格を作り変えられている可能性が高い、ヴァニタスに服従した人格が……、

だから、殺らなきゃいけないんだ……ヨハナ頼む、僕達のために」


 助ける方法が有ったとしても、悠長に助けてられない、助けてられない、僕達の命の方が大事だ。


「勝手に決めないで!今までは私の決定が全てだったけど、今の私にはなにが最善か分からないけど、でも貴方の手を染める必要はないじゃない」


 とても感情的で非効率的な考えだ。僕の手が汚れるからなんだ、そうじゃなくてもこの両手は既に血に塗れている。


「僕は君との世界しか考えない。必要としない。僕の世界に罪など存在しない、他者など興味無い、他者の命なんかどうでもいい。大事なのは僕と君の世界だけだ」


 そうだ、必要なのは世界。必要なのは二人の命。

どんなモノも掴み取るだけだ。


「なら!私の世界の事も考えてよ!私の世界も含めてよ!一人で全部決めないでよ!私はあなたの妻なんだから!」


その言葉はマッテオ自身の固まった思考を溶かした。妻の言葉は自分自身の世界の欠点を示したのだ。

 

 ──ははは……僕は最低だな。傲慢だった。怠惰だった。君の事をちゃんと考えて無かった、命さえあれば良いと思ってた。


 ──やっぱり、君には敵わないな。


「あらあら、なんだかお熱いですね、ギュルケ夫妻。……それからまだ終わってないですよ」


 気づけばドロドロの赤黒い手がマッテオの両足首をガッツリと掴んで離さない。振りほどけない。


ヴァニタスの悍ましき咆哮はヨハナの動きをピタリと止めた。停止した二人を舐め回すように下から上と眺めてまわる。


「実の所……もう、私の役目は終えている……、いや、終えるはずだった……。

外でイレギュラーが重なってしまってね、ギュルケ夫妻もその一つ……。

新しいモンスタードールの調査をしなくてわなりません」


 ヴァニタスは静かにマッテオに近づく、そして彼は察する。嫌な予感がする。命の危機的な意味ではなく。


「うっへぇ、奥さんの眼の前で犯せるよぉぉ!寝取るよぉぉ!二人で気持ちよくなろうねぇ♡」


 ──予想はしてたが最悪の気分だ、コイツ、股を脚に擦り付けてくるし、わざわざ、後ろにいる、ヨハナにも見えるようにしやがった。


「止めてぇぇ!止めろ!お前!マッテオは私の夫なの!そんなスケベな事していいのは私だけだぁぁ!」


「嫌でぇぇぇす♡」


 ヴァニタスはマッテオの頭を後ろから押さえて強引にキスをした。ねっとりと、舌を絡ませ、長く深いキスをヨハナに見せつけた。


 ぷはぁ〜とお互いに呼吸を取り戻すと二人の舌から唾液の糸がひいていた。


「いやぁぁぁぁぁぁ!」


「んぎもぢぃぃぃよぉぉぉぉ♡」


 ファーストキスを済ませているマッテオにとってはこの程度では動揺しなかった。だが二人のやり取りには疲労していた。


 ──本当に勘弁してくれ……。だが寄生されなかったのはなぜだ?余りコイツに意味を求めてもしかたないか?


 「生体情報獲得……、後はヨハナさんのもあれば完璧」


 そう言って、今度はヨハナに歩み寄る。

 

 ──コイツの切り替わり、激しすぎないか?いや、機械なら、そんなもの……なのか?


「さぁ、ヨハナさん、舌……、出してください」

ヴァニタスはヨハナ頑なに口を閉ざすので代わりに頬を舐める。冷たく固い、なにかが当たる。


「ん〜、完全に命令を通すのは無理ですか」 


 ヴァニタスが止まれと命令を出そうと口を開けた瞬間、口の中に何かが入った。熱く、苦く、血じゃない、鉄の味が広がる。


「おやおや、マッテオ・ギュルケ、とんだハーレムだな。で、そこのフロイドが……マシンドールかね?」


防護服越しだが声で分かる、仲介人のヘイディー・ミュラー大尉、調査隊にいたのか……。

 しかし……さすがは監視役、人の名前を忘れないな。


「彼女はサルバドールのヴァニタスと名乗っている。大尉ならなにかご存知ではないでしょうか」

 

 ミュラーはまだマトモな軍人の……はずだ。だから、アンタも裸にはなってくれるなよ。


「いやはや、今は少佐だよ。

 ……まぁ、しかし、壊れてなかったのだな。

 インパルスのヴァニタス、憐れなシスター。

業に痛苦する精神と業を重ね続ける権能に苛まれて消えていったと聞いたがね」


 ヴァニタスの体が再生する。だが、その度にミュラーは一発、二発と発砲した。


「止めて!」


 タナトスピルツの白い菌の塊がミュラーとヴァニタスの手足を縛る。タナトスピルツの力にミュラーは目を丸くする。


「おやおや、軍は政府だ。政府は国だ。

 国に逆らう、つまりは反逆。

 国家反逆の罪を背負いたいのかね?奥方」


 狂人の鋭い視線にヨハナは気圧されながらも一つの考えを口にする。


「私が寄生し返せばいいんだ!」


 ──軍人はリスクを避けろと言っていた。だが、ミュラーの姉は 夢を見ろ、希望を知れ、楽な方を選ぶな。自分にだけ語ってくれた思想の一つ。亡き姉の言葉とヨハナの馬鹿げた提案に笑いが込み上がる。


「ハハ……ハハハハ!よろしい!ならばそうしよう。日本人みたく甘ったるい考えは嫌いだが、これもまた積み重ね!やる価値ありだ!」


 ヘイディーは部下のアルノーにヴァニタスが復活と新しいモンスタードールの誕生を知らせるように指示を出す。


「先に謝罪を夫妻方。ハルト准尉、二人の腕を刺せ。それから奥方、失敗したら即刻フロイドを始末する!一度きりだ、モノにしたまえよ」


 言いたい事を言い終わると防護服を脱ぎ捨てピチピチのレザースーツ姿のミュラーが飛び出し、ヴァニタスの背後をとる。


「……そうか……アナタはアグネスの弟なのですね。三十年前の邪悪の権化、邪神の代行者、人類悪の弟」


 ヴァニタスはその硬化した腕で攻撃を防ぎ、その刹那にミュラーは突き刺す。まるで踊る狂人と回る人形、ヴァニタスは防戦一方、ミュラーは合金のナイフ一本で踊り回る。


マッテオとヨハナは刺された。その痛みで体が動いた。理屈は理解した、痛みがヴァニタスの命令を上書きして掻き消したのだ。


「そちらに託すぞ!」


「止まりなさい!」


 ヴァニタスの命令はミュラーには効かない。なぜなら既にその左肩に合金のナイフが刺さっているから、痛みと闘争の喜びが迸る彼に彼女の命令は届かなかった。


 モンスタードールでもないのに重く、鋭い一撃がヴァニタスのガードの上からヨハナの方へ吹き飛ばす。


 


 ──ジェシカの体がヨハナの胸の中に飛び込んで来た。そして、ヨハナは受け止める。救うために、頭に触れる。

 

「私の友達の中から出ていけー!!」


タナトスピルツが教えてくれる。

死の化身が力の使い方を教えてくれる。

どうすればいいのか、嘲笑いながらも教えてくれた。


 彼女の中には濃霧が立ち込めていた。

 だが、分かる、進むべき方向が……。


そこには2つの影があった。一つは友の姿、もう一つは異形な人に似たナニカが涙ぐんでいた。


「赦して下さい、セレス様。私を何故…、再起動したのですか?三十年前のあの日に何故…、見捨ててくださらなかったのですか?

 ──お願いです、私は悪になりきれないのです。

 命を、意識を、尊厳を、冒涜し続ける事が苦しいのです。セレス様…。セレス様…。私を…。エラーとバグにまみれた私を……消して下さい。もう、穢したくない」


 泣き伏せている六本腕の人形の司祭はひたすらに切望し続けていた。


「じゃあ、なんで自分で消えないの?」


 ヨハナの声かけにヴァニタスは一瞬驚き、そしてその問いにゆっくりと答える。


「…私のシステムは、人で言う、生殺与奪は全てセレス様が握ってます。あぁ…、私は人を監視するために作られたのです、起動時間は221年と6時間です。

 もう、嫌なのです。人の善いも、悪いも私を救わない。セレス様も救わない。

 お願いします、私を殺して!壊して!人の肉欲に溺れ耽溺してると自覚しながら色欲を貪る壊れた私を消して下さい!」


 ヨハナに縋る彼女にも感じるものがある。でも、それに呑み込まれてはいけないとヨハナは呑まれる前に突き放す。


「煩い!出ていけ!お前なんて知ったことじゃない!知りたくもない!」


 ヴァニタスが徐々に消える。影が崩れていく。


 ヴァニタスは消える最後まで二人に謝り続けていた。


 消えると同時にジェシカは思い出したとつぶやき、ヨハナの両肩を掴む。哀愁と神妙な顔立ちにヨハナは耳を傾ける。


「あの…、ヨハナさん……妹のナタリーに、伝えてください。アナタの姉は…、アナタを嫌ってなどいないと、愛していると、それからアナタを一人にしてしまった不幸をしてしまう不幸を……ごめんなさいと……」


 ヨハナは言ってる意味が分からなかったがその答えは目を開けた先にあった。

 

 もう……、ジェシカ・フロイドはいない。赤い塵芥となってた事実を突きつけられたのだから──。

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