第二章 異世界で「おそうざい食堂」は人々に愛されます
第七十一話 蔡家の術師
建安の都の、北側。
呉陽国の王城・
行けども行けども高く白い塀が続く景観は壮麗だが、どこからどこまでが屋敷の区切りなのかが見分けにくい。
唯一、高い塀からのぞく植栽が、いずれの貴族の屋敷かを判別するのに役立っている。
松が並ぶ
そんな貴族邸区域の東南の角、ひときわ長い塀の内側から、大きな銀杏が空に向かって伸びている。
そのてっぺんの梢が、大きくガサっと揺れた。
「おかあさま、何かいるよ」
ちょうど下を通りかかった近所の貴族の幼子が、母の手を引いた。
「ねえ、銀杏の上に、何かいるよ。大きい鳥かな。おかあさま、車を止めて」
豪奢な
「いけません、ぼうや。ここは
蔡家といえば、幼子でも知っている「とびきりえらい貴族」の家だ。
それなのになにが「いけない」のか、キョトンとしている幼子に、侍女が噛んで含めるように言った。
「いいですか坊ちゃん。今、蔡家には次の王城術師と目されている御方がいるのです。おそろしい魔術を使うという噂ですよ。手当たりしだいに、人を動物に変えてしまう、おそろしい御方だそうです」
「そ、そうなの……?」
「銀杏の木の上には、その術師の使役魔がいるのかもしれません。道行く者を監視しているのでしょう。人間くらいの大きさで一つ目の烏か、尻尾が九本ついた化け猫か……」
「こわいよぅ、いやだよぅ」
幼子はベソをかき、侍女が急いで軒車の窓をぴしゃりと閉めた。
「……一つ目の烏? 化け猫? そんなもん飼っているわけなかろうがっ」
大銀杏のてっぺんで、茂る黄緑色の葉から渋面を出したのは――
遥か下を見れば、使用人たちがわらわらと庭を歩き回っている。
「
「耀藍様! 出てきてくださいまし!」
「耀藍様!
「だから出ていきたくないのだっ」
耀藍はすかさずツッコむ。
「怒っている姉上の前にのこのこと出ていくなど、自殺行為ではないか!」
姉の憤怒の形相を思い浮かべるだけで、心臓が小石ほどに縮む思いだ。
「ああっ!
眼下のどよめきに下を見れば、使用人たちが銀杏の下に集まってくる。
その使用人の輪に、絢爛な赤い紗をまとった佳人が近付いてきた。
佳人は空を仰ぎ、獲物を狙うトラのように目を細め、さらっととんでもないことを言った。
「しようのない奴じゃ。この銀杏、
「
「この銀杏は代々蔡家に伝わる大切な銀杏、伐るのは、どうか思いとどまってくださいませ」
「この大銀杏を伐れば、旦那様からお叱りがあるかと……」
口々に言う使用人たちを見渡し、紅蘭は
「たしかに、そなたらの言う通りじゃ。だが、
使用人たちは顔を見合わせていたが、意を決したようにうなずき合った。
「斧を持ってこい!」
「なっ……落ち着け皆! 伐るな! 姉上の言うことを聞いている場合ではないだろうっ」
しかし、遥か梢のてっぺんにいる耀藍の言葉が聞こえるはずもなく、使用人たちは力を合わせて着々と伐採の準備をしている。
その真ん中で、赤い大妖のごとき美女が、朗々とした声を張り上げた。
「耀藍よ! この大銀杏のぎんなんは、美味であったなあ。そなたの好物でもあったろう? 炒って食すもよし、魚と一緒に、茶碗蒸しに、炒め物に、それぞれ美味じゃったなあ。伐ってしまえば、二度と食せぬなあ」
弟のことを知り尽くしている姉は、勝ち誇ったようににやりと笑った。
「ぐ、ぐぬぬ……卑怯ですぞっ、姉上!!」
――次の瞬間。
今にも大銀杏に斧を入れようとしていた使用人たちの間に、耀藍の仏頂面が座っていた。
♢
「
紅蘭の執務室で、姉弟はいつもの瀟洒な卓子をはさんで向かい合っていた。
「なぜ、と言われましても」
ちら、と耀藍は、姉の顔を見上げる。
姉の赤い口唇は上がっている。
しかし、目は笑っていない。射殺すように耀藍をにらんでいる。
「我は言うたはずじゃ。近くそなたを王城へ召すと遣いがあったと。その挨拶に行けと言うたこの姉の言葉を、聞かなかったとは言わせぬぞ!」
「いや、その……すみません、ほんと」
「あやまって済む問題ではないっ!」
くわっと目をむいた姉は、魔龍も逃げ出す凄みがある。
「
「きのう、きのうはですね……」
――昨日は吉兆楼が休日だったので、
などとは、口が裂けても言えない。怒り狂った姉に八つ裂きにされてしまう。
(しかたないのだっ。だって、だってだな――)
『耀藍様、食堂で使う卓子や椅子を増やしたいんです。そこに、日よけも付けたいと思っていて。あと、落としても割れない木の器を増やせば、子どもたちやお母さんたちも安心して食事ができるかなって。あと、鍋も大きいのを一つほしくて、それから食材もいろいろ見たいですし、あとあと……ああっ、ほしい物がたくさんありすぎるんです! わたし、まだ市場のことがよくわかりませんし、そ、その……耀藍様に御一緒していただけたら、とてもありがたいのですが……』
――などと頬を赤らめて言われたら、断るわけにはいかないじゃないか!
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