第七十二話 召喚の理由


 もちろん耀藍ようらんとて姉の言葉を忘れたわけではない。

 ちょっとだけ香織こうしょくと市場をのぞいてから屋敷にもどろうと思っていたのだ。しかし。


(しかたないのだっ。オレは悪くないっ。楽しすぎる時間がいけないのだっ)


 ちょっとだけ、と思い、事実ちょっとだけだと感じた楽しすぎる時間はあっという間に過ぎたようで、気が付けばとっぷりと日が暮れていた。


「あ、もうこんな時間なんですね! せっかく市場に来たし、お夕飯にお肉かお魚でも買って帰りましょうか。お肉だったら、今日の食堂にいただいた大根と煮付けるのはどうですか? 岩塩と胡椒が手に入ったので、網で大蒜ニンニクと一緒に焼いてもいいですね。お魚だったら、やっぱり新鮮なうちに塩焼きでしょうか?」


 などと花開くように微笑まれれば、王城への挨拶のことなどもはやどうでもよくなったのだった。



「もしや、あの異国の小娘とどこぞに行っていたのではあるまいな?」

「そそそんなことはないです! まったく! ぜんぜん!」

「行っていたのだな?」

「う」


 この姉にウソはつけない。

 姉は異能を持っていないことになっているが、本当は読心術ができるのでは、と耀藍は密かに思っているくらいだ。


「…………見張れとおっしゃったのは、姉上ではありませんか」

「屁理屈を言うでない!」


 ぴしゃりと言われ、返す言葉もない。


「そなたの報告によれば、あの小娘は今のところ害はないのであろう? であれば、優先すべきは王城への挨拶であることは明白!」

「……それはそうですが」

「そなた、やはりあの小娘に惚れておるのじゃな?」


 長椅子の上で耀藍ようらんは飛び上がった。


「ほ、ほほほほ惚れ?! 惚れている?! オレが?! 香織こうしょくに?! そんなわけないじゃないですかっ!!!」

「この期に及んで、まだシラを切るのか、そなたは……」

 紅蘭は頭を抱えた。

「まあよい。どのみち、王城へ入れば会えなくなるのじゃ。別れを惜しむのはかまわぬ。ただし、前も言うたが、男女の仲にはなるな。よいな?」

「……なぜですか」

「今さらそれを聞くか。そなたは王城へ入り、王族の姫と婚姻を結ぶ身だからじゃ。術師のしきたりを忘れたわけではあるまい?」

「そうじゃなくて! オレはまだ十八ですよ。術師として王城へ召されるのは、二十歳であったはず」

「状況が変わったのじゃ」


 紅蘭は瀟洒な金細工の煙草盆たばこぼんの上で、煙管に火をつけた。


「芭帝国の内乱は未だ収まらぬ。その影響は日を追うごとにひどくなる一方じゃ。中でも国境付近の村が、山賊化した芭帝国兵に襲われたり、戦で道が封鎖されて商人の荷が滞ったり、深刻な被害が出ている。王はそのことに御心を痛めており、一日も早く国境付近の安全策を講じたいとのことじゃ」

「それが術師のオレと何の関係が……」

「王は、紛争解決の特使として、そなたをお望みじゃ」

「はっ?! オレ?! オレは術師ですよ?! 外交なんてできませんよ!」


 深紅の口唇から、薫煙くんえんが上品にくゆる。


「……よいか、聞け。そなたは、いわば抑止力じゃ」

「抑止力……?」

「そなたは、歴代蔡家術師の中でも最高と言われる異能を有しておる。その異能は山や川、はては雨をもあやつる神通力と同等――これが王族と正三品以上の貴族の共通認識であり、軍事力では芭帝国に劣る我が国の切り札でもある」


 紅蘭は不敵な笑みを浮かべて耀藍をのぞきこむ。わかっているだろう? という顔で。


「まさか、抑止力とは」

「さよう。そなたは王が芭帝国に遣わす特使と共に会談へ赴き、国境付近の紛争解決および保障条約を結べるよう尽力せよ。芭帝国がごねるようなら、山を崩し川をせき止め、雨を降らせないことも辞さない、という姿勢でな」

 細い指が静かに煙管を叩いた。





 国の大事。

 早すぎる王城への召喚理由はわかった。

 しかし。


「時が悪すぎるだろうっ。そういうことならオレと香織こうしょくが出会う前に召喚しろというのだあのクソバカ王めっ!!」


 芭帝国の内乱が起きて久しい。難民流入や商いの停滞など、影響はもっと前からあったのだから。


耀藍ようらん様? 何か言いましたか?」

 気が付けば、すみれ色の双眸が耀藍を心配げに見上げている。

「やっぱり小英の言う通り、大工仕事は耀藍様にはちょっとアレなのでは……」

「なっ、そんなことはないぞ香織! オレにできぬことはない!」


 そう言ってふるった鉄鎚かなづちは釘の頭を見事に素通りし、木材が渇いた音をたてた。


「耀藍様よう、そんなへっぴり腰じゃ卓子ができる前に日が暮れちまうよ!」

 大工姿のおやじが言うと、作業をしていた者たちがどっと笑った。


 華老師かせんせい宅の庭である。玄関土間から続くこの場所で、男たちは食堂に使う新しい長卓子を作っているところだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る