第1話
水の国ピュアラ──。
創造と再生の女神イシスを信仰する世界最大の宗教国家。
この国に“王”という概念はなく、最高指導者として“法王”が存在する。
法王の元には20人の
彼らは、外交や財政の管理を執り行い、必要に応じて地方へ巡礼も行う。
中でも、国内のもめ事や厄介ごとを解決するために派遣される枢機卿を“カルド”と呼び、法王から絶大な信頼を得ていた。
この日も、カルドのライル・クレーバーが法王から呼び出しを受けていた。
ピュアラの首都ミュッヘンの中央に位置する中枢院。
そこに、この国の最高指導者がいる。
しかし、ライルが呼ばれたのはいつもの法王の間ではなく、離れにある一室だった。
普段は、法王が私用で使うような場所だ。カルドとはいえ、このような場所に呼ばれることはない。
他の枢機卿の姿もなく、ライルは一人、緊張の面持ちで扉の前に立っていた。
頭の中は不安でいっぱいだった。
深く深呼吸して、扉をノックすると中から「入れ」という声がした。
「失礼いたします」
深々とお辞儀をして扉を開けると、法王が大きな机の向こう側に座っていた。
白いマントを羽織り、頭には立派な冠をはめている。
肉厚な顔をしているものの、逆光でその表情はよく見えない。代わりに、研ぎ澄まされた眼光が睨み付けるように彼を見つめていた。
ライルはごくりと唾を飲み込んだ。
「お呼びでしょうか、法王様」
震える声でそうつぶやくと法王は
「扉を閉めて中に入りたまえ」
と言った。
「は」
恐縮しながら扉を静かに閉め、法王の座る机の前に立つ。
ライルを見上げるその顔は、いつも以上に険しいものだった。
その顔を見た瞬間、彼は不安が的中したのを感じた。
これは、他の枢機卿には知られてはならない極秘事項、それも極めて重要な案件であることを物語っている。
「ライル卿、君はカルドに任命されて何年になるね?」
「は……、4年と8か月になります」
「では、前任のカルドが誰だったか、知っておるかね」
「あの魔王を倒した勇者の一人、と伺っております。会ったことはありませんが」
「そう、聖女シルビアだ」
聖女シルビア。
女神イシスの生まれ変わりとも称されるほどの偉大なる人物。
ライルは彼女の伝説を嫌と言うほど聞かされている。
ありとあらゆる傷を一瞬で治す万能の力を持っていたという。
魔王出現前に起きた宗教間での争いの際、彼女の癒しの力が敵味方に関係なく降りそそぎ、すべての兵士を治癒し、そしてそれがきっかけで戦争が終結したというのはあまりにも有名な話だ。
聖女の名はそこからつけられている。
彼女の起こした奇跡は数知れず、多くの人々がそれを目撃している。
中には、死んだ者を生き返らせたという突拍子もない話も伝えられているが、聖女シルビアならばあり得なくはないとさえ人々は思っている。
それほどまでに、彼女はピュアラの民たちから尊敬され、神のように崇め奉られていた。
「同じカルドとして、お会いしたいとは思っておりましたが…」
彼女がカルドの地位を捨て、行方をくらましたことについては様々な憶測が飛んだ。
各地を巡礼し多くの人々に加護と祈りを捧げるためだとか、イシスの教えを広めるため海を渡り、別の大陸で布教を続けているだとか。法王がその地位を守るため彼女を追放したという陰謀説まで飛び交っているが、法王はそれを一笑に付している。
真相は結局わからず仕舞いだが、聖女シルビアがいなくなってカルドの地位が空いたことに変わりはなく、その空席にライルがおさまった。
ライルはカルドになって何かと彼女と比較されがちだが、気にしたことはない。
聖女と比べられたら、優れているところなど一つもないことぐらい自分でもわかっているからだ。
それよりも、与えられた役割を確実にこなすことが、彼にとって重要であった。
「ふむ、そうか……」
法王はそうつぶやくと、しばらく沈黙した。
常に威厳に満ち溢れた法王の苦しそうな表情を、ライルは初めて目の当たりにした。
嫌な予感しかしない。
法王は視線を落としながら言葉を続けた。
「これから話すことは、他言無用だ」
「はい」
ピリッとした空気が流れる。ライルは全神経を集中させた。
「先日、山火事によって焼失した村があったであろう」
「はい、ピュアラのはずれ、ラバ地方の小さな山村ですね。残念ながら、生存者は誰もいなかったとか……」
「火事によって死体の損傷も激しく、男女の見分けがつかぬほど酷い有様だったときく」
「原因はいまだ不明ですが、夜間に起きたようで逃げる間もなかったのでしょう。残念でなりません」
「実は、その山火事を引き起こしたのが聖女シルビアであるという情報がワシのもとへと届いておる」
「は……?」
思わず、間の抜けた声を出してしまった。
法王が何を言っているのか、理解できなかった。
「しかも、村人は火事の前にはすでに死んでいたとも。山火事は、村人たちの殺害を隠すための工作だった可能性が高い」
「な、何をおっしゃっているのか、さっぱり……」
戸惑いを隠しきれない様子で法王の顔をまじまじと見つめる。
(村人はすでに死んでいた? しかも、それを隠すために聖女シルビアが山火事を引き起こした?)
法王でなければ殴り飛ばしていたであろう。
その言葉だけで、立派な侮辱罪が成立する。後にも先にも、聖女を貶めるような発言は国の威信にかかわる。
しかし、目の前の偉大なる最高指導者の苦渋の表情は、それが真実であることを物語っていた。
これがピュアラの民たちの耳に入ればたちどころにイシス教の権威は失墜する。
「何かの間違いではありませんか?」
ライルは聞かずにはいられなかった。カルドとはいえ、法王に意見を述べることは許されていない。しかし法王は咎めるでもなく、言葉を続けた。
「いや、間違いではない。その筋の確かな情報だ」
「どの筋かは存じませんが、それはあまりに荒唐無稽な話ではありませんか? 私にはとても信じられません」
「ワシが嘘をついていると申すか?」
「………」
ライルは口を閉じた。
カルドは法王の言葉に疑いを持ってはならないのだ。
「まあ、おぬしの疑念もよくわかる。ライル卿に限らず、聖女シルビアはこの国の民たちにとって神に等しき存在じゃからな。そこで、じゃ。法王として任命する。ラバの地へ赴き、真実を突き止めよ」
「ラバの地へ?」
「虐殺があったのかどうか、調べてくるのじゃ」
「かしこまりました」
ライルは頭を下げた。
一筋縄ではいきそうにない事案であった。しかし、真実を突き止めねば聖女シルビアの汚名は晴れそうにもない。
「この件はおぬしと、この情報をくれた者に託す」
「………? それは、山火事を引き起こしたのが聖女シルビアであると法王様に進言した者、ということですか?」
「そうだ。すでにその者には話はついておる。おぬしはただ合流するだけでよい」
「は……」
小さく返事をする。
正直、あまり会いたいとは思わない。
聖女シルビアを陥れる輩かもしれない。
「言っておくが、これは非常に重大な問題だ。もめ事は困るぞ。互いに信頼し合わねば、解決できるものも解決できぬ」
「は、はい……」
ライルは心の内が読まれたと思い、うつむいた。
法王は、何もかもお見通しのようだ。
「その者はこの地図に書かれた場所におる。すでに出立の準備は整っておろう。急な話ですまぬが、この件は早急に解決させたい。いますぐ旅立ってくれぬか」
「かしこまりました」
ライルは頭を下げて地図を受け取ると、退室した。
カルドであるライルにとって、法王の意図は容易に汲み取れた。
この事件が公になる前に真実を突きとめ、本当に主犯格が聖女シルビアであるならば人知れず抹殺せよということだ。要は暗殺である。
(とんでもないことになった……)
ライルは、自分が国の命運を左右する立場に立たされたことを実感した。
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