第36話 大きな家には秘密がある

 翌日は乃愛が家庭教師係を担当する番だった。家庭教師と言っても、家に赴くのは慧斗けいとの方なのだけれど。

 彼女は相変わらず大きな部屋で、相変わらず甘やかして教えてくれる。おかげで向上心がグングンと芽生えるのだけれど……。


「うーん」

「どうかされましたか?」


 ただ一つ問題があるとすれば、部屋が広すぎて落ち着かないということくらいだ。

 しかし、これが意外と集中力を欠いてくる。普段の生活スペースよりも、縦も横も何倍も空間があるのだから仕方がない。

 何とか勉強だけに目を向けようと努力していると、そんな心中を察してくれたらしい乃愛が「場所、変えましょうか?」と聞いてくれた。


「狭い部屋があるんです、そっちの方が勉強に身が入るかもしれませんね」

「そんなのあるの?」

「はい、地下に」

「……地下に?」

「床が石で出来ていて、少し寒い場所ではありますが広さはちょうどいいかと」

「まさかとは思うけど、扉が鉄格子だったりしないよね?」

「よく分かりましたね」

「いや、それ牢屋じゃん」


 御屋敷もここまで大きくなると地下に牢屋を持つものなのだろうか。

 興味がないと言えば嘘になるが、勉強をするために投獄されるのはさすがに御免だ。

 甘やかし教育も解けるまでは出られないスパルタ教育に変わってしまいそうな恐ろしさを感じるから。

 ……まあ、Sっ気のある乃愛もありかもしれないとは思わないこともないけれど。


「昔は屋敷に侵入した不審者を閉じ込めていたそうです。もちろん、警察が来るまでの短い時間だけですが」

「逃げられたら困るもんね」

「はい。まあ、脱獄したところで生きて敷地外に出られるとは限りませんが」

「……」


 慧斗は乃愛の黒い部分を垣間見てしまったような気がして、そっと目を逸らした。

 確かにこれだけの大きさがあれば、ちょっとやそっとの警備では足りないだろう。狙われやすさも考えれば尚のこと。

 ハマったら自力で逃げ出せないアリジゴクのような罠があっても、何ら不思議では無いのかもしれない。

 ここの庭では絶対に走り回らないようにしよう。命が惜しいから。


「そんな不安そうな顔されなくても、慧斗さんを罠に落とすなんてことはしませんよ」

「それならいいんだけど」

「落とす罠があるとすれば……それはハニートラップくらいですかね」

「え?」

「ふふ、冗談です♪」


 クスクスと笑う彼女に胸が跳ね上がる。その言葉が冗談だとしても、騙されてしまいたいと思ってしまった。

 けれど、きっと乃愛にとっては楽しいコミュニケーションのひとつでしかないのだろう。

 慧斗はなるべく顔に出さないように意識しながら、笑ってみせることしか出来ない自分が少し情けなく思えた。


「それで、牢屋で勉強しますか?」

「……いいや、ここで大丈夫」

「そうですか。せっかく鬼看守ごっこが出来るチャンスかと期待したのですが」

「よし、牢屋に行こうか」

「冗談ですよ?!」


 本気で慌てる彼女に慧斗も「こっちも冗談だよ」と返して二人で笑い合う。

 過剰な期待はしない、それが今の関係を長続きさせる秘訣なのだろう。

 いつまでも今のままでいたい訳では無い。けれど、もうしばらくは何も壊れない状態をキープしているのも悪くないと思えた。

 慧斗にとって乃愛と過ごす時間はそれだけ楽しく、大切にしたいものなのだ。


「では、そろそろ続きを解きましょうか」

「そうだね」

「次はこの問題をお願いします。あと三問解けたらおやつ休憩ですからね」

「頑張れそう」

「偉いですよ」


 それに、この快適な甘やかし教育環境の幸福感にもうしばらく浸っていたい。彼の全細胞がそう告げていたから。

 せめてテストを乗り越えるまでは、満喫させてもらおうと頭を撫でてくれる優しい手に頬を緩める慧斗であった。

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