第20話 うたた寝からの寝起きは口元に注意

「……んあ?」


 心地よいうたた寝から目覚めた秋葉は、寝ぼけ眼でぼんやりとした視界を見つめる。

 徐々にハッキリとしていく目の前の景色。そこに映るものが何なのかを理解した瞬間、肩をビクッと跳ねさせた。


「すぅ……すぅ……」

「ね、寝てるのね」


 そこに居たのは誰よりも見慣れた顔。自分と同じように、カーペットの触り心地の良さに負けてしまったらしい。

 彼がお腹をかきながら零した吐息が、秋葉の鼻先を撫でる。自分の吐息もかけてしまうのではないか、そんな心配をする程にお互いの距離は近かった。


慧斗けいと、起きてないわよね?」


 控えめの声で確認してから、早まる鼓動を落ち着かせようと深呼吸を数回。

 頭の中では乃愛のあに慧斗のことが好きなのではないかと指摘された時の記憶が、ぐるぐると忙しなく駆け巡っていた。

 自分はやはり彼のことが好きなのだろうか。未だに完全には納得出来ていないその言葉の真偽を確かめるかのように呟いてみる。


「慧斗、好きよ」

「すぅ……すぅ……」

「好き。好き好き好き」

「すぅ……すぅ……」


 聞こえていないのをいいことに何度も繰り返していると、恥ずかしさとは違う顔の熱さを感じた。

 彼のことを好きであるということを確信していく自分が少し怖くて、同時にすごく満たされるような感覚も覚えている。

 ものすごく不思議だった。かつて、これほどまでに人と触れ合いたい、引っ付いていたいと思ったことは無かったから。


「慧斗……」


 その時、秋葉の頭の中に悪い考えが浮かんできた。夜中に忍び込んだあの日と同じだ。

 眠っているのなら何をしてもバレない。バレないのならしていないのと同じ。そんな悪者の思考が彼女の脳内を支配し始めている。

 目の前に好きな人の唇があるのなら、今のうちに重ねてもバレなければ問題は無い。そんな考えから抜け出せなくなってしまった。


「慧斗、起きないとやるわよ……?」


 軽く唇を突き出し、ゆっくりと顔を近付けていく。昔はこんな距離は当たり前だったと言うのに、体だけでなく心まですっかり大人になってしまったのだろうか。

 秋葉は今にも熱さで顔を火傷してしまいそうだった。こんな顔、誰にも見せられない。

 そんなことを思いながらも進み続けた唇は、その距離数cmのところまで迫り、後は思い切るだけで重なる。

 例の件があってから慧斗は自分と二人きりになる場面を少し避けている節がある。こんなチャンスはいつまた回って来るか分からない。

 ……けれど。もしかしたらこれが最後かもしれないと分かっていても、こんな卑怯な手を使った自分は明日から普通に笑える自信がなかった。

 ぎこちない笑顔で慧斗と接し、気まずくなって距離が開き、やがて完全に話をしなくなる。そんな未来は絶対に嫌だ。


「……ダメよ、私」


 だから、何とか寸前で思い止まって体を起こした。キスをするのなら、正々堂々と正面からしなければ意味が無い。

 そんな乙女心に救われた節がないと言えば嘘になるのかもしれない。変わったこだわりも捨てたもんでは無いのだろう。

 そんなことを思っていると、乃愛が何やら済ました顔で部屋に入ってきた。どうやら夕食の時間を知らせに来てくれたらしい。

 それだけなら問題は無いのだが、タイミングがタイミングだ。彼女のそれは、まるで一通り見てからドアを開けたように思えた。


「あなた、見てたんでしょ」

「さあ、なんのことでしょう」

「……誤魔化したって顔に書いてあるから」

「そうであったとしても、あなたは踏み止まった。私に切れる手札は生まれなかったわけです」

「手札?」

「寝込みを襲う人間を、好きになるわけないじゃないですか。そのヨダレまみれの口も含めて」


 そう指摘されて初めて、自分がヨダレを垂らしながら眠っていたことに気がついて慌ててハンカチで拭う。

 その直後、眠そうに体を起こしながら「何か話してた?」と聞く慧斗に、二人が何でもないと誤魔化したことは言うまでもない。

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